第9話 アリスは証言する

 小さな家の中は薄暗く、一目でそれと分かるほど荒れ果てていた。玄関からそのまま部屋の中に続いていて、右手には天井にも届いていない粗末な板を並べて区切られた小さな部屋があった。部屋と言っても扉がなく、ぼろぼろになった布が下げられてその代わりになっている。

 ランさんが左側のスペースに向かって突進した。背中の向こうにマスターとミティーちゃんの姿が見える。マスターと目が合った気がしてドキリとしたが、彼はランさんを見ていたのだった。彼の手にはあの、緑色の銃が握られていた。

「マスター、やめて!」

 私は反射的に叫んだ。ランさんがミティーちゃんを両腕でがばりと抱きすくめ勢いのまま床に転がる。発砲音がして、朽ちた床に小さな穴があく。ランさんが動かない。弾は当たっていないはずだけれど。マスターは冷たい目で銃に左手を添え、ガチャリと音を立ててどこかをいじった。また撃つつもりなのか。私は床を蹴った。かまえようとしている腕にすがりつき、銃を奪おうと手を伸ばす。

「邪魔をしないでおくれ、アリス」

「ダメです! お願いですからもうやめてくださいっ」

 マスターの身長は私より少し高いくらいだが、あと少しのところで銃に手が届かない。つま先立ちになっても無理だ。必死になっている私の耳元で、マスターがらしくない高めの声でささやいた。

「アリス。憎いアリス」

 暗い憎悪に心が震える。同時に彼の足が俊敏に動き、私の視界がぐるりと回った。足を払われたのだ。急速に近付いてくる床に顔だけは打つまいと体をひねる。床に腰をしたたかに打ちつけた。ミティーちゃんが言葉にならない悲鳴を上げる。間髪入れず銃声が鳴り響く。それは一発ではなく、同時と言っていいほどそろったタイミングで二発の銃が煙を上げたのだった。ひとつめの弾は私のすぐ横の床にむなしく小さな穴をあける。

「シェナ、離れなさい!」

 ここにいないはずの人の声が聞こえた。私は両手をついて起きあがろうとしたが、途中で横からマスターの足に蹴飛ばされ無様な悲鳴とともにまた床を転がる。

「やめろ!」

「シェナちゃんっ」

 ミティーちゃんの声が近寄ってきて、私を助け起こしてくれた。青ざめた顔に冷たい手をした彼女は全身でぶるぶると震えながら、しきりに大丈夫、大丈夫と繰り返す。私に尋ねているのか彼女自身に言い聞かせているのか、どちらでもあるのだろう。今にも泣き出しそうに顔をゆがめている割にその目には涙がたまっていなかった。私も、いろいろと泣きたくなるようなことが起こっているはずなのだが、目はしっかり乾いている。人はきっと、緊張状態にあると泣けないのだ。

 私は震え続けるミティーちゃんを抱きしめて、マスターの方を振り向いた。ふたつめの弾はマスターの右腕を貫いていた。だらだらと血の流れる腕はまだあの緑色の銃を握ったままだったけれど、彼のしわだらけの手ごとルノさんが握り込んで押さえつけていた。首にはステッキが回され、マスターは大人しく捕らえられている。私たちから見て左手には、ランさんが床に片膝をついた体勢でマスターを狙って銃を構えていた。

「よく場所が分かったな」

 ランさんがため息をつくようにそう言った。ルノさんは少し顔をしかめて、無理矢理にマスターの手から銃をもぎ取る。

「ここにいるとは思っていなかった」

「この場所に始まってこの場所に終わる! ああ愉快だ!」

 突然にマスターが両手を挙げ、芝居がかった口調で叫び出した。ミティーちゃんがびくりと震える。ランさんが呆れたように「おい、やめろ。撃つぞ」と言うが彼には聞こえていない。そしてルノさんの顔からは、表情というものが一切消えた。


