第3話 白ウサギを追いかけて


「アリス、どこにいるんだい」

 マスターの呼ぶ声がして、私は目を開けた。私は水たまりの中で泥だらけになって倒れていて、冷たい雨が体を打っている。返事をしようとして口を開けるけれど声が出ない。震える腕で体を起こし辺りを見回すと、マスターがこっちを見ていた。

「アリス?」

 マスターの目は大きく見開かれている。私が人間になってしまったから、私だって分からないのかもしれない。私がアリスです。アリスなんです。気付いてください、マスター。そう叫びたいのに、訴えたいのに、口がぱくぱくと動くだけで喉が震えない。両足もまるで地面に埋まってしまったみたいに動かすことができない。

「アリスなのかい」

 両腕で這うようにしてマスターに近付こうとしていると、マスターは自分から私の方に来てくれた。頭がくらくらするくらい何度も首を縦に振ってマスターに手を伸ばす。マスターはにこりと笑って私を抱きしめてくれた。

「おかえりなさい」

 雨の冷たさはもう感じない。マスターのぬくもりが私の心の中を温めていく。老人特有のごつごつと骨張った背中にそっと手を回して私は目を閉じる。涙が零れ落ちて頬を伝った。


 ふと、マスターの背中に回した手にふわりと何かが触ったような気がした。目を開けてみると、マスターの白髪が豊かな栗色の髪に変わっている。驚いて思わず背中から手を離す。するとマスターも私から手を離した。お互いの体を少し離したためはっきり顔が見える。

 この人は、この女性は、マスターじゃない……!!

「おかえりなさい、私たちの可愛い――」

 女性は眩しい笑顔でそう言ってまた私を抱きしめた。呆然とする私の視界には、女性のすぐ後ろで同じように笑っている見知らぬ男性が入ってくる。そこで私の喉からやっと声が出た。


「いやあああっ!!」





「きゃあ!」

 すぐそばで悲鳴が上がった。反射的に声のした方を向くと、キャロルさんが真ん丸な目で私を見て不自然に手をひっこめた体勢をしている。周りを見回してみれば私はベッドの上で上体を起こしていて今までかけていたらしいシーツは足の方へ押しやられていた。

「……あ、の人は? マスターは?」

「え?」

 部屋は相変わらず豪華なお城の中のようで、マスターや見知らぬ女性の姿はない。キャロルさんと女性とは似ても似つかない外見だったから見間違ったというわけでもなさそうだ。キャロルさんは顔立ちがくっきりしていて派手な服装も違和感なく着こなせそうな感じだけれど、あの女性はキャロルさんより地味な印象だった。

「アリス、大丈夫ですの? 嫌な夢でも見たのでしょう、すごい叫び声でしたわ」

「夢……」

 ぼんやりと彼女の顔を眺めていると、彼女は驚きから立ち直り心配そうな表情になってベッドに腰かけ、私と同じ高さの目線で体を近づけてきた。夢、と声に出して呟くと一気に頭の中が冴えていく。そうだ、夢だ。ここはキャロルさんの家の中だし雨なんか降っていない。マスターもいない。マスターは、いない。

「アリス」

 降ってきたキャロルさんの声は柔らかかった。思わず顔を上げると右頬に涙が一筋流れる。なんとなく泣いてはいけないような気がしたから、我慢していたのに。

「……少し、お話しましょうか。紅茶を淹れてもらいましたの」

 ベッドから立ち上がってキャロルさんは笑った。確かに笑ったのだけど、一瞬私は彼女が泣くのではないかと思った。泣いているのは私で、彼女じゃない。どうしてこんなに混乱しているのだろうと思いながら小さく息を吐いて、こくりと頷いた。キャロルさんが差し出してきた手を素直に握る。おとなしく後をついていくことにしよう、どうせ逃げたってまた見つかって終わりだ。私が手を握ったときのキャロルさんは輝くような笑顔だった。やっぱり、泣きそうに見えたのは気のせいみたい。





