第3話 白ウサギを追いかけて --2


 白いテラスに椅子とテーブルが運び込まれ、お茶の準備が整えられる。白いカップには淡いピンク色のバラの模様が描かれている。この人はどれだけバラが好きなのか。しかもそれが似合っているのだから笑えない。バラに囲まれる女王の城で、アリスが助かるには夢から覚めるしかないのだ。

 マリオネットは夢を見ない。だからこの状況は夢ではない。アリスは助からない。女王の命令で首を刈られる。


 キャロルさんは私がそんなことを考えているとは知らず上機嫌でメイドさんに淹れてもらった紅茶の香りを楽しんでいる。私は両手を膝の上から動かさずに視線を落とし、カップの中の紅茶を見つめる。マリオネットだったときは夢を見たことがなかった。マスターがその女の人に変わった夢はたぶん私が見た最初の夢だ。じゃあなぜ私はそれが夢だと思ったんだろう。夢がどんなものか知らないはずなのに、すぐに夢とわかったのはどうしてだろう。


 私は本当にもとから人間だったのかもしれない。それとも、ランさんやキャロルさんの口車に乗せられているのだろうか?


「マリオネットの部屋を見たでしょう?」

 唐突にキャロルさんが話しかけてきた。顔を上げると彼女はカップを静かに受け皿の上に置いて微笑を浮かべ私の方を見る。

「マリオネットにされた人間は、……あなたがマスターと呼ぶ彼からある程度の時間離れているともとの姿に戻ります。人によってその時間はばらばらですが、ほとんどの方は一年以内に戻ります。アリス、あなたの場合は姿が戻るのがかなり早かったのです。でもその代わりに記憶が戻るのに時間がかかっているのですわ。心配することはありません。ゆっくり思い出していけばいいのです」

 優しいまなざしが肌を刺した。彼女が優しければ優しいほど、私の中でマスターが悪人にされていくのだ。不安になるのはきっとこのせいだ。

「じゃあ、あの部屋のマリオネットは一年経てば全部なくなるんですか?」

 部屋の中には相当な数のマリオネットがあったはずだ。あれが全部人間になるのだとしたらすごく大勢の人があそこにいることになる。誘拐事件がたくさん起こっている、とか言って騒ぎになったりしないのだろうか。

「いいえ。一年で人間に戻ることができるのはほんの数人ですわ。ほとんどの物は一年経っても何の変化もありません、ただのマリオネットです。ごく稀にですが数年経ってから人間に戻る方もいるので、あそこにずっと保管していますの。ただのマリオネットだとはっきり分かってしまえば持ち主に返したり孤児院に贈与したりできるのですけれど、それを判断する術がないものですから」

「持ち主……?」

「彼は各地を旅しながらいろいろな人形劇団に入り込み、老若男女を問わず人をさらってマリオネットに変えます。だいたい年に一度この街に戻ってきて、ここで人形劇を見に来た子どもたちにマリオネットを配りばら撒いているのですよ。彼が街からいなくなったら、ランとルノで手分けして子どもたちの家に忍び込んでマリオネットを盗み出しています。彼が街にいる間はマリオネットの奪回と彼の捕縛を試みているのですがなかなかうまくいきませんわ。一週間ぐらいしかここに留まりませんし、出て行くときは一日でかなりの距離を移動するので追いかけることもできませんの」

 私がマスターとはぐれてもう一ヶ月が経った。一年に一度、一週間しかこの街にいないということは、もうマスターはこの街にはいないのだ。

「キャロルさん、私がここに来たとき、今日だけでいいから出て行かないようにって言いましたよね。それは……」

「ええ。あなたを保護したのが、彼がこの街を去る最後の日でした」

 分かっていたこととはいえ、目の前が真っ暗になった気分だ。少なくともあと11ヶ月経たないと、マスターには会えない。いや、11ヶ月待っても、この人たちが私をマスターに会わせてくれるとは思えない。

「アリス、お願いですから、彼を追いかけるなんて言わないでくださいね。今はルノが彼を追跡しているところですけれど、ルノでもすぐに見失って戻ってくるのですよ。あなたには無理です」

