第5話 おしゃべりな三月ウサギ


 ひとしきり涙を流した後、キャロルさんは放心した様子で椅子に腰掛けてどこか遠くを見つめていた。私は床に落ちた地図や羽ペンを拾い上げながら、いったい何から尋ねたらよいだろうかと考える。自分の名前が分かっても、私は何も思い出せないのだ。聞きたいことはたくさんある。

「あの、キャロルさん」

 彼女の向かい側にある椅子に腰掛け、まだぼうっとしている彼女に声をかけた。はっとしてこちらを見た彼女は私の表情から言いたいことを読み取ったようで、少し首をかしげて微笑んだ。

「ごめんなさい、あなたにいろいろと話さなくてはいけませんわね。……と言っても、わたしの口から言えることはあまりないのだけれど」

「それでもいいです。教えてください、私は何者なのか」

 私は椅子の上で身を乗り出す。キャロルさんは黙って一つ頷き、ゆっくりと口を開いた。

「あなたの名前は『シェナ』です。お母様はこの家に仕えていたメイドで、お父様はあなたの『マスター』のお弟子さんですわ」

「えっ!」

 邪魔をするつもりはなかったのだが、思わず声を上げてしまった。キャロルさんは二の句が継げない私をちらりと見て何事もなかったかのように話を続ける。

「あなたのお母様は、よく家を空けるわたしの両親に代わって小さい頃からわたしの面倒を見てくれましたの。朝から晩まで一緒にいましたから、本当の母親によりも懐いていました。彼女もわたしを可愛がってくれましたわ。結婚してからもずっと。だから子供ができて辞めてしまったときには本当に寂しかったのを覚えていますわ。ああ、もちろんその子供というのはシェナ、あなたのことですわよ。あと、あなたのお父様は、人形などの木細工を作る職人見習いとして『マスター』のもとで働いていた人です。あなたが生まれてから何度か二人で会いに来てくれました。わたしはまだ6歳ぐらいでしたからはっきりとは覚えていませんが、おそらくわたしの両親に挨拶でもしに来たのでしょうね。ふふ、だからわたしは、生まれたばかりのあなたを抱いたことがあるのですよ。当然覚えていないでしょうけれど」

 覚えてないです、と返事をすれば彼女はうっすらと涙を浮かべてまた笑った。

「ええ、ええ。覚えていないでしょうね。あなたはまだあんなに小さかったのですもの、かわいそうに。シェナ、もしあなたの記憶が全て戻っても、ご両親の記憶はその中にないかもしれません」

「……どうして、ですか」

 返事をするのが遅れた。さっきから、情報が多すぎるのだ。新しい、私の知らない事実が次々と出てきて、頭が追いつかない。

「あなたが3歳になって間もない頃に、あなたのご両親と『マスター』が失踪したのです。詳しいことはわたしにも分かりませんが、メイドたちに聞いた話だと、あなたのお母様が夜遅くにあなたを抱えてメイドの談話室へ飛び込んできて、『すぐに夫を追いかけなければならないので、しばらくの間娘を預かっていてほしい』と言い半ば強引にあなたを他のメイドに託してどこかへ行ってしまったそうですわ。翌日になっても誰もあなたを迎えに来ず、彼らの家や工場に行ってみれば無人になっていました。警察が町中を捜索しても3人を見つけることはできなかったそうです。残されたあなたはわたしの両親が立てた孤児院に入れられることになりました。私は勝手にあなたのことを妹のように思っていたので、一緒に暮らしたいと駄々をこねましたが聞き入れられませんでしたわ。わたしはもう少し大きくなっていたら可能だったのかもしれませんけどね。……とにかく、あなたは孤児院に入りました。その後の孤児院での生活についてはわたしには教えられることはありませんわ。わたしはその孤児院に行ったこともありませんし。時折あなたが元気に育っていると報告を受けたぐらいで」

「そうですか……」

 私はぼんやりと頷いた。なんだか、他人の人生を聞かされているみたいだった。それも当たり前だろう。今の話はほとんど私が生まれる前から3歳ごろまでの話なのだ。たとえ記憶を失っていなくても、そんなに小さい頃の記憶がはっきり残っているわけがない。

 キャロルさんがふっと顔を上げた。

「そうですわ、まだ一つわたしの知っていることがありました。あなたがマリオネットになったときのことです」

「えっ、分かっているんですか?」

「ええ、あなたが15歳のときですわ。孤児院の他の子供たちを連れて近所に来ていた人形劇を見に行って、それきり帰ってこなかったそうです。他の子供たちは全員無事に帰り、いつの間にかあなただけがいなくなったと言っていたとか。おそらくその人形劇が」

「マスターの、ですか」

「そうだと思いますわ。何の音沙汰もなく一年がすぎて、今こうしてあなたはここにいるのですから」

 つまり私は今16歳なのだ。覚えておこう、きっとこれから人間として生きていく上で知っていなければならないことだ。

 私は人間として生きていかなければならないのだろうか。もうマスターと一緒にいることはできないのだろうか。この姿でマスターに会い、話をして、「君は人間だ」と言われたことで、マリオネットに戻れなくてもいいという気持ちにはなった。でも二度とマスターに会えないと思うと胸が苦しくなる。どうしてだろう。マスターは私の思っていたような優しい人ではなかったのに。あんな怖い面をもっていた。あの優しさは演技だったのかもしれない。いや、でも逆かもしれない。マスターは本当に優しい人で、怖い人を演じているのかもしれない。でもそうだとしたら、何のためにそんなことを?

「シェナ、あなたのいた孤児院はここですわ」

 さっき私の拾い上げた地図の一点を指してキャロルさんはそう言った。考え込んでいた私は慌ててはい、と返事をして地図を覗き込む。孤児院は川の近くにあるようだ。周りには大きな建物がたくさんある。このお屋敷のような大きな家に囲まれているのだろうか? 孤児院にあまりそのようなイメージはないのだけれど。

「一度行ってみるといいですわね。記憶が戻るきっかけになるかもしれませんよ」

「ここから遠いんですか?」

「それほど遠くもありませんが、一人で行くには道が複雑ですわ。周りの景色だって覚えていないのでしょう?」

「はい」

「誰かに道案内を頼みましょう。……あら」

 こくり、と頷いた私に頷き返したキャロルさんが部屋の扉の方を振り返ったとき、ちょうど控え目なノック音が響いた。彼女はきょとんとして、私の方を向いてからくすりと笑う。私もつられて笑った。なんてタイミングがいいのだろう。

「どうぞ」

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