失われた意識《とき》を求めて

機械と人間が融け合う時。私はそれを技術的特異点《シンギュラリティ》と捉えている。

それゆえに、技術的特異点以後の意識、つまり『わたし』を描くことは容易ではないと考える。

なぜならば、機械と人間が融合した場合、現在単一的と想定されている意識という定義を逸脱することになり、意識とは何かを定義することはいっそう困難となるからだ。

そもそも、「意識の実在を決定的に裏付ける客観的な検証法は、ひとつとして存在しない」と、技術的特異点論者の中心人物であるレイ・カーツワイルは「シンギュラリティは近い」において語っている。つまり、いかに「わたしはわたしである」と語っても、意味がないのだ。

意識の実在を検証する方法がない。これは、『”わたし”』と呼ばれる第三の人格が示す状況がわかりやすい。

『”わたし”』は確かに問題なく生活し、会話している。ゆえに周囲からは彼女は以前のままのようにしか捉えられない。しかし、代替品による擬似的なネットワークによって成り立ち、高次的な理由づけはできないという、かつての『わたし』、すなわち第一の人格とは明確に違う存在として描かれている。とはいえ、高次的な処理ができないことに関して、周囲は疑問を抱くことはほとんどない。

「意識の存在を除外しても完全に一貫性のある科学的な世界観を構築することはできるので、意識など幻想に過ぎないと結論づける者もいるほどだ」とレイ・カーツワイルも語っていたが、まさにそれを地で行くような強烈な描かれかただ。

そして、語り手である第二の人格である『’わたし’』は第三の人格である『”わたし”』を傍観する、第一の人格の『わたし』の意識活動に近い語り手である。それによって、第三の人格『”わたし”』の特異性を描くことを実現している。

読者である私は驚嘆していた。技術的特異点以後の意識、つまり機械と人間の融合によって実現した『わたし』を、三人の人格によって描ききっていたからだ。
そして、物語は第二の人格、『’わたし'』が生み出されるに至った理由、『わたし』が自殺した理由へと迫っていく。

『’わたし’』は外へと解き放たれた情報によって生み出された第二の人格である。
『’わたし’』が生まれるためには、この物語が示す通り、ほぼすべてのプライバシーを捨て去り、表出した情報全てを共有することで、はじめて実現する。

ゆえに彼女は、自らの欠落を追い求める。第一の人格である『わたし』の死した時の理由を、失われた意識《とき》を求めて。

そうして明かされる真実は、自らを本来の人格に限りなく近い存在たらしめるために行われてきた、社会へとデータが放出されていく、プライバシーなき時代がもたらすものだった。


三人の「わたし」によって共感させ、理解させ、そしてこの技術特異点前後で起こり得るデータへの葛藤を描くこの作品は、作者の洞察力と表現力が成し得る妙技そのものだ。

この物語は、技術特異点以後の『わたし』の在り方の是非を問うSFとして、これからも語り継がれるだろう。

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