5. きっかけは必然に 

 真っ暗な一室でスクリーンに映し出されているのは、工業特区が取り組んでいる環境保護施策のPR動画だ。ときおり移される上空からの映像では全工場の屋根に太陽光パネルがびっしりと敷き詰められている。


 その映像を見ている間、僕は書きなれた報告書のどこになにを書こうかと頭のなかでシミュレーションしていた。


 これも仕事——のうち、国連調査員としての業務だ。国際的な環境基準に則すための施策が十分に実施されているのかを調査し、レポートにまとめて上司に報告するというつまらない仕事。国連調査員としての僕の査定は今期も芳しくない。


「このように、この特区では最先端の技術を用いてゼロエミッションを達成し続けています」


 長ったらしい映像と解説に飽き飽きしたころにナレーターが締めくくり、映像が終わると同時に担当者が照明をつけた。彼には申し訳ないが、往年の駄作映画を見せられた気分だ。しかもコーラもポップコーンもない。いまがアナログフィルムの時代で、映写機の後ろにタイラー・ダーデンがいれば最後くらいは笑えたのかもしれないが。


 シミュレーションの内容に満足した僕は、おもわず漏れそうになったため息とあくびを堪えながら担当者との挨拶を適当に済ませ、待たせている車に向かった。


「遅かったですね」


 車の傍に立つエラがにこやかに言う。言葉遣いは秘書としてのものだが、表情や声色はやわらかい。あのパーティ以来、ずいぶんとフランクに接することができている。ドアを閉める音の後で、僕は改めて切り出す。


「君も途中までいただろう」

「あの映像は何度か見たことがありますから」

「私も途中で勘弁してほしかったよ。ひどい映画を見せられた気分だ」

「あら、映画はきらいかしら」


 語尾をあげる、という全言語共通のシグナルでエラが訊く。視線が、表情が、仕草が、一挙手一投足が僕の注意を引き付ける。


「映画はキレイすぎるんだ。あらゆる感覚を使って世界を描写する。キーアイテムには不自然にピントが合わせられるし、音は感じるべき感情を教えてくれる。観客は座って目を開けているだけで、なにも想像しなくたっていいし、その余地はないに等しい」


「私はそういうところが好きなの」


 助手席の彼女はデバイスを操作していたが、微笑みながらちらりと僕をみた。正反対の意見なのに僕はどこか親近感を感じていた。この上澄みしか見せない卑怯で空っぽな僕と、エラという人の心のあり方に。


「あなたの考えももっともだけど、それは全てのエンターテインメントに言えることでしょう。映画で感動することも、音楽で心地よくなることも、ジェットコースターでハラハラすることも、そう感じるようにデザインされている。そしてことに価値があるから人はお金を払い、商業的に存在できるんですもの」


 だれもスクリーンになにかが投影されることを楽しむのではない。鼓膜を振動させるために音楽を聴くのではない。高さや速さを経験したいのではない。それによって生み出される感情を求めている。


「みんな感情を買っているっていうことかい。マリファナの売人に群がるジャンキーように」


「究極的にはね。そういう意味で、感情はかなりの部分を外注されているの」


 そんなふうに考えたことはなかった。人はいろいろなものを嗜むと表現するけれど、感情もまた嗜んでいるといえるのだろうか。


「それだけじゃない。あらゆる広告が身の回りに溢れていて、私たち消費者の購買意欲を刺激するためにあの手この手で感情を誘い出そうとする。好感度が高い有名人が起用されるのがその証拠ね。だれも嫌いな人の使っているものなんて買いたがらないから。でもそのことを認識できている人はいない。だれも自分の感情を疑うことはできないから」


「じゃあ外注することが前提の感情があるとしたら」


 僕の言葉を聞いて、エラがはっとしたようにこちらに振り返る。


「愛情は相手があってこその感情だろう」


「いいえ、愛情は哺乳類が胎生を獲得すると同時期に発生したと言われているわ。オキシトシンの分泌によって防衛本能を抑制して子どもを守るための献身的な動きすらも促す。愛も進化の賜物よ」


