第9話 アリスは証言する --7

 なつかしい感覚の中、私は目を覚ました。ゆっくり目を開ける。視界に広がったのは部屋の天井だ。床に寝ころんでいるらしくて、視界の端には壁の上の方も見えている。ランプの灯りの感じからすると、まだ夜は明けていないようだ。その方がいい。誰かが入ってきてしまってはちょっと困る。せっかく成功したのだから、何も解決できないまま連れ出されるわけにはいかないのだ。

 例のマリオネットはどうなったのだろうと、首を動かそうとした。動かない。ちょっと驚いたけれどすぐに我に返った。自分がおかしくてくすくすと笑ってしまう。動けるわけがないのに。私の顔も手も足も今はぴくりとも動かせない。私はまたマリオネットになったのだ。

「なに笑ってんのさ」

 むっとした男の子の声がした。一瞬誰だろうと思ってすぐにその彼のことだと思い出す。

「あ、私の声が聞こえるんですね。よかった」

「当たり前だろ。アリス、おまえが自分でマリオネットになろうとしたんじゃないか。ばかじゃないの?」

 視界の外から聞こえる彼の声は不機嫌そのものだったが、子供っぽい高さや喋り方のせいで迫力はない。マスターが子供の頃に作ったのなら、彼は人間ではもうとっくにおじいさんになっているはずなのだけれど。マリオネットにされた人間の時が止まるのと同じように、もともとのマリオネットもずっと時が動かないのだろうか。

「ばかかもしれないですね」

「はぁ?」

 彼の声に苛立ちが混じる。素直に認めたのに、と私は内心で首をかしげた。別に後悔はしていないけれど、実際にばかなことをしたと思っているのだ。マリオネットになることは成功したし、こうして彼と会話もできている。ただ、どうやって人間に戻ればいいのか分からない。それが分からなければ、たとえ彼に本当のことを聞いたとしてもどうしようもない、キャロルさんにもルノさんにもランさんにも教えることができないのだから。

「わかってんの? あの銃で撃つだけでマリオネットになれるわけじゃないんだよ。僕がいなかったらおまえは今頃血まみれになってるんだ」

「えっ、そうだったんですか。知らなかったです」

「脳天気な……」

 ただ撃てばいいというものではなかったらしい。それならば私は本当に危ないことをしたのだ。銃なんて実際に扱ったことはなかったけれど、一応見よう見まねで心臓を狙ったつもりだったのだから。マリオネットになっていなければ自分の手で打ち抜いてしまっていたのかもしれない。

「それじゃあ、助けてくれたんですね。ありがとうございます」

「は?」

 彼はやはりいらいらしていて、噛みつくような反応だ。もう少し落ち着いて話をさせてくれないだろうか。

「だってあなたが私をマリオネットにしてくれたんでしょう?」

「そうだけど。おまえにゴミ箱から出してもらった借りを返したかっただけだよ」

 空気がひやりとする。不機嫌な子猫を相手にするような気持ちでいた私はぎくりとした。相変わらず視界の中には何の変哲もないただの天井があるだけだが、ドレッサーの方になにか黒いオーラのようなものが見えた気がした。憎悪。マリオネットに何度か向けられたこの憎悪は、きっと本当は彼からのものだったのだ。おのずとそう知れるような、激しく黒一色のまっすぐな憎しみ。

「僕はおまえが大っ嫌いだ」

 憎いアリス。アリスが憎い。記憶の中から呪いの言葉が浮かび上がってくる。寒さは感じないはずなのに、震えそうになった。どうしてこんなにも私は憎まれているのだろうか。私はなにか憎まれるようなことをしたのか。

「どうして……」

 どうにか声を絞り出すが、渇いた喉から出た声はかすれて小さくなっていた。それでも彼の耳には届いたらしい。彼からどろどろとした呪詛が吐き出される。

「どうしてだって? 決まってるじゃないか、妬ましいんだよ。可愛いアリス。愛されるアリス。観客の心と一緒に冒険する、主人公アリス! みんなアリスが好きなんだ、マスターだって!」

 そこで彼は一旦言葉を切り、低い声になって続けた。

「マリオネットの気持ちなんて、マリオネットにしか分からない。自分では何もできなくて、ひたすらに誰かが愛してくれるのを待ち続けるのがどれだけつらいことか! それが分からないから人間は僕らをまるで家具かなにかみたいに扱うんだ。だから僕は思い知らせてやった」

