自由意志クライシス

木戸相洛

1. 精神兵器

 ラングレーの曇天は青空よりも眩しい。日光を乱反射した薄い雲の白色光が、陰鬱な鉛色の空のアクセントとして網膜を焦がすからだ。


 そんな空に目を細める僕をのせたタクシーは、ポトマック川を挟んだワシントンの対岸を上流へとのぼっていく。その行きなれた道すがら、僕はいつも言葉の曖昧さについて考える。


 例えばワシントン。ちょうど僕が川の向こうに見据える、人工的に作られた計画都市。人工の対が天然ならば、この人工の都市という概念は、あたかも天然の都市が存在するかのようだ。

 僕たちは都市に生まれる。竪穴式住居でも洞窟でもなく、病院でシーツにくるまれて生まれる。都市はすでにそこにあるものとして、あまりに当然に存在する。だから僕たちは都市を人口物だと認識できていない。都市とはビルが何本あるとかいうハードウェアではなく、人と人が肩を寄せ合い生きるという環境なのである。その結果、人は天然の都市という概念を生み出した。


 ソシュールは「言葉は世界を分かつ道具」だといった。

 「言葉が人の世界の認識を形成する」と考えるのはサピア=ウォーフの仮説だ。


 言葉は世界にものを生みだした。

 認識を形成せず、認識から言葉が生まれてきた。

 いずれにしても言葉は曖昧だ。


 とりとめもなくそこまで考えると車が止まった。支払いを済ませ、厳重に警備された門を抜ける。と同時に内ポケットのIDを間違えないよう慎重に取り出す。これは僕の中の僕を切り替える儀式のようなものだ。


 僕の仕事は複雑だ。

 最も単純化するならば、2つの所属する組織で与えられるそれぞれの肩書と権限、それらを使い分けることが僕の仕事と言えるかもしれない。


 アメリカ合衆国中央情報局CIA、通称ラングレーのエージェント。

 国際連合経済社会理事会統計委員会の調査官。


 CIAというとイーサン・ハントよろしく現場に赴くスパイを想像しがちだけど、実際はオフィスでデスクワークをする者が過半数だ。僕はというとその少数派で、映画みたいにドンパチすることは少ないけれど、現場に出張って仕事をする。国連所属の調査官として各国のデータにアクセスすることもできるし、適当に理由をつけて現地に行くこともできるという、とかく都合のいいこの役職を利用して活動をしているのだ。とはいえ出先の国連オフィスでデスクワークをこなさなければならないというのは皮肉に思える。


 そういうわけで暇を見つけてラングレーに赴いた僕は上官の部屋に通されたはいいが、ほったらかされてソファに座っている。彼はさっきからデスクの周りをうろうろしながら耳を——Ear-phoneを押さえて通話している。外音キャンセリング機能のおかげで完全な無音のなかで通話できているはずだが、上官はいつも耳に手を添える。

 上官いわく、少し昔の若者——僕の親世代くらいか——は電話にでる「ガチャ」という音を不思議がったらしい。固定電話というものをろくに見たことがないのだそうだ。かくいうボクにとっては、耳に何かをあてがう仕草もまた上官の世代の伝統芸といったところだ。


 しばらくして上官は通話を終えた。

「給料の交渉ですか」

「私はそんなことしなくても今期末にはキャッシュでFordが買えるぞ」

 プライベートで、その鍛えた巨体をMINIに詰め込む上官の姿を見たことのある僕は笑ってしまった。ジョークがウケたと勘違いした彼は気分よさそうに本題に入る。


「今回の作戦はしびれるぞ」

 そう言いながら冷めたコーヒーをどかして机上の僕の近くにファイルを投げてよこす。

「ジョルカは知っているだろう」

「そりゃまあ。ニューヨークタイムズで何度か見かけた程度ですが」

 たしかその記事は、Ear-phoneの国民支給が90%を達成したというものだった。ネットにつないでリアルタイムの翻訳が可能なEar-phoneを全国民に支給して、多様な言語を話す国民同士のコミュニケーションを促進するという国家プロジェクトの肝らしい。

