第2話 女王の城 --2


 女の人はキャロル・スウィフトと名乗った。彼女に手を引かれて女王の城みたいな豪邸の玄関までくると、きっちりスーツを着込んだ二人の30代くらいの男性が走り寄ってくる。

「お嬢様! また勝手に屋敷の外に出られたのですね!?」

「早くお部屋にお戻りください、このことが旦那さまに知られたら……!!」

 男性達は丁寧な言葉遣いを崩さないまま、キャロルさんを叱りつけるように大声を出した。思わず身をすくめる私の様子を見て、キャロルさんは形のいい眉をひそめる。そして男性達に負けないくらい強い口調で言い返した。

「ほんの少し散歩をしていただけですわ。お父様は本家にいらっしゃるのですから、黙っていれば分かりません。それよりも、早く玄関を開けてくださらない? ほら、この子だって怯えているではありませんの」

 キャロルさんが私の方に目線を送るのにつられて男性達の視線が向けられる。髪も手足もエプロンドレスも泥だらけで、とても人前に出られる格好ではない私は頬がかあっと熱くなるのを感じでうつむいた。

「? お嬢様、この娘はいったい……」

 片方の男性はキャロルさんの言葉でようやく私の存在に気付き、顔を見なくても困惑した表情が浮かんでくるような声で彼女に説明を求める。どう説明すればいいのだろうと迷う間もなく、キャロルさんは既に用意していたらしい嘘をすらすらと口にした。

「すぐそこで不審な男に襲われていましたの。男はすぐに逃げてしまったのですけれど、まさか汚れた服のままで帰らせるわけにはいきませんでしょう」

「そうですか、それではメイドに服を用意させましょう」

「ええ頼みますわ。お風呂の準備もね」

 男性達はキャロルさんの嘘を疑うこともなくあっさりと納得してしまう。


 ラン、と呼ばれていた男の人の姿もいつの間にか見えなくなっていたし、何よりも男性達の態度からきっと彼らはマスターや私のことを知らない。だから心のどこかで、彼らが私のことを不審に思ってキャロルさんを問い詰めてはくれないかと思っていたのだが、それは無理そうだ。ここでこの豪邸の中に入ってしまったらもう逃げるチャンスはないかもしれない。マスターはきっとまだ私を探してくれていると思うから、早く逃げ出してマスターを探さないといけない。

 そう思うのに、なぜか泥だらけの私の手を包んでくれているキャロルさんの暖かい手を振り払うことができなかった。


 大きな扉が開かれると、外見以上にお城のような豪華に飾りつけられたホールが現れた。本当はホールではなくただの玄関なのだけれど、今までに見たことのない豪邸は私の常識をはるかに超えていて理解が追いつかない。ここはおそらく彼女の家なのだろうから当然だが、キャロルさんは堂々と広い玄関の中を歩いていく。扉を開けた男性が私たちを早足で追い越していって、玄関 の扉ほどではないにしても通常サイズよりは二回りほど大きい扉の中に入っていった。それから間を置かずにその扉からメイドさんが4人出てきて、キャロルさんに恭しく頭を下げる。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

「ただいま。この子をお願いしますわ」

 キャロルさんはメイドさんたちににこりと微笑んで、後ろにいた私の背中に手を回してメイドさんたちの方へ押しやった。突然のことで反応できない私は、小さく情けない悲鳴をあげる。

「おまかせください」

 だがメイドさんたちは困惑した様子を一切見せず、私の腕を取って玄関の奥のまた別の扉の方へと向かった。振り返ってみると、キャロルさんはにっこり微笑んでひらひらと手を振っていた。

 てきぱきと動くメイドさんたちに連れられて小さな部屋に入る。小さいといってもそれは先程までいた玄関ホールと比べたがゆえの言葉で、もちろんかなり広いものだ。奥の方に足を拭くためのマットと湯気で曇ったガラス戸があるから多分そっちがお風呂場で、こっちが脱衣所なんだろう。

 備え付けられた小さな手洗い場の蛇口にまで細かく装飾されているのを眺めていたら、メイドさんのうち少し年配の方が私に近付いてきてうやうやしくお辞儀をした。慌ててぺこりとお辞儀を返す私に、メイドさんはにこりと笑ってこう言った。

「失礼いたします。お着替えを手伝わせていただきます」

「え? えっと、あの……?」

 困惑している私をよそに、メイドさんは私の方に手を伸ばしてしゅるりと胸元のリボンをほどく。そういえば、お風呂に入るとか言っていたような。

「待って、ちょっと待ってください! あのっ、私は今からお風呂に入るんですか?」

「はい」

「でしたら自分でできますから、一人にしてください!」

 女の人とはいえ他人に服を脱がされるのはいやだ、耐えられない。真っ赤になった顔をぶんぶんと勢いよく横に振り、メイドさんの手を払いのけて後ろに下がると、彼女は困り顔になった。

