第7話 へし折られたトランプ

 キャロルさんのお屋敷から出てくるときは下水道を通ってきたが、帰るときにはその必要はない。だが考えてみれば私はちゃんと門をくぐってあの家に入ったことがなかった。記憶がたくさん戻ったとはいえ、お屋敷への道は知らない。孤児院へ行ったのと同じように、ミティーちゃんに道案内を頼むことになった。

 それでも彼女と通ったいくつかの道には見覚えがあった。ああ、こっちの道を曲がれば市場だとかそんな感じのことを何度か思った。非常に広い、明るい道に出た時もそうだ。道の両側にはまるで道を壁で囲うみたいにレンガ造りの家が隙間なく並んでいた。時折私たちが通ってきたような細い道が家々の間にちらと見えるだけだ。通りは、こちら側から反対側まで全速力では駆け抜けられないだろうと思うほどの大きさだった。たくさんの人が歩いている。こぎれいな身なりの子供たちが笑い声を上げながら私の前を軽やかに走り抜けていった。

「ここはオールダムのメイン・ストリートだよ。覚えてる?」

「ええ、なんとなく」

 私から見て左手の方に古びた時計塔が建っている。遠くてよく見えないけれど、屋根の形とかがまわりの建物とは少し違う雰囲気を醸し出しているように見える。ああいう古いものは好きだなあ、なんて考えていると、私と反対の方に目をやったミティーちゃんが声をあげ私の手を引いた。

「あれっ、ねえ見て!」

 右を向くと、道の先が広場になっていてその真ん中には大きな噴水が設置されていた。吹き上げられた水が日の光に照らされてキラキラ輝いている。その向こうからカンカンと鐘の音らしきものが聞こえてきた。

「自警団だ」

 たくさんの馬が、なにか大きなものを引きながら走ってきた。人もたくさん乗っている。あれは……馬車、そう馬車だ。大きな馬車一台につき二頭の馬が繋がれていて、それが数台まとまって走ってくる。と思ったら、彼らはあっという間に私たちの前を通り抜けて行った。一瞬だったけど、馬車に乗った人たちはみんな男の人で、同じ黒い服を着ていたのが分かった。

 鐘の音が遠ざかり、立ち止って注目していた往来の人々も何事もなかったかのように動き始める。ミティーちゃんが瞳にいたずらな光を宿して私を見上げた。

「何か、事件でもあったのかな?」

「事件ですか」

「そう! あっ、シェナちゃん自警団ってわかる? 今の人たち」

「えっ、えーっと……何でしたっけ」

「悪いことした人を捕まえるんだよ。泥棒とかね。大人が喧嘩してるのをおさめることもあるし、何もなくてもあの制服を着て町を歩いて、見回りしてたりするかな」

 すらすらと淀みなく答えて、ミティーちゃんは馬車の走って行った方向を見る。

「なんだかすごく急いでたね。最近泥棒が多いっていうけど、それかな?」

「……多いんですか」

「そうらしいよ」

 なんとなく不安な気持ちがよぎった。私の問いかけに答えて振り向いたミティーちゃんがぱちぱち瞬きをして私の顔を見つめてくる。顔に出ていたみたいだ。




 表門から改めて見ると、やっぱりキャロルさんのお屋敷は立派なものだった。さっきまでいた孤児院との差に驚き、卑屈と言うほどではないが少し暗い気持ちが胸の奥に浮かぶ。私はよくこんなところに平気でいられたものだ。本当に場違いだったのに。

 門を開いてもらって、前庭を突っ切って玄関へ向かう。門番さんたちが固い表情で私たちを見ていた。ミティーちゃんが歩きながらそっと私の後ろに隠れるようにする。怒られたら嫌だなあ、と思い私は愛想笑いを浮かべて会釈した。頭を上げてみれば彼らの顔も笑顔に変わっている。