 エラは自分に言い聞かせるように、それまでになく強く言い切った。


 それにしても、この国の人は感情についてずいぶんと思索的な人ばかりだ。というよりも感情を徹底的に客観視している。みなさん感情について専攻なさっているのですか、なんて軽口を叩きたくなるほどだ。きっとエラからは「今私が感じているこれこそが感情というものです」という一般的な解答を得られはしないだろう。


「あなたはどんな感情を買うんですか」

 エラは思いのほか長く悩んでから、

「そうねえ…」


 パリン。


 一瞬なんの音かわからなかったが、割れたサイドミラーで悟る。

 銃撃だ。


 同時に、僕の脳は国連調査官からエージェントのそれにすげ代わる。


 後ろにはバイクが2台、サプレッサーをつけた銃でこちらを狙っている。その後ろのセダンも仲間だろう。合わせて4人。丸腰で待ち伏せされてのカーチェイスという状況。事態は最悪にかなり近い。


 バイクの1台が運転席の横につけ、容赦なく撃ち込んでいる。みるみるうちに厚さ3センチの防弾ガラスにヒビが刻まれていく。


「曲がれ」

 声を張り上げるが、代わりにクラクションが鳴り響く。運転席を見ると、運転手の男が頭をハンドルに突っこんでいた。


「エラ、ハンドルを」

 と叫び、ドアを勢いよく開けた。ドアがバイクに激突してバランスを崩し、景気よく転んだ。それを見届けた僕は死体を押しのけて捨て、運転席にエラを座らせる。そして後ろのバイクが横に着くよりも早く手頃な脇道を見つけ、


「そこを曲がれ」


 と指示し、同時に左折する。


 右折。

 左折。

 右折。


 幾度となく曲がって銃撃を交わす。しかしそれは誘い込まれているようで、次第に道は細くなる。同時にそれは横をとられないことでもあり、銃撃もいくらかマシになってタイヤを撃たれるという最悪の事態は免れている。もちろんその間、銃を持っていない僕はなす術もない。


 無数の穴が車にあいた頃、ついに道は車一台ぶんを残して人ひとりが通り抜ける事すらできないほど狭くなった。直線が続き、スピードがでた頃を見計らって何度目かの叫びをエラに放つ。


「ブレーキを踏め」 

「どうして」

「いいから思いきり」


 命じるままにエラがめいっぱいブレーキを踏む。強い慣性とともにがつんと衝撃が伝わる。狙い通りバイクを追突させたようだ。天井から鈍い音が聞こえた。どうやら上に乗ったようだ。


「出せ」


 エラが今度はアクセルを踏みつける。上にいた彼は息をつく間もなく転がり地面に落とされた。細い道を通り抜けられないセダンはどうすることもできず、そのまま視界から消えた。ひとまず落ち着くことができそうだ。と思った矢先に同時にエラが叫ぶ。


「まずいわ。行き止まりよ。この先の大きな通りでデモをしているみたい。封鎖されていてこれ以上進めないわ」


 道の突き当りには警官が整列していて、その先をデモ隊が行進しているのが見える。さっきの場所からはそれほど離れていない。追跡をまく絶好の機会だが、そうはいかないのも相手の狙い通りなのだろう。


「降りるぞ」


 車を降り、エラの手を取ってデモ隊に紛れこむ。ここの人たちは昨日の大統領公館に比べてもはるかに平和的で、声を揃えて主張を繰り返しながら行進するばかりだ。その集団の中にいて、スーツ姿の僕とエラはどうしたって目立つ。エラが不自然にきょろきょろしているからなおさらだ。とはいえこの群衆のなかにいれば、平面的に真横から僕たちを見つけることは難しいだろう。


「前を見て歩け」

 呼吸が浅いエラの腕を掴み、プロの動きでさりげなく当たりを見回す。背後に彼らの姿は見当たらない。真横のアパートに目を向けると、非常階段を上っていく男が見えた。セダンの助手席に乗っていた男だ。


