第2話 女王の城 --3

 キャロルさんはマスターのことを「よく知っている」と言った。それに、彼女はさっき私に「わたしのことを覚えていますか?」という意味のことを聞いてきた。私はもしかしたら、私が知らないだけで、この人たちと会ったことがあるのかもしれない。いくら記憶をさかのぼっても、マスターとの楽しい思い出しか私の中にはないのだけれど。


「……お願いします、アリス」

「え」

「わたしたちのことを信じてくれなくても構いませんわ。ですから、せめて今日だけ、ここにいてください。あなたを危険な目に遭わせるわけにはいかないのです」

 真剣に私を見つめてくるキャロルさんから目を逸らし、私は「今日だけ」という言葉の意味を考える。どうして、「今日だけ」? 今日、私がマスターのもとにいたら危険だということ? この人たちは、またマスターに何かをするつもりなのだろうか。

「いやです」

「アリス……」

「やっぱりあなた方のことは信用できないし、マスターの命が心配です。何よりも、私は早くマスターのもとへ帰りたい!」

 捨てぜりふを残し、私はドアの方へ走る。ドアにはまた鍵がかかっていたけれど、このドアは内側から鍵がかけられるようでドアノブの辺りを少しいじるとすぐに開けることができた。

「アリス、どこへ……!!」

 キャロルさんの驚いた声は、勢いよくドアを閉めるともう聞こえなくなる。なんだか少し安心した。彼女と話しているとなぜかとても不安な気持ちになるのだ。例えるならそう、断崖絶壁に立たされているような気持ち。アリスでいうと、首を刈ろうとする女王様から必死で逃げているときの気持ちかな。この豪邸の第一印象が女王の城だったからこんな気持ちになるのだろうか?

「あの……?」

 ドアの前でふぅ、とため息をついたとき、ちょうど通りかかったらしいメイドさんが訝しげに話しかけてきた。私は反射的にメイドさんに背を向けて走り出す。不審に思われて人を呼ばれてはたまらない。早くここから逃げ出さなくちゃいけない、今ならルノさんもランさんもいないのだから。

 私は走った。ひたすら走った。女王の城のようなこの豪邸は、とにかく広い。メイドさんたちにさっきの部屋へ連れて行かれた道筋は覚えていたから、そこを通ればすぐに外に出られると思ったのだけど、そもそも走り出したときに廊下の反対方向に進んでしまったらしくどう行けばいいのかさっぱり分からない。いっそのこと窓から出ようとも思ったが、ここは二階のようだ。着地するお庭にクッションの代わりになるようなものがあればいいのだけど、窓から見える広いお庭に植えられているのはバラの木ばかりだ。しかも赤色ばかり。

 もう、本当に女王の城にいるみたいだ。よりによって赤いバラだなんて。まさか白いバラを赤く塗ったんじゃないでしょうね? と、そのことは今はどうでもいいんだった。とにかくバラの木じゃとてもクッションになんてできない。かわいそうだし、絶対に痛い。階段を探して一階に下りるしかルートはなかった。だんだん焦りが募ってくる私の耳に、後ろから女の人の声が聞こえる。

「いました、こちらです!」

 キャロルさんに命令されてメイドさんたちが私を追いかけてきているのだろう。彼女達はこの豪邸の構造をよく知っているはずだから、先回りをされてしまうかもしれない。直線で並ぶのは危険だと思い咄嗟にすぐ近くの角を曲がる。すると運のいいことに、意外に質素なつくりの階段が現れた。たぶんメイドさんや警備員の人たちが使っているものなんだろう。メイドさんたちの足音がどんどん迫ってきているので私はすぐに降りようとするが、そのとき下から二人分の話し声が聞こえてきた。

「最近さ、お嬢様なんか元気ないよなー」

「恋でもしてるんじゃないか」

「そうなのか? 相手はどこの誰だよ」

「知らないよ、適当に言ったんだから」

「なーんだ」

 まずい。このあまり広くない階段を全速力で駆け下りても、すぐにメイドさんたちがやってくる。そうすればこの警備員さんたちは決して私を逃がしてはくれない。追い詰められた私は階段を下りるのをあきらめて、また別の角を曲がり奥の方にある小さなドアを開け中に飛び込んだ。幸いながらそこの廊下にはドアがたくさんあったので少しは時間稼ぎになるだろう。

「はぁ……」

 また、ため息をついた。結構長く走ったので、息が苦しい。人間の体になって、自分の意思で自由に動けるのは嬉しいんだけど、こういう風に疲れてしまうのはいやだ。早くマスターのところに戻って、マリオネットに戻りたい。


 そう思って、あることに気付き背筋が冷えた。私は、マリオネットに戻れるのだろうか? マスターのところに戻っても、私が人間の姿をしていたらマスターはきっと私だって分かってくれない。もしマリオネットに戻れなかったら、私はどうなるの?


