第8話 騒がしいネムリネズミ

「往生際が悪いですわ。いい加減に腹を決めなさい」

「……そう仰られても」

 強引に彼女の私室に連れてこられた彼は、珍しく途方に暮れた表情をしていた。人払いがしてあるのか使用人の気配はない。彼らは完全に二人きりであり、そしてここはそんなことが許されるような場所ではなかった。窓辺に置かれた椅子に座るよう促され、仕方なく腰掛けて目の前で仁王立ちする彼女を見上げる。彼女の背後には自分たちが入ってきたのとは違うドアが見えた。あれは彼女の寝室につながるドアだ。ここは彼女の最もプライベートな空間なのである。彼は本来ならば入ることなどできない。踏み込んでいい男は、近い未来に彼女の前に現れることになるであろう伴侶だけだ。

 彼の狼狽する様子を勝ち誇ったように見下ろしながら、彼女はわざとらしくため息をついて見せた。

「まったく。混乱させるのが可哀想だというのは分かりますし、だからこそ今までずっと黙っていましたわ。でも今となってはどこに隠す必要がありますの?」

「……知らない方がいいこともあるのではありませんか」

「あの子は知りたがっています」

 彼が目を逸らす。彼女は苛立ちとも怒りともつかない感情に任せて彼の頬をひっぱたいてやろうかと考えた。もちろん実行には移さない。彼といるとこの衝動に頻繁にかられるけれども。

 昔はこんなことはなかった。たとえ彼の目が彼女ではない別のものを見ていても、彼女は悲しみこそすれ苛立つことなどなかった。変わってしまったのは再会したあとのことだ。彼は相変わらず彼女を見ていなかったが、その目の先にはもう何もなかった。

「怖いのでしょう?」

 彼女のかけた声に彼は何の反応も見せない。否定の言葉もなかった。彼女にはそれで充分だということに恐らく彼は気付いていないのだろう。

「少し、席を外しますわ。すぐに戻ってきますから、わたしがいない間にそこのテーブルと椅子を持ってきておいてくださいね。勝手にどこかへ行ってしまったら怒りますわよ」

 そう言い置いて、彼女は反論の隙を与えずにさっさときびすを返した。彼の顔を見る間はなかったが、当惑した様子が見ずともわかる。彼女は自室のドアを閉めて背中をもたれさせ薄く笑った。

 それは自嘲の笑みだった。




 そろそろ、お屋敷の中もよく行く場所へは迷わずにたどり着けるようになってきた。私はメイドさんに用意してもらった二人分のティーセットを持って廊下を堂々と歩いていく。廊下は妙に閑散としていて人気がないが、ランさんが怪我をしたり女の子が一人人間に戻ったりでいろいろあったからみんな忙しいのだろう。道案内をしてもらう必要はないから、誰もいなくても問題はない。

 目当ての部屋に近付くにつれて、私はキャロルさんに言われたことを思い出していった。まず、ノックをしてはならない。できるだけ足音をたてずに、静かにドアを開き部屋の中に滑り込むこと。言われた通りにしてみると、滑り込んだ先の部屋は灯りがなく薄暗かった。窓が一つ中庭に面してついているようだが、分厚いカーテンがかかっていて充分な明かりとりにはなっていない。壁一面に背の高い本棚が置かれていて難しそうなタイトルの本がぎっしりつまっている。ふかふかと柔らかそうなソファが二脚おいてあり、その横に小さなサイドテーブルがある。

 部屋の中を見回していると、隣の部屋でかすかに物音がした。私は我知らずぎくりと体を緊張させて手に持っていたティーセットのトレイをサイドテーブルに置く。そしてキャロルさんの言葉をもう一度思い返し、自分がちゃんと言われた通りのことをやったかどうか確かめた。大丈夫だ。次で最後だ。

「お茶をお持ちしました!」

 私は笑顔になって、大きな声を上げながら隣の部屋のドアを勢いよく開けた。ガタンと音がして椅子に腰掛けていた人物が立ち上がる。こちらは灯りこそついていないが、中庭に面する窓が先程よりも大きく開け放たれていた。私がドアを開けたことで窓からドアへと風の通り道ができて、爽やかな風が私の長い髪をふわりと巻き上げる。

