褒められるポイントが多過ぎて、どこから褒めたらいいのかわからないぐらいの傑作SF。作中の技術は全て現在の技術の延長線上にあるもので、「将来は確かにこんな世界になるのかも」と思わされる説得力があります。
なおかつ「わたし」の自殺の真相に迫っていく筆致は非常にスリリングで、エンターテイメントとしても一級品のストーリーに仕上がっており、グイグイ引き込まれました。
AI技術が過渡期の今だからこそ読んでおきたい物語ではありますが、将来現実がこの小説を追い越してしまったとしても、古典として読まれ続ける可能性を考えてしまうぐらいの完成度の高さを感じます。
こういう話が読めるとSF好きで良かったと思いますね。
ミステリーの焦点となる「自殺の理由」には、SF的な設定をうまく活かしたやりきれなさがあって感心しました。
自己の多重性をテクノロジーによって外部化したような二人のわたし。引用符に挟まれたわたしたちの対話は何気ない日常的なものであっても深淵を覗くようなスリルがあります。
中でも意識を失い抜け殻となった“わたし”の解説部分が面白かったです。チューリングテストはいわゆる人間らしさを検証するものですが、ここで問われている「意識」の有無を測れるようなものではないでしょう。日常生活にも支障を来さないので不便もなく、問われればその状態を幸せだとも応じる。
これを読者である僕は障害とも欠落だとも思いませんでした。作中にあるようにむしろそれは宗教的な悟りに近いものかもしれない。ともあれ魂を失ったとも呼ばれるその状態はダイアログAIである‘わたし’にとって(普通の人間にとっても?)理解を拒むものであることは間違いなさそうです。
もうひとつダイアログAIが法人格を得るといった部分も個人的には見所でした。社会福祉法人とか非営利法人など人間でないものに人格を仮想的に与える制度は一般的ですが、AIにもそれが適用される未来の制度にも説得力を感じました。
ひとりの少女の極めて個人的な事故の顛末がSF的なアイデアによって、人間とテクノロジーとの関係を示唆する味わい深い作品となっています。すでに多くの評価が寄せられていますが、恥ずかしながら、ここに新たな駄文をひとつ付け加えさせて頂きます。
ヤバい
ヤバい
久し振りに鳥肌が立ちました
主人公の「わたし」はそもそも「死んで」います。自意識、自我のない哲学的ゾンビとなって生き返った「"わたし"」に頼まれ、わたしはなぜ自殺を選んだのか? を解き明かしていくのは、自分の人格をそっくり再現したAI。ドッペルゲンガーの「'わたし'」。
真実を理解してしまった瞬間「わたし」「'わたし'」「"わたし"」の他にもう一つ「ワタシ」が出現したような気がしました。自我を取り巻く社会との相互作用で産まれる、客観的存在としての人格。自意識の相転移。知ってはいけない、考えてはならない禁断のパンドラの箱が開いてしまったために生じてしまった、鋭い鋭い闇。
哲学的ゾンビ問題は題材からしてクラシカルな妄想ネタの宝庫だけれど、そこから出てくるIFを圧倒的な知識量が支えることで実現しているリアリティがまさにSF.です。科学技術上の設定だけじゃなくて、いかにもありそうな架空の判例がその後の社会を定義していった過程だとか、今作の舞台となるほのかなディストピアへ至った人文ディテールもやたら納得させられました。
これはしっかりと腰を据えて感想を書かねばとも思いましたが、やはり興奮さめやらぬ内にレビューを残させて頂きます。凄い物語でした。
読み終えたとき、思わず「やられたな!」と唸ってしまいました。まったく見事などんでん返し。自分が自分についた嘘は、自分自身をだますがゆえに真実と区別できなくなる、とはよくいいますが、そのことをつくづく思い出さずにはいられませんでした。また、その「嘘」のありようが、本作の主要な設定であるライフログAIの性質から演繹的に導かれる1つの論理的帰結であるのもよかった。作者が自身の編んだ設定をよく理解し、物語に巧みに反映させているのがわかります。素晴らしい腕前だなあ、としみじみ感心したことです。あと、中盤の議論のシーンは、これぞSFの華という感じで、とても楽しめました。
総じて、現代的な技術と哲学のエッジについての問題意識に貫かれ、なおかつミステリとしても完成度が高く、よい短編でした。次回作もとても楽しみです。
