4. Papillon

 そこには人間がいた。

 金を、コネを、機会を。

 持たざるものを求める彼らはあまりにも人間らしく、動物的だ。言ってしまえば、デモをする人々と大差ない。吹き抜けから見下ろすホールにごった返すこの群衆で、ジョルカの金の半分を分け合っているらしい。


「隣、いいかしら」

 声の主は赤いドレスに身を包んだ、夜の蝶とでも呼ぶのが相応しいきらびやかないで立ちだ。歓迎する僕のとなりで続けて問う。

「こういうところは慣れていないのかしら」

「好きじゃないだけさ」

 僕は強欲な群衆に視線を戻して言った。


「私もああいう人たちは好きじゃない。欲深くて打算的で、それを下手な笑顔で隠している感じがして」

 僕は内心ぎくりとした。それは、ある意味でこの僕そのものだから。

「でも僕はああいう人たちを嫌いにはなれない。いや、むしろ憧れているかもしれない。自分の感情を疑いもせずにいられる純心さに」


 そう言って彼女の目を見て初めて気が付く。それは大統領との会談の場で民衆の変貌を預言した秘書、エラ・ベルヴァルトその人だ。昼とは趣向の違うメイクが彼女の丹精な顔立ちをいかしていて、しかしその全体は別人かと思うほどだ。言葉遣いも昼のお堅いものとは打って変わっている。


「あなたは違うのかしら」

「僕は…わからないんだ。今僕が抱いているこの感情が、従うに値する価値あるものなのかを」


 僕は日ごろ感じているものを正直に打ち明ける自分に驚いていた。そういえばここの酒は少し強すぎる。

 残っているグラスを呷ったとき、エラはこう切り出した。


「感情は進化の産物だと言われたら、あなたは信じられる」


 そう語るエラから、僕は感情を感じられなかった。わからないのではなく、どこまでも空っぽでつかみどころのない感覚。


 僕がさあと言うと、

「感情が生まれたのは、きっと生物がそれなりに複雑な組織になったときでしょう。それ以前は特定の刺激に対して特定の反応を行なう単純なものだった。エサを食べるとか、天敵から逃げるとかね。でもそんな行き当たりばったりの方法では安定的な個体の生存が望めないから、生物はあるソフトウェアを生み出した。それは刺激と反応の間に追加された、無数の刺激の優先順位を判断して総合的に反応を選択するプロセス。危険と食欲の優先順位を決めることで、エサを巣に持ち帰ることで安全を確保してから食べるし、場合によってはエサを捨てて逃げることもできる。この追加されたプロセスの出力こそが感情なのよ」


 それは心が行動を規定するという前提にたつ。空腹と敵の危険性を天秤にかけ、空腹を考慮しながら、天敵からの逃亡を優先するという反応。それを誘起するのが、あるシステムの出力である感情。


「それだと、生物は天敵に出会ったから逃げるのか、それとも抱いた恐怖によって逃げるのかわからない」


「あらゆる情報のなかから恐怖を採用した結果、逃げるという行動を実行するのよ。恐怖を抱かないよう調整されたマウスは猫から逃走しなくなるの」


「それを意識と呼ぶんじゃないかな。自分がなにを感じているかを感じる、なんて芸当ができる意識はその発展したバージョンだ」

現に僕は今、自由な意思で何を思いどう行動するのかを決めている。


「いいえ、意識はもっと上位…というと語弊があるわね。もっと後付けの機能であって、しかも下位にあるシステムを監視しているわけじゃないのよ。リベットの実験は知ってるかしら」


「いいや」


「単純な実験よ。この実験は3つの現象のタイミングを測定するの。1つめは指を動かすために脳が準備をする電気的活動が生じる時間、準備電位というものよ。2つ目が意識が指を動かそうと決意した瞬間。3つめが実際に指が動く時間。たったこれだけの実験が驚くべき結果をもたらした。意識が指を動かそうと決意する0.5 秒も前に、脳はその準備をしていたの」


 脳が準備し、意識が決意して、動く。


 同じように、あるとき追加された優先度の判断を、さらに後付けの意識は操作することができない。だから人は意識しなくたってなにかを感じずにはいられない。

 でもそんな例はいくらでもある。いまや誰もが耳に入れているEar-phoneや、もっと昔からあるPCの物理的な原理を僕たちは知らない。知らなくてもネットにつないでチャットを送れるし、プログラムだって書ける。神は細部に宿る、だ。


