Marionette

架月 夜

Marionette

第1話 マリオネット

「アリスは目を覚ましました」


マスターの指が動いて、私の上半身が起き上がる。

私の青いガラス玉の瞳には夢中になって小さな舞台を覗き込んでいる子供たちの姿が映った。


「なんということでしょう、アリスはいつの間にかいつもの木の下にいました」

「『あら、目が覚めたの?』」

「『お姉さん? ……ここは、どこ?』」

「『まだ頭は起きていないみたいね、アリス』」

「『……今までの冒険は、夢だったの?』」


マスターの指が曲げられる。

私の腕が肘のところでかくりと曲がり、両手が胸の前でこつんとぶつかる。


「『ああお姉さん、私すごい夢を見たのよ!』」

「アリスはお姉さんに今日の長い長い冒険を話し始めました。

 お姉さんは優しく微笑むと読んでいた本をゆっくりと閉じ、アリスの話に耳を傾けました……」










 子供たちの拍手がぱちぱちと響く中、私はマスターと一緒に小さな観客に向かってぺこりと一礼した。お母さんらしい女の人に手を引かれながらもまだ名残惜しそうに私を見ている男の子、笑顔で私に手を振ってどこかへ走っていく女の子。私は散らばっていく子供たち一人ひとりに手を振り、「また来てね」と声をかける。といっても、その動きはマスターが動かしてくれるからできるものだし、その声は私じゃないアリス役の女の人の声なんだけどね。


 そう、私はアリス。アリスのマリオネット。


「アリス、ご苦労様。今日も可愛かったのう」

 舞台の前から子供たちがすっかりいなくなってしまうと、マスターはそうっと私を抱き上げて満面の笑みでそう言ってくれた。私もにっこり笑い返したいところだけれどあいにく私の顔は動かない。ありがとう、と言葉をつむぐ喉もない。それでも、嬉しそうなマスターの様子を見ているとこの気持ちはきっと伝わっている、そんな気がしてくる。木で作られた固いこの体を支えているしわくちゃの手も、かすれた声も、白髪ばかりになってしまった頭も、全部私の大切なマスター。この時間は、毎日舞台の上で踊っている私にとって、マスターの姿を目に焼き付ける大切な時間。

「おいおいじいさん、また人形に話しかけてんのかい」

 そんな時間を邪魔したのは、舞台を片付け始めた背景担当のお兄さんだった。私は途端に心の中で口を尖らせるが、優しいマスターはお兄さんの方に振り向いてにこにこしながら返事をした。

「おや、こんなに長い間頑張ってくれたのだから、お礼くらい言わなくてはいけないではないか」

「まあ……今日はちょっと長かったなぁ。予想以上に子供たちが集まってきてたし」

「そうじゃのう。アリスも今日は緊張したかもしれんな、観客が多かったからの」

「じいさん、だからそれ、人形だって」

「人形にだって心はあるんじゃよ。ほれ、見てみろ。嬉しそうな顔をしている」

 お兄さんが私を無遠慮に覗き込んできて、「やっぱり俺にはわかりませんよ」と肩をすくめる。次にマスターの顔が覗いて、「そうかのう」と首をかしげる。その表情がおかしくて、思わず笑ってしまった。

 でも、私が笑っても、マスターには見えないんだ。もしも私が自分で口や目を動かして、笑ったり喋ったりできれば、マスターにいくらでもありがとうって言えるのに。ありがとうだけじゃない。大好きとか、楽しいとか、幸せとか、もっといろんなことをマスターに伝えられる。マリオネットのくせにこんなことを考えるなんて、私はおかしいのかな?

「それじゃあ、また明日もよろしく頼むの」

「ああ、はい。おつかれー」

 そんなことを考えているうちに舞台の片付けは終わってしまったようで、私はマスターの黒いカバンの中にしまわれる。カバンの口が閉じられると視界が真っ暗になり、外でのマスターやお兄さん、他の劇団員の人たちの声が聞き取れなくなった。しばらくすると話し声は聞こえなくなって、カバンが少し揺れ始める。たぶん、今夜泊まる場所に移動し始めたのだろう。

 寂しいけれど、マスターは劇が終われば次の日の劇が始まるまでカバンを開けてくれることは滅多にない。マスターは私や他の人形をすごく大事にしてくれているから、下手な場所でいじって壊れたりしないように配慮してくれているのかもしれない。馬車の上は結構揺れるから落ちたら私なんてひとたまりもないだろうし。マスターは腕のいい人形師だから、たとえ私がばらばらになったって綺麗に直してくれると思うけど。誰だって自分の体がちぎれて吹っ飛ぶところなんか見たくないに決まってるよね。

 宿屋の中なら別に危険もないかな、と思うけれどやっぱりカバンから出してはくれない。宿屋といえば、たとえ次の日の劇を同じ場所でする予定でも、マスターは同じところでは寝ないんだ。カバンの中にいる私にはよく分からないけど、毎日劇団が解散してから宿屋に着くまでの時間がまちまちだし、馬車に乗ったり乗らなかったりする。どうしてかな?