機械と人間が融け合う時。私はそれを技術的特異点《シンギュラリティ》と捉えている。
それゆえに、技術的特異点以後の意識、つまり『わたし』を描くことは容易ではないと考える。
なぜならば、機械と人間が融合した場合、現在単一的と想定されている意識という定義を逸脱することになり、意識とは何かを定義することはいっそう困難となるからだ。
そもそも、「意識の実在を決定的に裏付ける客観的な検証法は、ひとつとして存在しない」と、技術的特異点論者の中心人物であるレイ・カーツワイルは「シンギュラリティは近い」において語っている。つまり、いかに「わたしはわたしである」と語っても、意味がないのだ。
意識の実在を検証する方法がない。これは、『”わたし”』と呼ばれる第三の人格が示す状況がわかりやすい。
『”わたし”』は確かに問題なく生活し、会話している。ゆえに周囲からは彼女は以前のままのようにしか捉えられない。しかし、代替品による擬似的なネットワークによって成り立ち、高次的な理由づけはできないという、かつての『わたし』、すなわち第一の人格とは明確に違う存在として描かれている。とはいえ、高次的な処理ができないことに関して、周囲は疑問を抱くことはほとんどない。
「意識の存在を除外しても完全に一貫性のある科学的な世界観を構築することはできるので、意識など幻想に過ぎないと結論づける者もいるほどだ」とレイ・カーツワイルも語っていたが、まさにそれを地で行くような強烈な描かれかただ。
そして、語り手である第二の人格である『’わたし’』は第三の人格である『”わたし”』を傍観する、第一の人格の『わたし』の意識活動に近い語り手である。それによって、第三の人格『”わたし”』の特異性を描くことを実現している。
読者である私は驚嘆していた。技術的特異点以後の意識、つまり機械と人間の融合によって実現した『わたし』を、三人の人格によって描ききっていたからだ。
そして、物語は第二の人格、『’わたし'』が生み出されるに至った理由、『わたし』が自殺した理由へと迫っていく。
『’わたし’』は外へと解き放たれた情報によって生み出された第二の人格である。
『’わたし’』が生まれるためには、この物語が示す通り、ほぼすべてのプライバシーを捨て去り、表出した情報全てを共有することで、はじめて実現する。
ゆえに彼女は、自らの欠落を追い求める。第一の人格である『わたし』の死した時の理由を、失われた意識《とき》を求めて。
そうして明かされる真実は、自らを本来の人格に限りなく近い存在たらしめるために行われてきた、社会へとデータが放出されていく、プライバシーなき時代がもたらすものだった。
三人の「わたし」によって共感させ、理解させ、そしてこの技術特異点前後で起こり得るデータへの葛藤を描くこの作品は、作者の洞察力と表現力が成し得る妙技そのものだ。
この物語は、技術特異点以後の『わたし』の在り方の是非を問うSFとして、これからも語り継がれるだろう。
SF、サイエンス・フィクションの本質とはなんだろう。
未来への希望を喚起するもの。
科学技術や理論偏重の世界に警鐘を鳴らすもの。
そして、ある科学的な思想や技術から導き出される、人間と人間社会、その文明の本質を描き出すもの。
人間という存在の本質、普遍的な真実を描くことが文学の要件なのだとすれば、これは紛れもない文学であるはずだ。
ある日、自殺したわたし。
その人格を電子的に再現した‘わたし’
そして、奇跡的に蘇生し、その代償としてあるものを喪った“わたし”。
人間が人間たる本質はどこにあるのか?
近年では、ハヤカワSFコンテスト大賞作品の「ニルヤの島」、古くはフィリップ・K・ディック「ユービック」など、現代社会の科学技術や資本主義にまみれた生活の中で、その認識をアップデートしようという試みは、SF文脈の中で繰り返し行われてきていますが、この作品は間違いなく、その最新版です。
科学技術が「社会」と結びつき、インターネットを生み出した後、21世紀にはそれが個人の意識と結びつきました。それがソーシャル・ネットワーク。
それを踏まえればこそ、この作品は、個人の意識の問題につあて、過去のSF作品が踏み込み得なかった領域にまで踏み込むことに成功しています。
なんでこんなすごい作品がしれっと転がってるんですかw
現代日本のSF文壇の最高峰レベルですよ!!