「人は感情に支配されている、ということかい」

 エラは少しだけ驚いた様子を見せた。

「そう。サルトルは『人間は自由という刑に処せられている』と言ったけど、私はこう思う。『人間は感情という刑に処せられている』と」


 そこで僕は気づく。

 感情が、あるいは心とでも呼ぶべきものが進化の産物だとしたら、それが生存上不利になれば、感情は失われるべきだということになる。

 視力を失った洞窟の魚のように。


考え込む僕にエラは笑って、

「あなた面白いわね」

 僕のどのあたりがエラに気に入られたのかわからないけど、こんな話を大真面目に聞く僕みたいな物好きもそういないだろう。


「始まるわ」

 唐突にエラが階下を指さす。その先にあるステージには、にこやかに微笑む男が立っている。なれた様子の彼は1つの咳払いの後、ハリのある声をマイクに吹き込む。なんてことない定型文の挨拶に注意を引き付けられるのは、彼の話術の賜物だ。そして、


「なんとこの方が来てくださりました。我らが大統領ユリシーズ・フラハティ」

 そう呼び込むと会場は拍手喝采となった。タキシードを着たフラハティが現れるとさらに大きくなる。実業家として身を起こし、長年大統領を務めてきたフラハティのカリスマ性は本物のようだ。フラハティは遠くにいる私にもわかるくらい大きく息を吸い込み、語り始めた。


「私はこの国を豊かにした。若きジョルカを世界に知らしめて来た。私の人生はジョルカと共にあった。そしてこれからも」

 私はジョルカと結婚した。唯一愛を感じるのは選挙によってのみだ。

フラハティはある取材でこう語っている。それが実際のところどうなのかはわからないが、女性関係のスキャンダルが報道されたことは一度もない。


 演説上手で知られるフラハティの言葉は胸を打つ。静かに、滔々とうとうと語る言葉の奥にみなぎらせた情熱を感じるのはうごめく金の亡者たちも同じらしい。数分間の短い挨拶は十分に人々を魅了した。そして、彼は最後をこうしめた。


我々は何人とたりとも見捨てはしない。


 会場が興奮冷めやらぬなか、エラが唐突に切り出す。

「私ね、彼の養子なの」

「彼って…」

「ユリシーズよ」

 エラはいまだ壇上にいるフラハティをアゴで示す。


「当時はただの実業家だった彼の養子になって、大学をでる前には大統領になっていた彼に秘書を頼まれたわけ」

「良い人なんだね」

「そう、かもね」

「君はいま幸せかい」


 僕はセシルと話したGNHの件を思い出したわけではなく、純粋に興味本位で訊いた。エラは少しだけ間をとって、

「ええ。母はよくこう言っていたの。『』って」

「いい言葉だね」

「あなたは幸せって何だと思う」


 僕は聞かれて、答えに窮した。

 そもそも僕はなにが幸せなのかを知らない気がする。セシルは幸福すらもただの脳の状態だと切って捨てた。たとえそう思っていたとしても、それを言葉にする太い神経を僕は持ち合わせていない。僕は苦し紛れに、


「気の持ちようじゃないかな」

「ふざけてるでしょう」

 エラが笑って肩を叩いたので、僕は年がいもなく動揺した。

「そんなこと考えたこともなかったから」

「あなた素直なのね」

「どうして」

「よく言うでしょ。他人に話したり相談したりすることで考えが整理されるって。でもほんとはね、人って普段はぜんぜん考えてなくて、話そうとしたときに慌てて考えてるんだと思うの。あなたはそのことを認められるから素直なの」


 インテリなエラらしい考えだ。僕は彼女のことを知りたくて、もっと話していたくて、なにを訊こうかと考えている。

「今の恰好も秘書の仕事かい」

 エラは階下で談笑するフラハティに目を向けて、

「彼は他に家族がいないから私がファーストレディなのよ」

「はじめは気づかなかったよ。今はさながら夜の蝶だ」

「ありがとう」

 エラはくすりと笑った。笑うと細くなる目がチャーミングだ。


「でも知ってるかしら。フランス語では蝶も蛾も同じ言葉で表すのよ」

 

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