 以前に逃げ出そうとしてランさんに見つかってから、もう一ヶ月が経とうとしていた。

 その一ヶ月のあいだ、私はほぼ毎日与えられた部屋に閉じこもっていた。部屋から出て歩き回ることを禁止されていたわけではないが、この広い豪邸の中で迷ってしまうのが怖かったのだ。メイドさんや警備員さんたちに頼めば連れてきてくれるだろうけどそれはなんだか気がひける。三日に一度くらいはキャロルさんが部屋にやってきて一緒にお茶を飲んだり中庭を散歩したりしたけれど、私が一言も発しないのを緊張していると解釈したらしく彼女はひたすら中庭に咲いている花、今読んでいる物語、紅茶の種類など私にはさっぱり分からないことを話していた。

 私はもちろん本なんて読んだことはない。花や紅茶の種類もほとんど知らない。だから彼女の話は右の耳から入って左の耳から出て行ってしまったが、興味がなかったから聞いていなかったのではなく、ずっとマスターや私自身のことが気になっていたのだ。ランさんが言っていたのはつまり、マスターが人間をマリオネットに変えて誘拐しているということ。そして私はマスターに誘拐された人間だということ。でもマスターは絶対にそんな酷いことはしないし、もしも本当にマスターがやったのならどうしてもそうしなければならなかった事情があるはずだ。

 そこまで考えて少し安心したけれど、私にはいくら考えてもその事情というのが想像できなかった。


 キャロルさんとお茶を飲むのはいつも彼女の自室らしい部屋なのだけれど、今日は手を引かれるままに歩いていくといつもと違う廊下に出た。廊下は中庭に面していて咲き誇るバラの花が窓から見える。

「今日は晴れていますし、外に運んでくださる?」

 キャロルさんがそう言うと、私たちの後から黙ってついてきていたメイドさんがぺこりと頭を下げてぱたぱたと走り去っていった。おそらく既にいつもの部屋に準備されたお茶のセットを移動させなければならないんだろう。大変だなあ、なんて考えながら歩いているとあることに気付いた。外に出ると言っているのに、そういえばさっき下の階に行く階段を通り過ぎてしまっている。

「あの……」

「なにかしら」

「外に行くんじゃないんですか? さっき、階段ありましたけど」

 階段の方を指さして言うと、キャロルさんは私の方を振り向いてぱちぱちと大きな目をまたたかせた。呆気にとられた様子に私は何か変なことを言ってしまったかと思い視線を逸らして頭の中で自分の発言を反芻する。しばらくして彼女がくすりと笑う。

「ふふ、もちろん外に行きますのよ。でも階段は下りなくていいの」

「……?」

 彼女は全て了解したというように含みのある笑みを浮かべるが私は何を言っているのかよくわからなかった。そのうちにたどり着いたのは一際豪華なドアの前で、キャロルさんはノックをせずにドアを開けて中に入っていく。私も後に続いた。部屋の中は他の部屋の倍以上の広さがあり、高価そうな絵画や壷がたくさん飾ってあった。シックな雰囲気の椅子とテーブル、それに本棚などの家具が置かれていて、奥の方には大きな天蓋つきベッドがある。ベッドのシーツは整えられていたがしわ一つない、というわけにはいかなかった。ベッドも他の家具もそうだが、どことなく誰にも使われることなく放置されている感じがする。

 キャロルさんは部屋の中に入ると私の手を離して、ベッドより更に奥のテラスに面した大きな窓のところへ行きレースカーテンを引いた。レースの向こうにぼんやり見えていたテラスに改めて目をやると、今度は呆気にとられるのは私の方だった。白いピカピカに磨かれた手すりのついたテラスは、お客を十人招いたって悠々とお茶会を楽しめるぐらいの広さがあった。

「今日はここでお茶会ですわ。まだ椅子もテーブルもありませんけど、すぐに持ってきてくれますから少し待っていましょうか」

 私がぽかんとしてテラスの方を見たまま返事をしないので、キャロルさんは手持ち無沙汰に部屋の中を見回してベッドに腰掛けた。彼女の方を向くとシーツがくしゃりとしわになっているが彼女は気にしていないようだ。

「アリスもおかけになったら? ここはわたしの両親の部屋なのですけれど、両親は長い間海外にいてここには帰ってきていませんの。だから気にしないで」

 私は黙って首を横に振った。持ち主がずっと家にいないにも関わらず、完璧とは言えないまでもきちんと整えられているベッドに勝手に座ってメイドさんの仕事を増やすのはやめておこうと思った。窓の近くでぼんやりと日の傾きかけた空を眺めていると、椅子やテーブルを運ぶメイドさんたちが部屋に入ってきた。

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