「何やってんだ、あんた」

 部屋に飛び込んだっきり固まって思考に沈んでいた私は、ランさんが部屋の中にいることに気付かなかった。声をかけられて初めて顔をあげ、ランさんがかなり近くに迫っているのを知ると反射的にドアを開けそうになる。だがすんでのところで追われていることを思い出し手を止めた。

 この部屋には窓がないらしく、唯一の光源はランさんが手に提げている小さなランプだけだ。その薄ぼんやりとした光の中で彼は不思議そうにこちらを見ている。彼は始めて会ってからずっと苛立った様子だったが、今はそうでもないようだ。

「……」

 まさか追われていると答えるわけにもいかず私は黙り込んだ。ランさんは追及しようとせず私の方を何度か振り返りつつも部屋の奥の方へ歩いていってしまった。

 光が遠ざかっていくと途端に不安になる。このままランさんが行ってしまうと真っ暗になってしまう。それに、いずれメイドさんたちは他の部屋を探し尽くしてここに私を探して入ってくるだろう。それは困る。

 この部屋にもう一つ出入り口があればそこから逃げられるのだけど、これだけ暗いとそれを探すのも大変だ。灯りはランさんのランプだけだし、ランさんについていって探すしかないだろう。そう考えてもう結構遠くなってしまったランさんを追いかけた。近付いたら怒られるんじゃないかと思ったが彼は怒るどころか全くの無反応だった。それにしても、ランプが小さい。あまり広い部屋ではなさそうなのに、足元をまったく照らしてくれない。ランさんから離れているせいかとも思ったが、彼の足元も満足に照らされてはいないようだ。それでも彼は足元を見ることもなくしっかり歩いている。なかなかランさんには追いつけなかった。

「きゃっ!」

 何かに足を取られた。気を張ってはいたものの、見えなくてはそれにも限界がある。体勢を立て直すにも体を支えてくれるものは何もなく、私は床に倒れた。ううう、鼻が痛い。

「大丈夫かよ」

 体を起こそうとすると、少し先を行っていたランさんが戻ってきていた。顔を上げると彼は手を差し出している。手をとっても大丈夫だろうか? 私がためらったのが分かったのか、彼はしばし沈黙した後ため息をついた。

「……さっきは、悪かったな」

「え?」

 予想外の言葉に思わず、ランさんと目を合わせてしまう。彼は決まり悪そうに目を逸らした。

「怒鳴っただろ。八つ当たりだった。悪かった」

「え……あ、いえ」

 謝るべきなのはそこではないと思うのだが、下手に反論して刺激するのも嫌だったのでとりあえず首を横に振っておく。すると彼はもう一度手を差し出してきた。恐る恐る差し出すと、連れてこられたときよりもだいぶ優しく引いてくれる。立ち上がってお礼を言うと、彼は私に背を向けて歩き出しながら小さく別に、とだけ言った。


 ゆっくり歩いてくれるランさんのすぐ後ろを歩いていくうちに気付いたのだけど、この部屋はどうやらとても細長いらしい。私とランさんのすぐ横の両側に棚があって、どこまで行っても細い通路を歩くだけだ。部屋というよりは廊下といった方が正しいかもしれない。そのわりには灯りがなさすぎるけれど。

「あの、ここはどうしてこんなに暗いんですか?」

「灯りを点けてないからな。点けてもいいんだが……少し不気味だから」

「不気味……?」

「……キャロから聞いてないのか」

 首を傾げていると、ランさんが立ち止まって私の方を振り返った。

「え、えっと……まだ、お話は途中で……」

「……話の途中で逃げ出してきたな?」

 暗くてランさんの表情は分からないけれど、呆れているらしいことは分かった。逃げてるわけじゃありませんと嘘をつこうとした私を遮って彼はため息をつく。

「あの女王様はまた暴走しやがったな……キャロは興奮すると人の話を全く聞かないんだよ。……まあ興奮してなくても聞かないが」

「女王様……」

「……言っとくがアリスは関係ないからな。性格がわがままで横暴だって言ってるんだよ」

 ランさんはもう一度ため息をついた。今度はさっきよりも深かった。私が黙って彼の背中を見つめていると、しばらくしてからそれに気付いた彼は体ごとこちらを向く。

「じゃあこの部屋については俺が説明する。ちょっと不気味だから心の準備をしろよ」

「えっ」

 心の準備、だなんていきなり言われてもどうしたらいいか分からない。慌てている私をよそに、ランさんはしゃがみこんで横にある棚の中をごそごそとまさぐっている。

「あ、あの、ランさん……」

「あった」

 もっと詳しくお願いします、と言おうとした途端、カチッと音がして部屋が一気に明るくなった。まぶしさに思わず目を閉じて、それから恐る恐る開けてみた。狭い廊下のような部屋の中には天井まで届く棚がたくさん並べられている。


 その中にはびっしりとマリオネットが吊り下げられていた。

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