「ずいぶんと長い間、追いかけっこをされたんですね」

 私は苦笑でごまかした。

「キャロルさんはまだ怒ってますか?」

「……たぶん、そんな場合じゃないと思いますよ」

 門番さんが返事をしてくれるまでに妙な間があった。訝しく思うものの、彼らは質問する間を与えずにくぐり戸を開けて私たちを促す。

「さあ、どうぞ。お嬢様に言いつかったメイドたちが待ち構えていますよ。ミティー様の身なりを整えるように、とね」

 いたずらっぽく笑う彼らの言葉の通り、扉の向こうでは目をらんらんと光らせたメイドさんたちが身構えていた。私の背後でミティーちゃんが身をすくませ、情けない声で何事かを呟く。何と言ったのかは聞き取れなかったが、とりあえずさすがにもう彼女を逃がすわけにはいかないので、私はしっかりと彼女の手をつないでおいた。

 メイドさんたちに連行されていくミティーちゃんを見送ってから、私はさてどうしようかな、と辺りを見回す。どうも浮ついた雰囲気が漂っているような気がするのだが、何かあったのだろうか。そう思った瞬間不安がぶり返してきた。どうしたというのだろう。この不安の正体はいったい何?

 とにかく、キャロルさんに謝らなくてはいけないだろう。彼女が気付いているかどうかは分からないが、私は彼女に黙ってミティーちゃんを連れ出したのだ。かなり心配をかけてしまったはずだ。でも、その前に少しだけルノさんの様子を見ていこう。もしかしたら人間に戻っているかもしれない。私はランさんの部屋に通じるドアを開けようとする。と、それが勢いよく私の方に開いた。ドアにぶつかりそうになり私は慌てて飛び退く。

「きゃっ!」

「あっ、申し訳ありません!」

 メイドさんが一人飛び出してきた。彼女は胸にくしゃくしゃと丸めたタオルを抱えている。タオルは白地に赤い模様がついているようだった。彼女は私に気付くとすぐに身を引いてぺこりと頭を下げる。その拍子にタオルが一枚ひらりと腕を離れて床に落ちた。

「ごめんなさい、こちらこそ」

 私は謝りながらしゃがんでタオルを拾い上げようとする。なぜかその時彼女が私の頭上であっ、と小さく息を呑む気配がした。その理由はすぐに分かった。タオルに触れたとき生温かいものがべたりと指についたのだ。

「ありがとうございますっ」

 メイドさんが私の手からタオルをひったくり、私が何か言う間を与えずに走り去って行った。私はその場に取り残されて、駆けていく彼女の後ろ姿を見ながら呆然とする。右手を見ると、指のところに赤いものが付いている。タオルの赤は模様ではなかった。これは血だ。誰の? まず思い浮かんだのはルノさんだった。もし、あの本が崩れて、マリオネットに傷がついたりしたら、それは人間に戻った時に怪我になってしまうのだ。そうなってしまったのだろうか?

 私は走り出した。ランさんの部屋を目指す。廊下を走っていくと何人かのメイドさんとすれ違ったが、みんな何かを運んでいたりどこかへ急いでいたりした。そのうちに騒がしくなってきて、複数の人の話し声が重なって聞こえてくる。もう少しでランさんの部屋だ。息が苦しい。心臓の音がうるさい。

「先生はまだですの!?」

 通り過ぎてきた通路の方で金切り声がした。私は足を止め、息を切らしながら走ってきた廊下を戻って声の主を探す。二度角を曲がると、廊下の真ん中あたりで左の壁にメイドさんたちが集まっていた。

「キャロルさん……?」

 はあはあと肩で息をしながら声の主を呼んでみると、しゃがんでいたキャロルさんが目を見開いて立ち上がる。張り詰めた表情の彼女は私の顔を見てふっと魂の抜けたような表情をした。私何があったのですかと尋ねようとしたのだが、彼女の注意はすぐに人だかりの中へと戻ってしまう。嫌な予感が止まらない。彼女たちの方へ歩き出そうとして、足が止まった。

 キャロルさんの近くで同じようにしゃがみこんでいたメイドさんが立ち上がって身を引いたので、その向こうにいる人が私の視界に飛び込んできたのだ。彼は壁にもたれかかっていて、目を閉じた横顔が見えていた。手足はまるで、そう、糸の切れたマリオネットみたいに投げ出されている。服の右袖のところは切ってしまったのか、不自然に短くなっていた。露出している右腕は赤く染まっている。


 それはランさんだった。


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