第2話 女王の城


「あ、あの」

「なんだよ」

「ここは……なんですか?」

「見れば分かるだろ、下水道だ」


 私はあの男の人につれられて、今は「げすいどう」にいるみたい。なんだか聞いたことがある言葉だけれど、どんなところなのかよく分からなかった。だって不思議の国のアリスにげすいどうなんて出てこないもの。

 男の人が道に落ちていた丸い板みたいなものを動かして、そうしたら地面に穴が空いていた。その中に降りるように言われたから、どれくらい深いのか覗き込んで、木でできた梯子がかかっていることに気付いて。中は真っ暗で怖かったけれど仕方がないからゆっくり降りた。地面に足がつくのは意外と早くて、あと地面は土じゃなくてレンガ造りみたいだった。すぐ近くで水の流れる音がしている。そしてその水音のする方からなんともいえない気持ち悪い臭いがただよってくる。

「げすいどうって……なんですか?」

 梯子で降りてこようとしている男の人にそう尋ねた。彼は呆れ顔になってこちらを振り返ったが、それには答えず穴をふさいでいた丸い板を片手で引き寄せる。

「ああ、危ないから動くなよ」

「え……っ!?」

 何が危ないのか疑問に思う間もなく、かたりと軽い音がして辺りは暗闇に包まれた。また穴をふさいだらしいが、こんなに暗くては進む道も分からないではないか。足がすくんで動けずにいると、梯子を降りてきた男の人の声が近付いてきた。

「どこにいるんだ? あんまり端に行くと水路に落ちるぞ」

「灯りはないんですか」

「そんなもん持ってたらとっくに点けてる」

「でも、こんなに暗かったら……きゃ!」

 男の人の足音がまっすぐ近付いてくるのに思わずゆっくり後ずさろうとしていたのだが、彼は真っ暗で見えていないはずの私の腕をまた強引に掴んで引き寄せた。よろけた私は彼の服に掴まってどうにか転倒を免れる。

「だから、端に行くなって言ってるだろうが。ここの水路、結構深いんだから」

 男の人の呆れた声に返事をすることができなかった。どうやら水路に落ちようとしていた私を助けてくれたみたいだ。

 ここは今まで以上にこの人の言う通りに動いたほうがいいかもしれない。まさか暗闇の中でも見えるというわけではないだろうけど、この人はまるで見えているみたいに動いているし。私がしばらく黙っていると、男の人は私の腕をさっきまでよりも少し優しく引いた。



 「げすいどう」の中をゆっくり進んで、気持ち悪い生臭さにだんだん鼻が慣れてきたころだった。男の人の足音が止み私も足を止める。掴まれていた腕が解放された。

「……あったあった」

 彼がぽつりと呟く声が聞こえて、次になにか金属にぶつかるような音がする。その音がだんだん上にあがっていくのでまた梯子だろうかと思い視線を上に向けた。こんこん、とノックをする音がしたかと思うと、突然天井から白い光が降ってきてあまりの眩しさに反射的に目を閉じる。

「ラン!」

 光の次に天井から降ってきたのは女の人の声だった。そっと目を開けてもう一度天井を見上げるが、明るさに慣れない目は人影をぼんやり捉える程度だ。

「待っていましたのよ! いつまでたっても帰ってこないのですもの」

「ちゃんと連絡しただろ?」

「それはそうですけれど」

「けど、なんだよ」

「この間みたいに大怪我して動けなくなっていたらと思うと、どうしても心配ですわ」

「大怪我ってそれ、何年前の話だよ!」

「……ルノといいあなたといい、今日はどうしてそんなに機嫌が悪いのです?」

「知らねえよ」

 男の人と口喧嘩を始めた女の人をぽかんとして見上げているうちに、だんだん視界が明瞭になってきた。逆光で顔はよく見えないが、細身でショートカットの女の人だ。梯子の途中まで登った男の人と言い争いを続けている。

「それでルノはどうしましたの」

「知るか」

「アリスを連れてくると連絡を受けましたけれど?」

「だから知らねえって! あいつはアリスを放ってどこかに行っちまったんだよ」

「まあ、それではアリスはまた奪われてしまいましたの?」

「アリスなら連れてきた。見えるだろ、そこにいるよ」

「え? ……あなたが、アリスですの?」

 男の人がこちらを振り向いて私の方を指さす。すると女の人は身を乗り出して声をかけてきた。私は慌てて軽く会釈をする。

「あ、はい。そうです」

 そう言ってから、この人たちはマスターを殺そうとしている悪い人たちだということを思い出した。いけないいけない、もっと気を張って逃げるタイミングを逃さないようにしないと。男の人が女の人に何か短い言葉をささやいて、梯子を登り地上に出て行く。女の人は一度身を引いてからもう一度乗り出して私の方を向いた。