「じゃあ……やっぱり、あなたが……」

「そうだよ。生意気な人間たちをマリオネットに変えてやった。僕のことをすっかり忘れちゃった薄情なマスターを使ってね」

 やっぱりそうだったのだ。私は興奮して跳ねる心臓を感じながらため息をついた。上ずった気持ちが空気と一緒に肺から抜けていく。落ち着け、落ち着け私。人間をマリオネットにできるのなら、きっと私を人間に戻すことだってできるはずだ。それならば今ここでうまく彼を相手に立ち回らなければ、マスターの無実をみんなに伝えられない。

 必死に頭を回転させている私をよそに、彼の高ぶった感情が静まりまたさっきの不機嫌な子供という感じの声に戻る。不思議なほど寒気がすっと消えてしまった。

「なんでまたマリオネットになったんだよ。僕はもうアリスなんか見たくなかったのに」

「あ……それは、あなたがマスターを操る、って言ったのを聞いて、その」

「僕の声を聞いたってこと? ふーん。おまえはまだ僕の呪いが解けてないんだな。それで、僕が真犯人だって確かめられて満足した?」

「いえ、まだ聞きたいことがあります」

 私は気を引き締める。どーぞ、と間延びした返事をする彼に質問をぶつける。

「どうしてマスターを操ったりしたんですか? マスターはもうお年なのに。さっき薄情だなんて言ってたけど、もしかしてそれが」

「薄情だよ。勝手に僕のことを作って、それから一切見向きもしないで。最初はいろんなマリオネットを作ってれば、僕にそっくりなやつができて僕のことを思い出してくれると思ったよ。でも僕みたいな下手くそなマリオネットは他に誰もいなかった」

 彼はずっとそのことを考えていたのだろうか、と私は思った。マスターの初めての作品で、何十年間も動くことのなかったマリオネット。きっと彼は他のマリオネットみたいに、マスターの手で踊らせてほしかったのだ。マスターならちゃんとおかしいところを直すことができるはずだから。でも彼はそうしなかった。長い年月がたってだいぶ古びてはいたけれど、「チャーリー」の体は傷もついていなくてちゃんと大切にされていた。マスターにとっては、たとえ作り方が間違っていてもそれはそれで壊したくない思い出だったのだろうか。

「……マスターは、あなたのことをちゃんと大切に思っていますよ」

「なんでアリスにそんなこと分かるんだよ」

 むしろどうしてマスターの優しさがわからないのだろう。あんなに優しい手、目つきを彼は私なんかよりずっとずっと長く見てきただろうに。

「あなたにも名前があるでしょ?」

「ああ、マスターはチャーリーって呼んでたよ。で? それがどうかした?」

「チャーリーっていうのは、マスターの名前なんです」

 彼は息を呑んだ。

「じゃあ、僕には、名前なんて……」

 ぽつりと呟いた言葉があまりに悲壮感ただよう口調だったので、私はあわてて声を上げる。

「ち、違うんです! 鏡を見てください。合わせ鏡にしておいたんですけど、背中見えるでしょうか」

「……なんなの?」

「あなたの背中には名前が書いてあるんです。釣り針みたいな形の文字と、それを小さくしてひっくり返したみたいな文字があるはずです。それは、「ジュニア」って読むんですよ。つまり、チャーリー・ジュニア。あなたは、マスターの子供なんです」

 彼はふつりとおし黙った。ちゃんと文字が見えるだろうかと心配で耳を澄ませていても、反応はない。合わせ鏡にすれば、鏡を二つ使って後頭部を映すみたいにして背中を見ることができると思ったのだが、自分の体が邪魔で見えていないかもしれない。どうなのだろうか。何も言わないのは、私の言ったことを信じてくれたのだろうか、それとも全く信じられなくて、嫌になって黙っているのか。私は落ち着かない気持ちで彼の反応を待った。私の切り札はこの一枚だけだ。マスターが彼のことをどう思っているかなんて私は本当には知らないのだから、これでも信じられないと言われてしまったらもうどうにもできない。でも、きっと彼はマスターを信じることができる。だってマスターがどれだけマリオネットを大切にして、大事に扱っているのか私はよく知っている。それは私がアリスだからではないのだ。それこそ証拠はないけれど。

 部屋の中は風の音しかしない。彼は何も言わないし、私も彼に声をかけられずに黙り込んでいる。ランプの火がほんの少しだけ揺れた。部屋がだんだん暗くなってきているようだ。夜が更けていくからというよりは、ランプの火が小さくなっているのだ。そのうちに消えてしまうだろう。暖かい光が揺れる。私はだんだん眠たくなってきた。



 次の朝に目が覚めると、私は人間に戻っていた。

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