第4話 眠る帽子屋 --4

「ペンダント……?」

 どうやら蹴っ飛ばしてしまったらしい小さな丸いものを拾い上げると、それは卵型のペンダントだった。羽の模様が刻まれていたり、宝石を模した色ガラスがはめ込まれていたりと女の子の好みそうなものだ。どうしてこんなものがここに?

 古いもののようだし、キャロルさんが小さいころ持っていたおもちゃかもしれない、とも思ったがそれにしてもこのようなところに落ちているのはおかしい。まあいいか、持っておこう。そう思って服のポケットに入れようとしたとき、ペンダントが指の間からすり抜けて床に落ちまたカランと音を立て転がった。慌てて拾おうと身をかがめて、ぎょっとする。ペンダントは綺麗に真っ二つに割れてしまっていた。

 やってしまったと思いながら二つを拾い上げる。すると割れたペンダントの中から何か黄色がかったものが出てきた。固い紙を小さく折りたたんである。ランプの光に近づけて紙を開いてみた。写真のようだ。赤ちゃんを抱いた女の人が椅子に腰掛けて幸せそうに笑っている。その隣にはルノさんが立っている。彼も笑っていた。奥さんと子どもだろうか。ルノさんは今とほとんど変わっていないように見えるからそんなに前の写真ではないだろう。だが黄色く変色している上折り目の部分が削れてぼろぼろになってしまっている。いつも持ち歩いて、何度も何度も開いて見ていたということか。

(見ない方がよかったかな)

 私は申し訳ない気持ちになった。勝手に見ていいものではないだろう。

 写真を折りたたむと、二つになったペンダントと一緒にポケットにしまう。ランプの火を消して部屋を出て、自分の部屋へ向かった。


 歩きながら、さっきの写真が脳裏に浮かぶ。幸せそうな家族だった。当たり前かもしれないけれど、ルノさんにも家族がいるんだ。私にもきっといるんだろう。だって、私は、人間だったんだもの。他ならぬマスターがそう言ったのだもの。どこにいるのか分からないけれど、どこかにいるんだろう。

 私は、人間だったときの私を何も知らない。マスターがそう言わなければ、今でも自分が人間だったなんて信じない。どこで生まれてどこで育ったのか、お父さんとお母さんはどんな人か。名前も顔も知らない。あ、でも、そういえばマスターは私の名前を口にしたような気がする。何て言ってたんだったっけ?どうにも思い出すことができない。

(そうだ、キャロルさんに聞いてみよう)

 ふとそんな考えが浮かんだのは、マスターが彼女の名前を口にしていたからなのだろう。キャロルさんには以前に「わたしのことを覚えていますか」と尋ねられたこともある。きっと彼女には心当たりがあるのだ。

 私は階段を登りながら、キャロルさんの部屋へのルートを頭の中に描く。もう結構長い間このお屋敷に住まわせてもらっているのに、まだ道を覚えられないのだ。家の中で「道」なんて言うのはおかしいのだけど、あまりにも広いのでついそう言ってしまう。

 少し豪華な造りの扉が視界に入る。ほっとして、私はその前に立った。このようにキャロルさんの部屋の扉は他のものと見分けがつくし、私の部屋には「Alice」とプレートがかかっている。行きたい場所にたどり着けないことはあっても、部屋を間違えることはないので助かった。もし迷子になって部屋に戻れなくなったら、近くにいるメイドさんに尋ねればいい。

 軽くノックをする。すぐにキャロルさんの声がした。

「どうぞ」

 先程のような苛立ちは感じられない。扉を開けながら私は少しだけ、あんなに心配しているんだから、ルノさんはマリオネットにされましたって教えてあげる方がかえっていいんじゃないかと思った。だって、大怪我をしたとか行方不明になったとかよりは、マリオネットになる方がいいに決まってるもの。この人たちにとってマリオネットになることは嫌なことなんだろうけど、そのうちに戻れるってランさんも言っていたし。

「あらアリス、どうしましたの」

「あの、ちょっと聞きたいことがあるんです」

 キャロルさんは部屋の真ん中に置かれた小テーブルの上に、なにやらごちゃごちゃと細かく書き込まれた大きな紙を広げていた。そばに行って覗き込んでみると、地図のようだ。赤いインクで何箇所も印がつけられている。

「地図ですか?」

「ええ、オールダムの地図です」

「オールダム……」

「この町の名前ですわ」

 そうか、この町はオールダムというのか。知らなかった。

「私って何も知らないんですね」

 私がそう呟くと、一緒になって地図を眺めていたキャロルさんが顔を上げ微笑んだ。

「まだ何も思い出せませんか?」

「はい。……この間、マスターに会って、私聞いたんです。私は人間なのかマリオネットなのか……そうしたら、君は人間だって言われました」

「そうでしたの。それで、アリスはどう思いました?」

「本当にそうなんだ、としか。人間だった記憶がないから、現実感がないです。私は自分にお父さんやお母さんがいるのかどうかも知らないし、自分がどこでどういう風に生きていたのかも知らないから……なんか、何て言えばいいのか分からないけれど、怖いんです。自分が自分じゃないみたいで。何も知らない、マリオネットのアリスのままでいられたらよかったのに」

 私は一気に喋りながら、余計なことを言っていることを自覚していた。マリオネットのままでいい、という言葉をキャロルさんが快く思うはずはないだろう。だが、彼女は微笑を崩さなかった。私は少し気まずくなって、彼女から目を逸らす。



「アリス、そういえば、聞きたいことというのは何でしょう?」

「あ、そうでした」

 キャロルさんが話題を変えたことで、私はこの部屋に来た理由を思い出す。マリオネットのままでよかった、なんて言ってすぐに人間としての名前を尋ねるのはなんだかおかしいような気もするが、この際気にしないことにした。私が何者なのかはっきりすれば、この何となくもやのかかったような不安な気持ちも晴れるかもしれない。

「マスターに、私が人間だったときの名前を教えてもらったんです」

 私がそう言ったとき、キャロルさんが動揺したのが分かった。彼女の全身に緊張が走り、見開かれた大きな瞳が私を見つめてくる。私は怯んだが、彼女が何も言わず次の言葉を待っているようなので、続けることにした。

「教えてもらったんですけど、あの後いろいろあって、その、忘れてしまったんです。前にキャロルさん、私に会ったことがあるようなことを言ってましたよね。それで、何か心当たりがあるんじゃないかって思ったんです」

 キャロルさんはしばらく無言だった。落ち着きのない視線がテーブルの上、彼女の膝、床、ベッドの方へとせわしなく動く。その目には恐れるような、迷うような、なんとも言いがたい色が浮かんでいる。どうしたんだろう、と思いながら私はただ答えを待った。やがて顔を上げた彼女は、今にも泣き出しそうに見えて何かを期待しているような奇妙な表情をしていた。唇が震え、蚊の鳴くような声で彼女は私の名前を呼ぶ。

「……シェナ……」

「あ、それです!『シェナ』ですっ」

 キャロルさんの顔がたちまちくしゃりと歪んだ。彼女はぱっと立ち上がり、細い両腕を私の背中に回す。その拍子にぶつかった小テーブルが倒れて地図や羽ペンが床に散らばった。

「キャロルさん」

 どうしたんですか、と聞こうとしたがやめた。彼女の両手は私の背中で震えている。


 しばらくの間、私の肩に顔をうずめた彼女の嗚咽は止まなかった。

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