何か恐ろしい物語を読んだ気がする。
幸せというランク付けは、主観的な感情によって左右される。私たちは「幸福感」によって生活が豊かであるか認識し、日々が充実しているか否かを判別する。
しかし、現代で幸福であると感じる人々がどれだけいるのだろうか?
数多の国際問題、社会問題、環境問題が巻き起こる中で、未来の幸福は約束されてはいない。
「感情という多様性の根源がなければ、共感でつながる社会から、理屈でつながる社会に変わる」
本作に上記の文章が登場するが、その通りなのかもしれない。
理屈のみで構成された社会は、合理主義・理性主義で埋め尽くされ、常に人類という種の進行にとって最善の道を歩むだろう。
そこには、これまであった「幸福」という概念すらなく、ただ「種」として存続し進化するための「何か」になる。
その「何か」とはなんなのだろう?
本作で登場する新興国・ジョルカで開発された『精神兵器』がもし実行に移されたとしたら、人類はどう変化するのだろう。
もはやそれは、「人」ですらないのかもしれない。
そら恐ろしい空想の世界を目の当たりにしてしまった……。
もしも感情を制御できる装置が存在したら。
物語はそこから始まる。
人間は誰しも生きていれば、自分の感情は誰かの影響を受けざるを得ない。
身勝手なSNSの炎上案件に怒り、プロパガンダのニュースで遠い地の被害者に涙し、面白可笑しいエンターテイメントに笑えば幸せを感じられる。
自分一人で生み出せない量の喜怒哀楽に、僕たちの人生は左右されている。
それが分析され、他者によって意図的な操作が可能であれば、果たして自分はどこまで自分だと言えるのだろう。
もしも感情を亡くすことができれば。
物語はそこで終わる。
哲学的難題、しかし明瞭。
洗練された語り、しかし奥深い。
考えても仕方ないことで延々と悩みたい同士たちよ、読み応え抜群の一作です!!
我々は何人たりとも見捨てはしない。
この作品において、空虚な大義として使われているフレーズだ。なぜならこのフレーズが使われてるその国において、暴徒化しかかるデモが、鎮静剤でも投与されたように一瞬でおとなしく自省されてしまうのだから。これが国民総幸福量トップの国のデモの光景だと知っていれば、フレーズの空虚さはますます加速していくだろう。
人は人を家畜にできる。すなわち人は人を矮小な物語の中に組み込める。不満を溜め込む者たちすら、自らの電池にできる。たしかに何人たりとも見捨ててはいない。だがそこに、彼らの、あるいは私たちの自由意志など必要も、出番もないのだ。伊藤計劃に毒された私の脳みそで悪意をもって解釈をすると本当にそんな感じになってしまう。
ならば我々は、自由意志は、見捨てられてしまったのだろうか?
誰もがこの物語の果てに理解することになる。決してそうではないと。
彼らは本気で、何人たりとも、その自由意志を見捨てる気などないのだ。