「……アリス?」

 立ち上がった人はキャロルさんではなかった。そんなことがあるとは少しも思っていなかったし、逆光でよく見えなかったのもありすぐには理解できなかったが、かけられた声は明らかにルノさんのものだった。

「え、あ……ええっ!」

 一瞬で顔がぽっと火をつけたように熱くなる。慌てて取り繕おうとするがうまく言葉が出てこなかった。ルノさんはそんな私をどこか気抜けした表情で見て椅子に腰を下ろす。

「どうしてここに……ランのところにいると」

「あっ、その、さっきまではいたんです! でもキャロルさんに、話があるって言われて、二人だけで、ここで待ってるって」

 しどろもどろに話して、私はふとあることに気付いた。思ったままに口に出してみる。

「あの、もしかして、二人っていうのはキャロルさんじゃなくて、ルノさんと私のことなんでしょうか」

「おそらく」

 ルノさんは固い声でそれだけ答えた。なんだかそれ以上聞く気になれなくて、私はぼんやりと窓の外に見える青空を見上げる。キャロルさんが二人っきりで話そうなんて言うものだから、よくないことが起こったのではないかと少し心配していたのだ。忍び足で来るようにとかドアを勢いよく開けるようにとかおかしな指令があったから、不安は本当に小さなものであったけれど。ルノさんと二人でお話ってなんだろう? 私からルノさんに言わないといけないことって、何かあっただろうか。

「アリス、座って」

「はい」

 座ろうと椅子の背もたれを引き、思い出した。

「そうだ、私お茶を持ってきたんです」

 慌てて隣の部屋に戻りティーセットのトレイを持ち上げる。残念ながら三月ウサギもネムリネズミもいないけれど、これから帽子屋さんとお茶会だ。二つの椅子が囲んだテーブルにティーセットを置いたときルノさんが微かに苦笑したのが分かった。きっと彼も同じことを思ったのだろう。彼はまだ私をアリスと呼んでいるから。

 部屋の中にいい香りがただよう。一口飲むと肩の力が抜けて、知らないうちに緊張していたのだと思う。のんびりと深い息を吐いて椅子の背もたれにもたれかかりルノさんの方を見ると、目が合った。見られていた、と思うと恥ずかしくなり照れ笑いをする。ルノさんが微笑んだ。

「ルノさん。私、なにかルノさんにお話ししなくちゃいけないこと、ありましたっけ」

「それは、私に聞かれても困るな」

「そうですよね……」

「個人的に何かあるというなら別だが、私がいない間のことはほとんど聞いてしまったからね。むしろ話さなければならないのは私だ」

「はあ……」

 話しにくいことなんだろうか、と思いながら私はまた一口お茶を飲む。キャロルさんがわざわざ回りくどいやり方で二人っきりにしたのだから、よほど重要な話があるのだろう。お嬢様の部屋を使わなくてもいいのにとも思うが確かにここならあのミティーちゃんだって絶対に割り込んでこられない。

 ミティーちゃんはみんなに帰りなさいと怒られて、それでも帰らないと言って譲らなかった。ランさんが眠るベッドの横から離れようとせず、ついにはご飯を食べるのを止めてしまった。それで根負けしたキャロルさんがお屋敷にとどまることを許したのだった。私はミティーちゃんの味方だったけれど、絶食だけは止めてほしかったのですごくほっとした。お兄さんが怪我をして心配なのは分かるけど、ミティーちゃんの健康まで損なわれたらかなわない。

「ランさん、順調に回復してるそうですね。本当によかったです」

「ああ」

「でも、どうしてあんな怪我をしたんでしょう。あれ、銃で撃たれたんですよね?」

 話すうちにあのときのランさんの様子が頭の中に蘇ってきて、私は思わず身震いする。温かいティーカップを持つ手に力がこもる。ルノさんはどこか遠くを見ていたようだったが、私の手元にちらりと視線を移した。

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