「――」

 その時カバンの外で誰かの声がして、揺れが止まった。もう宿屋に着いたのかな、と思ったが会話はまだ続いている。

「――」

「――」

 男か女か、老人か若者かも分からないが、とにかくマスターと誰かが話しているみたい。なんとなくだけど、あまりいい雰囲気じゃないような気がする。泥棒さんとかだったらどうしようとハラハラしつつ耳を澄ませていると、外から聞こえてくる声に怒気が混じった。

「――!」

 驚く間もなくカバンが揺れた。喉があれば悲鳴をあげるところだが、マリオネットの私は黙ってカバンの中を転がる。マスターは走っているのだろうか。やっぱり泥棒さんだったの?疑問は尽きることがないが、カバンを開けて説明してもらうわけにもいかない。ただマスターが無事に危ない人から逃げ切れることを望むばかりだ。

「――」

「――だよ!!」

 先程よりもはっきりと声が聞き取れた。マスターの声じゃないと言うことは、マスターを襲っている人の声だろうか。男の人のようだ。

 次の瞬間、今までに聞いたことのない何かが破裂したような乾いた音が響いて、私の足元から薄く光がさした。ひときわ大きくカバンが揺れ、その中でひっくり返った私の目の前にその光の入ってきた大きな穴が現れる。カバンに穴が空いていた、というより角が吹っ飛んだというべきか。穴から見える景色はほこりっぽい地面ぐらいだ。マスターはカバンを取り落としたみたい。そして、穴があいたことでマスターと男の人の声が聞き取れるようになった。

「乱暴なことをするのう」

「うるさい!」

「そんな危ないものを振り回して……警官がやってくるぞ?」

「はっ、あんたを殺してからだったら捕まったって全然かまわねぇよ」

 ないはずの鳥肌が、たった。どうしてなのかわからないけど、男の人はマスターを殺そうとしている。どうして? どうしてこの男の人はこんなことをするの?

「あいにくだが、私はこんなとこで殺されるわけにはいかないのでね」

 マスターの声がして、もう一回さっきと同じ乾いた音が響いた。同時に視界がぐるりと回り、地面がいきおいよく近付いてきて、それが視界一杯に広がると私の体中でがしゃりと嫌な音がする。

 落ちた? マスターのカバンから、落ちたの?

 焦る私には気付くことなく、マスターのものらしい足音が遠ざかっていく。

「待てっ!」

 男の人が短く叫んでそれに続いた。ということは、最初の足音はやっぱりマスターのものみたい。

 私は置いていかれたの? うそでしょ、マスター。気付いていないだけだよね。きっと戻ってきてくれるよね? あの男の人がいなくなって、カバンの中に私がいないことに気付いて。そして戻ってきて、いつもみたいに笑ってくれるよね?













 雨が降ってきたみたい。

 マスターは雨の日には私をカバンの外に出さないから、雨に濡れるのは初めてだと思う。あれからどれくらい時間が経ったのかわからないけれどマスターはまだ戻ってきてくれない。でも、私はいつまででも待てるから。だからマスター、私のことを忘れないでね? 忘れたまま他の街に移動しちゃったりしたら、もうアリスの人形劇ができなくなってしまう。なによりも、マスターにもう二度と会えないままここで壊れるのを待つだなんて、そんなのいやだよ。


 ああ、雨って冷たいんだなあ。今までマスターに守られていた私は、そんなことも知らなかったんだ。



「大丈夫か」



 しばらくの間、息ができなかった。待ち望んでいたはずの言葉が聞こえたというのに、でもその言葉を発した声は知らない人の声。知らない人の声だけど、聞いたことのある、声。マスターを襲った男の人の声。

「……っ」

 いや、と叫びそうになって私はあることに気付いた。今私は口を動かした。そして息を吸って声を出しそうになって、それをやめた。どうして口が動くの? どうして息を吸えるの? もしかして、声が出せるの? そういえば、さっきだっておかしかった。私は雨が冷たいということを知らなかった。だけど、じゃあどうして、今はそれが分かるの?

「おい、大丈夫か?」

 男の人の手が私の肩をつかんで、カバンから落ちたときみたいに視界がぐるりと回った。ただ、あのときと違って、私の体は抱き起こされる「感覚」というものをしっかりと感じていた。

「……」

「おい?」

「どう……して」

 やっぱりだいぶ時間は経っていたみたいで、視界は少し薄暗いながらも辺りの様子が伺えた。そこは狭い路地裏。道は狭く、小さい家ばかりがひしめき合って建っている。……違う。家が小さいんじゃなく、私が大きいんだ。

「どうして」

 何度も同じことを繰り返すことしかできない私を困惑した瞳で見つめる男の人は、私の次の言葉を聞くと目を見開いた。




「私、人形じゃなくなっちゃったの……?」

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