「君が読書家だとは知らなかった」

 僕は薄い笑いで返す。先の戦争で国内のグローバリズムの流行は終焉し、リベラルの権力は地に落ち着いている。そしてそれはの報道を繰り返したマスメディアとて例外ではない。ネット顔負けの誤報、虚報、捏造、etc……によるセンセーショナルな見出しと、それに連なるありがたい記事は多くの小説家を嫉妬させたものだ。事実は小説よりも奇なり、といったところだろうか。


「ジョルカは南アジアと東南アジアの狭間にある、さきの戦争の後に独立した若い国だ」

 先の戦争とはちょうど僕が生まれたころに始まった、水の利権をめぐる戦争のことだ。のちにジョルカとなる場所も戦場となり、そのどさくさに乗じて力を持った武装勢力が僕たち合衆国と談合して作った国。それがジョルカだ。


「独立直後は小麦と茶の農業がほぼ唯一の産業だった。しかし情報産業のインドと工業の東南アジア諸国を結ぶジョルカは、規制緩和や税制の優遇によって工場や研究所とその労働者を招致し、経済を発展させた。知的財産はいまや彼らの特産品だ」

 上官がよこしたファイルにジョルカの項目を見つけた。たしかに官民問わず多くの研究所が存在しているし、なかには軍産複合体のはしくれの名前もある。


「ジョルカ政府系の研究所の研究員が亡命を求めてきた」

「理由は」

「わからん」

「今じゃうちだって政治的亡命は簡単じゃないですよ」

「彼女の土産はジョルカが秘匿する新兵器の情報だそうだ」

 僕はまたファイルに目を通す。その研究者はディアナ・モンスというらしい。企業の研究員だが、ジョルカ政府が出資する研究所に出向している。

「国ぐるみの開発でしょうね」

「おそらくな。その新兵器の如何によっては、ジョルカがわが国の脅威になりかね ん」

 なるほど。そういうわけであまねく国家に対して権限をもつ僕が駆り出されたわけだ。


「彼女はエージェントとの交渉でうまいこと亡命を確約する言質をとったらしい」

 情けない話ですね、と相槌をうつ。ただの民間人に駆け引きで負ける人間がこの組織にいるとは、わが国の人材不足は嘆かわしい

「ところでその兵器というのは」

 上官が言いよどむあいだに、僕はその言葉をファイルから見つけ出した。と同時に、観念した彼はバツが悪そうな顔で、

「彼女は『精神兵器』と言っているそうだ。それ以上はDARPAが開示したがらない」

「どうしてDARPAが絡んでくるんです」

 あの研究所もどきがこんな政治色の強い一見に口を出すことが気に入らない。

「私も知らん。会議室に行ったらDARPAの長官がいて、そのまま会議が始まった」

 こんな業界に身を置いておきながら、上官はどうにも鈍感がすぎる。

「本音は情報がないんだろうな」

 現場に出向く僕の苦労を知ってか知らずか、上官は乾いた声で笑い飛ばす。

「幸いにもモンス女史から1つの動画が送られてきた。その兵器の実験かなにかだろう」

 と言ってモニターのスイッチを入れる。


 悪趣味なポルノビデオ、というのが第一印象だった。

 コンクリートがむき出しの部屋の中央には一人の少女が椅子に座っている。顔は良く見えないがぐったりとしていて、白衣を着た男が顔の前でフィンガースナップをしてもまるで反応しない。なにも視ようとしない目には、まるで魂と言うべきものが失われてしまったようだ。そこまで見て、この映像に音声がないことに気づいた。

 白衣の男が画面から消えてしばらくすると、少女がおもむろに顔をあげた。その顔は怒りに大きく歪み、口をパクパク動かしてなにかを叫んでいる。かと思えば数秒後には椅子の上でひざを抱え込んで震えはじめた。そのあとも次々に涙、笑顔と感情のメドレーを演じ、最後にふたたびぐったりとして終わった。


 僕も上官も感想は言わなかった。

「君の任務はこうだ。新兵器の正体を確認し、研究者を亡命させる」

「ちなみに銃は」

 と僕は一応きいてみた。

「無論なしだ。君は国連調査員としてジョルカに入国し、大統領と会談を行う。すでに委員会を通じて国連には話を通してある」


 僕はソファの座り心地を惜しみながら立ち上がった。肩に手をおいて「頼んだぞ」と言われながらも、それに緊張感が伴わないことがなんとも可笑しかった。

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