第3話 白ウサギを追いかけて --4


 かすれた声には聞き覚えがあった、というより、ずっとその声を聞きたくてたまらなかったのだ。私は声のした方を振り向く。マスターの心配そうな表情が驚きに変わった。私だって気付いてくれたのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。気付いていないなら私がアリスです、と言えばいい。マスターなら分かってくれるはずだ。

「マ……マスター……!!」

 搾り出した私の声は震えている。マスターの驚いた顔に狼狽の色が混じった。ああ、気付いていないんだわ。

「マスター、私はアリスです。あなたのマリオネットの、アリスです!」

「アリス……」

「えっと、ランさんが襲ってきて、マスターのカバンから落ちて、それで雨が降ってきて……」

 このままではまた置いて行かれると思い、私は必死に叫んだ。そのうちに自分でも何を言っているのか分からなくなってきて言葉が尻すぼみになっていく。マスターは私をじっと見ている。なぜか私はその目を見返すことができなくて、うつむいてじわりとにじみ出てきた涙をこらえた。

「……アリス、なのかい」

 すぐ近くでマスターの声がした。顔を見れなくても、その声だけで嬉しそうな笑顔が頭の中に浮かぶ。私は顔を上げずに何度も首を縦に振って肯定を示した。マスターはため息をつく。それは疲れたときや呆れたときにつくため息ではなくて、言葉にできない思いを胸の奥からあふれ出させるため息だった。ため息は私の心を揺らし、こらえていた涙は頬をつたい口元を押さえている両手を濡らしていく。

「ありがとうなあ。わしを探しにきてくれるとは……」

 マスターの両腕が私の背中に回され、そっと抱きしめられる。私は「会いたかった」とか「寂しかった」とか、言いたいことはたくさんあるのに、いったん泣き出してしまうとそう簡単に止めることはできなかった。口を開けば嗚咽が漏れてしまう。マスターは赤ん坊をあやすように私の背中をとんとんと軽く叩いた。私はなかなか泣きやむことができなかった。涙をこらえようとして目を固く閉じていると嗚咽が漏れる。嗚咽を止めようとして喉に力を入れると涙がこぼれる。マスターが苦笑したのが分かった。

「泣いていいんだよ。すまんのう、つらい思いをさせてしまって」

 背中に回されたマスターの腕が私をちょっとだけ押して、私はそれに従って道端に無造作に置かれていた木箱の上に腰を下ろす。お屋敷で着せられた白いワンピースの裾がふわりと広がって、足元を何かがすごい速さで通り抜けた。ネズミを驚かせてしまったようだ。マスターも私の隣にゆっくり腰を下ろして、私の頭を撫でながら赤から黒に変わりつつある空を眺めていた。


「マ、スター、怪我して、ないの?」

 しゃくりあげつつなんとかそれだけ言うと、マスターは私の方を見る。涙でぐちゃぐちゃの顔を見られるのが恥ずかしくて思わずうつむいてしまった。

「どこも怪我していないよ」

 よかった、と言うかわりに下を向いたまま何度も頷く。マスターのしわくちゃの手が頭の上から頬に下りてきて、私の涙をそっとぬぐった。

「君はどうなんだい。あの雨の中一人ぼっちになって……誰かに助けてもらったんだろう?」

「マスターの、こと、追いかけてた男の人に」

「ああ、やはりキャロルさまのところにいたんだね」

「知ってるの?」

 キャロルの名がマスターの口から出たことに驚いて、私はぱっと顔を上げた。マスターは答えるかわりににこりと笑う。知っているのだったら話は早い。マリオネットについて聞かなくてはいけないことがたくさんあるのだ。マスターを信じていいのか、キャロルさんたちを信じるべきなのか、私は知りたい。