 まずいな。

 上から見たら僕たちの姿は一目瞭然だろう。そうなっては勝ち目がない。僕は通りの先を視線で示し、


「あの赤レンガの建物までいったらそこに入って、最上階の西側の部屋に隠れるんだ」

「あなたは」


 不安そうなエラの顔に、僕は一瞬恍惚とした。私を捨てるのと言いたげな、それでも仮に僕がそうすれば、それすら受け入れてしまいそうな儚い表情に。


「必ず迎えに行く」


 今の僕が言える全ての言葉を残し、僕はデモ隊の波から飛び出す。見通しのいい場所でもやつらの姿は見当たらない。周囲に注意しながら、階段を上る男を追ってアパートに駆け込む。内階段を上っていくと、4階の廊下で男の後ろ姿が目に入った。足音を殺して男が入っていった部屋を覗き込むと、予想通り窓からデモ隊を眺めている。Ear-phoneで仲間に連絡しているようだ。僕は近くにあった手頃な間接照明を手に取り振りかぶる。


 ジャストミート。


 不意に頭を殴られれば誰もがそうなるように、男は崩れるように倒れこんだ。死んではいないことを確認し、砕けた照明のコードで拘束する。全身をまさぐって男の持ち物を調べるが、めぼしいものはない。


 ひとまず腰にあった銃をいただいた僕は、ぐったりと横たわる男の耳と僕の耳をキスさせるように近づける。男が聞いているはずのEar-phoneが発するわずかな音を、僕のEar-phoneが増幅する。


<こちらブラボー、イェーガー通り最北のアパートで女を捜索中。赤レンガの建物だ>


 僕が襲う前にエラの位置は教えられていたらしい。エラは僕との約束通りに身を隠しているようだ。そうであればなおのこと、とにかく約束の場所へ向かわなければならない。僕にはその責任がある。


 僕は上ってきた内階段を駆け上がり、屋上へ飛び出る。目もくらむ日差しと揺らめくカゲロウの先に赤レンガが見えた。と同時に走り出す。


 建物の間は車1台分程度、3メートルにも満たない。全力疾走と幅跳びを繰り返し、やっとのことで赤レンガの壁を望む1つ手前の建物へとたどり着いた。指定した部屋ならここから中が見えるはずだ。


 敵は残る1人。エラが一室の隅で座り込んでいるのが見えた。まだ見つかっていないようだ。僕は最後の幅跳びをこなし、彼女が待つアパートへと入った。


 きしむ階段に細心の注意を払いながら進んでいく。静寂に混ざった敵意の残りが僕の第六感を刺激する。


 そして会敵。


 僕が廊下へ侵入した出会いがしら、僕たちは本能的に互いに相手の銃をはじき飛ばす。近接戦闘において、銃はなんの役にも立たない。


 拳の応酬ののち、僕は相手を投げてテーブルへたたき落とす。立ち上がりざまにナイフを裾から取り出した相手に、僕は一度距離をとる。


 凶器をもった人の動きは素手の場合に比べてひどく単純になる。その単調な動きは繊細な駆け引きにおいて大きなハンデとなる。相手の突きをかるく流して手首をがっちりつかんだ僕はそのまま壁に叩きつけ、ナイフはこぼれ落ちる。しかしそれに固執するあまり膝蹴りをくらってしまった。続けてエルボー、そして本棚に投げ飛ばされる。


 僕が痛みを堪えながら男を見据えたとき、彼は足元の拳銃を拾い上げていた。


 視線を僕に定めたまま、安全装置やもろもろの準備を手早く終えた相手は、なんの躊躇もなく僕に銃口を向ける。


 この世界では手向けの言葉などない。この男もまた例に倣って沈黙を貫く。


 まだ軍にいたころ見た景色が脳裏をよぎる。銃を咥えて引き金を引いた男は後頭部に穴を開けて、そこから脳漿と血液が溢れだしていた。そして魂もまた、そこから出ていったようだった。


 銃は嘘をつかない。トリガーを引けば、きっかけさえあれば、銃弾は空気も体内もお構いなしに切り裂いて猛進する。残酷な現実だ。


 このアパートの一室で同じようになり果てた僕の姿が、これ以上なくありありと想像できた。

 ああ、僕もあんなふうになるんだな。その現実を受け入れるよりも少しはやく、トリガーが引かれた。


 銃声。


 死を呼ぶ鉛玉が産声を上げ、同時に右胸に穴があいた。

 銃弾の始点を確認し、次いで自分に開いた穴を確認して、その現実を受け入れられないというように、男は床に崩れ落ちた。胸は穴から空気を漏らしながら、なおも懸命に上下している。