 私が黙っていると、何を勘違いしたのかキャロルさんはそう言った。心配しなくても、追いかけることなんかできはしない。マスターがどこの街を目指すのか分からないし、どっちの方向へ行けばどの街があるかなんて全然分からない。この街の名前すら分からない。そもそも、この屋敷から出ることだってかなわない。なのに、キャロルさんはすごく真剣な目をしていた。

「アリス……いえ、あなたは、私の大切な人の家族かもしれません」

「え」

 どういう意味ですか、と聞こうとした瞬間、背後の部屋に通じるガラス戸が大きな音を立てて開いた。

「キャロ!!」

 ランさんの叫び声。振り向くと彼は肩で息をしている。キャロルさんが椅子から立ち上がり、固い声で何があったのですか、と聞いた。

「あいつが……戻ってきた」

 あいつ、というのが誰を指すのか理解するのに少し時間がかかった。それはキャロルさんも同じだったようで、私と彼女はランさんがそう言ったあとしばらく沈黙してしまう。いや、もしかしたらキャロルさんはすぐに分かったけど驚いて反応できなかったのかもしれないけれど。

「本当ですか!? マスターはどこにいるんですか、教えてください!」

「それが分かりゃ苦労しねぇよ! ルノが追ってる。俺も行くからキャロはオル爺さんを呼んどいてくれ!」

 私は椅子から立ち上がってランさんに詰め寄ったけど、怒鳴り返されてしまった。彼はキャロルさんに指示をすると返事も待たずにきびすを返す。

「待っ……」

「待ちなさい、ラン!」

 ランさんの後を追おうと足を踏み出した途端、キャロルさんの手が私の腕を痛いくらい強く握って引き戻した。そのくせ彼女は私のことなど目に入っていないみたいで、ランさんの背中を見つめている。

「あのっ、離してください!」

『アリス』

 手を振りほどこうとしていると、キャロルさんの後ろから男か女かも分からない不思議な声が私を呼んだ。声の主を探すと、テラスの手すりの上にマリオネットが腰掛けているのが見える。

『遅刻しちゃうよ』

 それは白いウサギだった。緑のチョッキを着ていて、首から提げた懐中時計を手に持って私に見せびらかすようにしてぶらぶら揺らしている。糸がついていないし、もちろん操る人もいないのに、ウサギは自分で動いている。私とキャロルさんが呆然としてウサギを見ていると、彼はにっと唇の端を吊り上げて笑った。

『アリスが追いかけてきてくれないと、お話は始まらない』

 ウサギがそう言った瞬間、私は軽い立ちくらみに襲われた。頭を両手で抱えてそれをやりすごすと、さっきまで私の腕を掴んでいたキャロルさんがいなくなっていた。

「え?」

 テラスの上には私一人しかいない。ご両親の部屋をのぞいても、キャロルさんはいない。目を閉じたのはほんの一瞬だったのに、どこへ行ってしまったのだろうか。テラスから落ちたのだろうかと心配になって手すりから身を乗り出して見回しても彼女の姿はない。とりあえず落ちたわけではなさそうだ。そういえば、白ウサギもいなくなっている。

「ラ……ランさーん、どこですか?」

 とにかくランさんを追いかけようと思い部屋を通り抜けて廊下に出るが、とっくに彼の姿は見えなくなっていた。運悪く廊下にはメイドさんや警備員さんが誰もいないので彼がどちらに行ったのか聞くこともできない。

「どうしよう……」

 こんなことなら与えられた部屋に閉じこもっていないで、屋敷の中を歩き回っておけばよかった。せめてどこをどう行けば外に出られるのかぐらい知っていたら、準備を終えて出てくるランさんを出口で待ち伏せすることができたかもしれないのに。そんなことを考えて落ち込んでいる私の視界を、白いものが横切った。ぱっと顔を上げると、先程の白ウサギのマリオネットが誰にも操られることなく走っている。

「待って、待ってよウサギさん!」

 私は反射的に走り出した。声をかけるもウサギは止まってくれることはなく、私が追いつけそうで追いつけない微妙な速さで先を行く。まるで道案内をされているようだ。もし白ウサギが道案内をしてくれているのだとしたら、絶対に行き先はマスターのもとであると私は確信していた。

 かの白ウサギは、マスターのいる人形劇団のウサギのマリオネットに瓜二つだからだ。

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