「あの、そう、キャロルさんのお屋敷にはマリオネットがたくさんいて、だから……」

「アリス、わしに顔をよく見せておくれ」

 うつむきかけた私の顎にマスターが手を添えて顔を上げさせる。マスターの優しい顔はどこか悲しそうだ。

「……君はニーナに似ているね」

「ニーナ?」

「わからないかい?」

「不思議の国のアリスにそんな人はいないわ」

「そうだね。大丈夫、そのうちに思い出すよ」

 同じことを誰かに言われた。そう思ってすぐにそれが誰だったかを思い出した。でも誰に言われたのかなんてことは重要ではなくて、重要なのはどうしてそんなことを言われるのか、だ。

「マスター」

「なんだい」


「私は人間なの?」


 本当は、マスターは悪い人なの、と聞きたかった。マスターは人をさらってマリオネットに変えるの、ランさんやルノさんを殺そうとするの、と。でももしその通りだよなんて言われてしまったらと思うとどうしても聞けそうになかった。そんなことを考える時点で私はマスターのことを疑っているのだけど。本人を目の前にして、優しく頭を撫でてもらって、私はどうしてこの人は悪い人かもしれないなんて思えるんだろう。

「そうだよ」

 マスターの答えはあっさりしたものだった。驚く様子もなく、当然のようにうなずいて私の反応を見ている。私は何も言えなかった。分からないことだらけだった。私が人間ならどうしてマリオネットだったの? マスターが私をマリオネットにしたの? マスターは私をさらったの? 私には家族がいるの? ランさんたちが正しいの? 顎に添えられた手のせいでうつむくことができない。私はマスターと見つめあったまま固まった。長く感じられる沈黙を経てマスターは悲しそうな瞳でもう一度私を抱きしめる。

「わかっている。わかっているよ、アリス。もう大丈夫だ。君は安全だ。すまんのう、すまんのう……」

「待って、マスター、本当なの? 本当に私は人間なの?」

 放っておけばいつまでも謝り続けそうなマスターを遮って尋ねる。マスターの顔は見えない。私を抱きしめる力がほんの少し強くなった。

「本当だよ。君は人間で、アリスのマリオネットではない。君の名前は『シェナ』というんだ。キャロルさまに聞けばすぐにわかる」

「シェナ……」

 ピンとこない。そもそも私の名前だと言うのにどうしてキャロルさんが知っているのだろう。私とキャロルさんは知り合いだったの? 前に会ったことありませんか、とは聞かれたけれど。

「……もうあまり時間がないのう」

「え」

「いいかい、アリス。キャロルさまのお屋敷に帰りなさい。そこで時間をかけて記憶を戻すんじゃ」

「えっ、嫌! 嫌よ、マスターと離れたくない!」

 マスターはとんでもないことを言い出した。私は思いっきり首を横に振って反対するけれど、私と体を話したマスターの目は真剣だ。

「わしと一緒にいては危険だ。キャロルさまのところにいれば怖いことはなにもない」

「でも、でもランさんやルノさんはマスターにひどいことを……」

「あの人たちは君に危害を加えるようなことは決してしないよ」

「そんなの……っ」


「動くな」

 静かな声がした。マスターの表情が微笑んだまま凍りついたように動かなくなる。マスターの肩の向こうを覗くと、真っ黒なシルクハットとコートをまとったルノさんがこちらに銃を向けて立っていた。

「マスター……」

 掴んでいたマスターの腕をぎゅっと強く握り、できるだけ体を動かさないようにして上目遣いで彼を見上げる。マスターは本当に凍ってしまったのではないかと思うほど微動だにしていなかった。

 ふいにかしゃん、と音が鳴る。私の背後だった。まさかランさんまで!? と思って振り向いた私の目に映ったのは、マスターのもとまで私を導いてくれた白ウサギのマリオネットだ。地面に力なく倒れている。ただのマリオネットみたいだ。追いかけていたときには見えなかった操り糸と持ち手がすぐ近くに落ちている。どうしてこの子が今ここに?

「やっとご登場かい」

 白ウサギに注目しているうちに、マスターは木箱から立ち上がってルノさんと対峙するかたちになっていた。

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