この時代に生まれ、この作品にリアルタイムで出会えたことを感謝します。
読み終わって、ああ、これは自分の好きなネタだなと実感したのですが、何が良いかと言われると、すまぬ、語彙力の関係上上手く言い表すことが出来ないのだ!となってしまって今非常に苦労しています。なんていうか、新鮮なネタと自分の好きなガジェットが組み合わされている感じなんですね。
美意識というか、センスが凄い好みな部分もあるんですけれど、「センスが良い」ってそれ以外にどう言い表せば良いのよぉ〜〜〜ッ!説明が難しいんだよおおお!って感じです。
途中の「意識」の話、自分は当初救急隊員が反応を見るために使う「意識確認」レベルの話かと誤解していたのですが(意味のある言葉を発するとか、腕を顔の上に落とすと避けるとか)、読み進めているうちにああこれは「自由意志」の方に近いんだろうなと。
昆虫に意思はあるのかという話があります。彼らはただ、外部の刺激に合わせて予め用意されたプログラムによって体を反射的に動かしているわけで、何かをしようと思って動いているわけではないという話です。実際どうなっているのかに対しては解釈が分かれますが、丁度この小説で描かれている話も似たようなものかなと感じました。
わたしは関数。関数であるのなら答えは決まっているわけで、それは決定論的な世界であることを意味する。同時に途中から出てくる彼女にも自由意志というか、意識を統合する葛藤がないわけで、外から見れば人間に見えても、実は昆虫の様にただ機械的に体を動かし、答えているのかもしれない。大体オリジナル部分は結構失われているわけですしね。
そういう意味では決定論的な登場人物が多いわけで、そこには両方とも意思なんて無いのかもしれません。
なーんてことを色々と考えながら読んでたんですが、すみません。それがテーマではないですね。脱線しました。ただこういう話が好きな人はオススメです。途中あたりは続きが気になってスルスルと読めました。
SNSの代わりに『バイオローグ』という新しいメディアが誕生している近未来――人は全ての情報を、経験や感情までを含めて『バイオローグ』に記録することで、その人物の人格すら再現できるようになっていた。
これは自殺をしたわたしを巡る、‘わたし’と“わたし”の物語で、お互いの対話を通じてオリジナルに近づこうとする、欠けた者同士の対話の物語。
哲学的であり、思索的であるのだが、それを複雑になり過ぎず、難しくなりすぎないように、一人の女の子の物語に落とし込んでいる。掲げらてたテーマに臆することなく最後まで読み進めてほしいと思う。そして、ラスト二話に込められら作者のSF的思考、社会への警鐘、技術やテクノロジーへの可能性に胸を震わせたり、背筋を凍らせたりしてほしい。
正直なところ、僕は震えてしばらく物語の余韻から帰って来れなかった。けっして長くはない物語の中に、新しい社会と、新しい未来の姿や形を確かに感じることができて、いつまでも物語の世界に浸っていられるような気さえした。
物語の中では素晴らしい未来や可能性だけが描かれているわけはなく、しっかりと欠点や悪意、技術やテクノロジーの恐ろしさが描かれているのだが、それでもそれが絶妙なバランスをもって――素晴らしくもなり、悪くもなる可能性を秘めた不安定な未来を描くことに成功していると思った。
最後に、夭折の作家・伊藤計劃氏の息吹と萌芽を確かに感じるのだが――この物語は計劃氏より少しだけ優しく、そして未来の可能性に満ちている!
この作品の特徴は、レビューされた方のレビュー文の長さに現れていると思います。
自己の存在、尊厳、そんなものを考えさせる秀作だと思います。
作者は文系の院生なんですね。読んでいて、理系の方かと思い込んでいました。でも、第5章は文系らしいですね。ダイアローグAIを取り巻く社会を詳述していて、文系出身の私は最も熱心に読みました。
ダイアローグAIの余韻を残した終わり方も、理系っぽく理屈が付いていますが、やっぱり文系のセンスだと思います。
余談ながら、この作品を読んで、宇宙戦艦ヤマト2199の古代守の記憶メモリーの仕組みはこういう事だったのかもと、喉の痞えが取れました。真田技師長の「発展しきった科学は魔法と同じかもしれない」コメントだけでは物足りなかったので、ありがとうございます。
念の為に書いておくと、ダイアローグAIのアイデアは作者オリジナルだと思います。
最後に。論文、頑張ってください。