「愉快だと」


 ガシャン、と大きな音を立てて緑色の銃が部屋の隅の机の上に投げ出された。いろいろ細かい工具のようなものが置かれた中に紛れて転がる。はずみで床にいくつか木片や道具が落ちてほこりを巻き上げた。ランさんが少し焦っておい、と声をかける。ルノさんがステッキを掲げた。止める間もなくそれがマスターの頭に振り下ろされ、マスターの体がぐったりとして力が抜ける。一瞬だった。

「何やってんだよ! せっかく捕まえたってのに」

「気絶させただけだ」

「話ができなきゃ意味がない!」

「話なら後でもできる。とにかく何か縛るものを」

「あのなあ! ……はあ。縛るものって、ここの物はどれもボロボロだぜ。使えるのか?」

「怪しいな」

 ルノさんとランさんはすぐにいつもの調子に戻る。私とミティーちゃんは床に座り込んで抱き合ったまま呆然と一部始終を見ていたのだが、ぐったりとしたマスターから目が離せない私とは違って、ミティーちゃんはきょろきょろと部屋の中を見回し始めた。家の戸口の方に注目した彼女は私の興味を引こうとしてそちらを見たまま私の腕を軽くぺしぺしと叩く。

「ねえ、シェナちゃん、あれ」

 磁石のように視線を引きつけるマスターから、どうにかミティーちゃんの指し示す方に意識を移す。ドアの横の壁の前に黒い大きなカバンが立たせてあった。豪華な装飾は施されておらず、黒皮の上に打たれた鋲が錆び付いている。持ち手は手の触れる部分だけ色が変わってしまっている。右下の角のところにはお世辞にも綺麗とは言えない補修のあとがあった。微妙に色の異なる別の皮を上からあててある。そこを見た瞬間、私はあっと声を上げた。

 これはマスターのカバンだ。私はこの中に入ってずっとマスターと旅をしてきたのだ。あの穴はランさんが空けた、そして私が地面に落ちてマスターとはぐれた時の穴。私は恐る恐るそれに近付いていった。ミティーちゃんが私のワンピースをぎゅっと掴んで一緒についてくる。背後でルノさんがシェナ、と私の名前を呼んだ。制止するような声ではなかったので、私は振り返らずにカバンに手をかけた。

『憎い、アリスめ』

 その瞬間、さっきマスターから発せられた不思議な声がまた聞こえた。反射的に彼の方を振り返って見るが、マスターはまだ気絶している。ぐったり目を閉じている彼の体をランさんが縄で縛り付けようとしていた。マスターを支えてランさんを手伝っているルノさんが、顔だけこちらに向けてわずかに顔を曇らせる。

「どうした。大丈夫か?」

「あ、はい。大丈夫です……」

 ルノさんに頷いて、ミティーちゃんの顔を見る。彼女はなにやら緊張した面持ちでじっと黒いカバンを見つめていた。そのうちに私の視線に気付いて、どうして開けないの、というように私を見る。空耳だったのだろうか。他ならぬマスターにあんなことを言われたので、自分で思っている以上にショックが大きかったのかもしれない。

「あの、これは開けても大丈夫、ですよね?」

 もう一度ルノさんを振り返って念のためそう尋ねてみると、彼は少しためらった後にマスターから離れてこちらへやってきた。手を離してしまっていいのかしら、と思ったけれど縛るのはもうほとんど終わっていたようでランさんは慌てることもなく黙って結び目を作っていた。

「何もないとは言い切れない。離れてくれ」

「はい……気をつけてくださいね」

 カバンの金具は、パチンと案外軽い音を立てて外れる。ルノさんがカバンを床にそうっと倒して、ふたをゆっくりと持ち上げた。このカバンは外から見るよりもずっとたくさん物が入るようになっている。だが中身には日用品のたぐいが一切なかった。洋服もハンカチも、なにもない。あるのはマリオネットを作ったり直したりするための必要最低限の道具類と、私には見覚えのあるマリオネットたちだけだった。

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