「アリス、登っていらして」

 ささやかな反抗として返事はしなかったが、真っ暗な「げすいどう」にいつまでもいるわけにはいかず私は梯子を登っていく。逃げられないとか真っ暗で怖いとかだけではなく臭いも非常に気になるのだ。足を踏み外さないように気をつけながらゆっくり登っていくと、たくさんのバラの花が視界に入ってきた。

「まあ!」

 梯子を登りきるか登りきらないかのうちに、女の人が非難の声を上げる。私が振り向くと彼女は男の人の方を向いて声を荒げた。

「ラン! か弱い女の子をこんなに汚れるまで引きずり回すとは何事ですの!?」

「泥だらけなのは俺のせいじゃねえよ!」

 そういえば、服は泥だらけだった。朝日の光に照らされるとその惨めな姿がはっきりと分かって恥ずかしさを覚える。

「なにも下水道のような危なく不潔なところを通ってこなくてもよろしいでしょう!」

「ルノに言えよ! ちゃんとそれを考えてあいつが連れて行くって話だったのにいきなり消えやがったんだ!」

「責任転嫁は感心しませんわね」

「転嫁してねーっての! もともとあいつの責任だよ!」

 二人が口論しているあいだに逃げられないかと思い辺りを見回してみる。足元は一面芝が敷かれていて、背の高い植物はすべて白いバラの木だ。それも結構背の高い木で、私の背丈と同じくらいあるので背伸びをしないと向こうに何があるのか見えない。ちなみに、背伸びをしてもバラの木ぐらいしか見えなかった。



「女王の城……」



 ぐるりと一回転して、私の口から漏れたのはそんな言葉だった。バラの木のもっと向こうに見えたのは、白くて大きなまるでお城みたいな豪邸だったのだ。

「アリス」

 豪邸を見上げていた私を、口論を止めたらしい女の人が呼ぶ。

「わたしのことを覚えていますかしら?」

「……いえ」

 彼女はにこりと笑ってそう言ったのでとりあえず記憶を辿ってみるが、会ったことはない。人形劇に大人が来ていれば目立つから覚えているだろうし、彼女に人形劇を見せに連れてくるような子供がいるとはとても思えない。薄い青のショートヘアに緑の瞳の、まだ20代前半ぐらいの綺麗な女性だ。よく見ると身にまとう服は豪華なレースや刺繍で飾られていてかなり高価そうである。それもごてごてに飾りつけてあるわけではなく上品な感じにまとまっていて、そしてすごく似合っている。

「初対面だと思いますけど」

「そうですか? わたしの気のせいかしら」

 私が否定すると、女の人はちょこんと首をかしげてちらりと彼女の後ろで不機嫌そうな顔で手持ちぶさたに立っている男の人の方を見た。明るいところで見ると、確かに男の人の髪の色は茶色だった。ただ茶色と言ってもかなり濃い色で焦げ茶色と表現するほうが正確だ。動きやすそうな服装をしていて、頭と右腕に彼の目と同じ色である暗い赤の布を巻いている。ただ怪我をしているのか左腕には包帯が巻かれていた。

 まさかマスターがやり返したのかな、と思って男の人をぼんやり見ているとどこか別のところを見ていた彼がふとこちらを向いたので私は慌てて目を逸らす。

「ラン、あまりアリスをいじめないでくださる? 怯えているじゃありませんの」

「は? いや別に俺は何もしてないし」

「いま睨んだでしょう」

「睨んでねえよ!」

「まあ怖い、そんなに声を荒げたりして」

「キャロだってさっきこれぐらい叫んでただろ!」

「さあアリス、あんな怖い人は放っておいていきましょう」

「え、あ、はい……?」

 女の人がまた男の人と口論を始めたかと思うと、突然私の方を向いて私の肩にそっと手を置いた。そのにこやかな笑顔に思わずうなずいてしまう。

「おいこら、待てよ!」

 男の人が声を上げるのを完全に無視して、女の人は私の手を取るとお城……じゃなくて豪邸の方へと歩き出した。バラの木は迷路のように私たちを取り囲んでいたのだが、女の人は迷うことなくすいすいとその中を進んでいく。少し距離があるように感じた豪邸へは意外にすぐたどりつけそうだ。

 男の人が気になって後ろを振り向くと、彼はうつむいてゆっくり後をついてきているようだった。バラの木の向こうに焦げ茶の頭がのぞいている。私が彼を気にしているのに気付いたのか、女の人は私の手を引きながらくすりと笑った。前を向いて彼女の顔を覗くと、彼女は私を見て少し寂しそうな顔でささやく。


「困ったものですわ。失敗する度にああやってあたりちらすのですもの」


 「失敗」がなんのことか身をもって知っている私は、何も答えることができなかった。

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