「どうして…」


 僕と同じ気持ちを述べると、それ以上は言葉を発することができなくなり、そして果てた。

 男の最期の視線の先には髪を振り乱し、両手で拳銃を握りしめたエラがいる。僕と男が互いに弾き飛ばした銃の1つを拾い上げたエラは、もみ合いが終わった瞬間に引き金を引いたのだ。


 初めて銃を撃ち、人を殺したエラの手は恐怖で震えていた。硬直した手から銃を取った僕は、自然と彼女を抱きしめていた。


 振り乱した髪をゆっくりと撫でる。汗と、それに上書きされた香水の甘い匂いが脳内のアドレナリンを撤収させるのを感じた。


―――――――――――――――――――――――――――――――


 僕らはホテルと呼ぶにはあまりに粗末な安宿にいた。公館や自宅にエラを送ることも考えたが、彼女がそれを拒んだ。


 ベッドに座る僕に、鏡の前のエラが口を開く。

「私ね、汚れてるの」


 唐突な言葉に、僕はなにも言えない。鏡に映るエラは、自分を卑下するその表情でよりいっそう美しさが映えている。


「あの日、私はいつものように学校に行った。今日みたいに——いつもそうだけど——湿度が高くて空気が重かった」

 そうして淡々と、まるで他人事のように、過去の彼女の物語が紡がれていった。



 学校にトラックが入ってきて、迷彩柄の制服を着た男たちが何人も降りた。彼らは突然、神をあがめる言葉を叫んで銃を乱射した。茫然としていた私の隣にいた男の子が撃ち抜かれて、ようやく私は床に伏せた。銃声にかき消されそうな悲鳴がずっと聞こえていた。男の子の血が広がって私の手に触れたころに銃声がやんで、その時には悲鳴をあげる人はもういなかった。


 動けずにいる私を制服の男が引きずって、トラックの荷台に押し込まれた。そこには私と同じで運よく生き残った200人以上の生徒が乗せられていた。みんな女の子だった。


 遠ざかる学校の前には先生と近所のおじさんの首と、それ以外が地面に転がっていた。


 それは地獄への1つめの道標だった。


 まる3日移動した先で兵士に見初められた子は結婚させられて、あとは人身売買で稼ぐ商人に売り飛ばされた。またトラックに詰め込まれて、2回目の夜が明けたときにトラックが止まった。そこにはトタン屋根の粗末な小屋がいくつもあって、中には染みだらけのマットレスが2つと浅い皿がころがっていた。獣臭い男たちになすがままにされながら、ただ呼吸をしてた。同じ学校の男の子の相手もしたこともある。あのとき生き残った男の子は別のところに連れていかれて、改宗と訓練をさせられて兵士になっていたの。



 人の欲望や感情がむき出しになるのが戦場であり、それは性欲も例外ではない。確かな証拠がある事例のうち、僕が知っているのはベトナム戦争でのことくらいだ。人のおぞましい側面を今さらきちんと確かめることに嫌気がさしたことと、そんなことをしなくたってどんな戦場でも多かれ少なかれ行われているとわかっているから、それ以上は調べなかったのだ。


 その時のエラは生きていたとは言えないのかもしれない。心を殺し、感情を無視することで目の前の恐怖が通り過ぎるのを待つ。彼女は自律神経で呼吸をしていただけ。


 エラの物語が終わったのか、語るにえなくなったのかはわからないが、言葉が途切れた。そして彼女の手がほんの少し震えていることに気づく。


「ごめんなさい。こんな話をして」

「いいんだ。つらい話をしてくれてありがとう」

「だれにも話したことなかったのに、どうしてかしら」


 そう言って、涙を拭ってから振り返って僕を見た。誰にも話したことがない、という部分に特別ななにかを感じてしまう。薄幸で儚い顔立ちは後天的なものなのだろうか。


「もう1度抱きしめてくれる」

 消え入りそうなか細い声が、僕にはこだまして聞こえた。

 躊躇する僕の手を取るエラはまだ少しだけ震えていて、冷たい指先が心地よかった。


 それが僕にできることなら、それで君が救われるのならそうしよう。


 エラを抱き寄せると、彼女はなにかを確かめるように僕の背中に手のひらで触れた。

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