我々は何人たりとも見捨てはしない。

我々は何人たりとも見捨てはしない。

この作品において、空虚な大義として使われているフレーズだ。なぜならこのフレーズが使われてるその国において、暴徒化しかかるデモが、鎮静剤でも投与されたように一瞬でおとなしく自省されてしまうのだから。これが国民総幸福量トップの国のデモの光景だと知っていれば、フレーズの空虚さはますます加速していくだろう。

人は人を家畜にできる。すなわち人は人を矮小な物語の中に組み込める。不満を溜め込む者たちすら、自らの電池にできる。たしかに何人たりとも見捨ててはいない。だがそこに、彼らの、あるいは私たちの自由意志など必要も、出番もないのだ。伊藤計劃に毒された私の脳みそで悪意をもって解釈をすると本当にそんな感じになってしまう。

ならば我々は、自由意志は、見捨てられてしまったのだろうか?
誰もがこの物語の果てに理解することになる。決してそうではないと。

彼らは本気で、何人たりとも、その自由意志を見捨てる気などないのだ。