「ですが、私どもはキャロルお嬢様に仰せつかっておりますので」

「じゃあせめて、あっちを向いていてください……!!」

 恥ずかしさのあまり目に涙がにじんできたのを感じながらそう叫ぶと、メイドさんたちは少しためらった後で黙って一礼し部屋から出て行った。さっきの年配の方ともう一人のメイドさんだけが部屋に残ったけれど、私に背を向けてくれたので私も二人に背を向けて服を脱ぎ始める。

 それからも体を洗おうとしたり、服を着せようとしたりしてくるメイドさんたちをなんとか振り切って、私は用意された白いワンピースに袖を通した。そのワンピースはレースやフリルがたくさんついていてなんだかふわふわしていた。アリスのエプロンドレスはあまりそういう派手な装飾がついていなかったので落ち着かない。


「あら、似合いますわね」

 メイドさんたちに連れられてお屋敷の奥の方の部屋に入ると、大きなベッドに腰掛けていたキャロルさんが開口一番にそう言った。恥ずかしいし、何よりそれで少しでも喜んだりしたらマスターへの裏切りのような気がして、私は黙ってうつむく。

「こちらへいらっしゃい。お話しましょう」

 キャロルさんが立ち上がり、私の手を握った。私を連れてきたメイドさんたちはそれを見るとすぐに一礼して部屋を出て行く。そこで私はようやく彼女達はただの道案内ではなく私が逃げ出さないようにするための監視役であったのだと気がついた。

「……どうして、マスターのところへ返してくれないんですか」

 口を開くと、自分でも驚くくらい低い声が出た。キャロルさんがそれを聞いてふっと真面目な顔つきになり、私の手を握ったまま再びベッドに腰掛ける。私も引っ張られるままに彼女の隣に座った。

「今からお話ししますわ。……アリス、まず最初にどうしても知っておいて欲しいことが二つあります。

 一つは、わたしたちにあなたを傷つける意図はないこと。

 もう一つは、おそらくランが誤解させるようなことを言ったと思いますが、あなたの『マスター』を殺そうとしているわけではないこと」

「でも……ランさんは、マスターに殺すってはっきり言ったわ!

 それに、何か、武器も持っていたみたいだし」

「それは単に脅しているだけで本気ではありませんわ。そもそも彼にもしものことがあった場合、わたしたちの目的は達成できなくなりますもの」

 キャロルさんの目がふいに陰りを帯びた。私はなぜか口ごもってしまって、溜まり溜まった不満や疑問を飲み込んでしまう。

「武器を持つのは自分の身を守るためですわ。彼を敵に回すなら、最低でもナイフだけは持っていないと命を落とすのはこちらです」

「……え?」

 どうしてだろうか。急に、キャロルさんの言葉が理解できなくなった。命を落とすって、どういうこと?


「実際、ランもルノも何度か彼に殺されかけています」


 その言葉はまるで別の世界から聞こえるみたいに遠く遠く響いた。一時的に麻痺した頭に思考力が戻ってから、私はその場面を創造してみる。あの優しいマスターが、ルノさんやランさんを殺そうとする? 私を大切に抱きしめてくれたあのしわくちゃの手が、凶器を握る? 思い浮かんだ光景のあまりの馬鹿馬鹿しさに私の頬は緩んだ。

「……やっぱり、人違いですよ。私のマスターにはそんなことはできません」

 キャロルさんの目をまっすぐ見てそう言い放つと、彼女は表情を変えずにため息をつく。それから私の手を離し、視線を私から自分の手元に移して小さい声で囁くように言った。

「人形には優しいけれど、人間に対しては別人のよう……というのは考えられません?」

「私のマスターは劇団の人ともお客さんの子どもたちとも仲良くしています」

「それは『マリオネット』のあなたから見た『マスター』でしょう。

 あなたがケースにしまわれていて彼が何をしているのか分からない時間は全くなかったのですか?

 あなたは彼の全てを知っているわけではないのに、どうして彼が善人だと信じられますの?」

 私の心の中で、ざわりと何かが動いた。マスターはいつも劇の後は決してカバンを開けてくれないし、次の日も同じ場所で上演するにも関わらずその日の宿への距離が毎日変わる。他にも少しずつ、気になることはあるのだ。そこを突かれると私は何も言えなくなってしまう。ただ、それはいつものマスターの限りない優しさと惜しみのない愛情を思えば些細なことにすぎなかった。

 私は一瞬胸の内に生じたマスターを疑う気持ちを吹き飛ばすように叫ぶ。

「あなたはマスターのことを何も知らないでしょう!」

「……」

 私の剣幕に驚いたらしいキャロルさんは顔を上げ目を丸くした。だがすぐに彼女の顔にはどこか悲しげな笑みが浮かぶ。

「……いいえ」

 泣き出しそうな声だった。


「……いいえ。よく、知っていますわ……」

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