3. The Battlefield

 大統領公館の正面を見下ろす一室に通された僕は、初めてその男を目にする。

 ジョルカ国大統領、ユリシーズ・フラハティ。

 20年以上の長きにわたって大統領を務め、その有り余るカリスマ性でこの国のアイデンティティとなっている男。権力者では珍しく嫌になるほどのエネルギッシュさは感じられないが、威厳を損なう要素は見当たらない。


「お待ちしていました。アーロン調査官」

 鋭い眼光とは裏腹にやわらかい表情が印象的だ。僕はにこやかに返事をする。

「外が騒がしくて申し訳ない。この数か月はほぼ毎日ああでね」

 そう言うフラハティの視線の先には窓があり、そこからはこの建物へ詰め寄せる群衆の姿があった。あちこちに「LOOK AT ME!!」という標語が書かれたプラカードが掲げられている。


「彼らはどんな主張を」

「主張というほどのものではありません。一方的な要求ですが、そうですね……。端的に言えば、格差解消です。私たち弱者を見捨てないで、ということですな。もちろんそのつもりですが、過去にあった今よりはるかに格差の大きかった時期にはなにも言わなかったじゃないかと思ってしまいますね」

「国民の政治への関心は喜ばしいことです」

「とはいえ、感情に身を任せる輩はいい気がしませんな」

「それはごもっともです」


 そう答えてから、もう一度窓の外に目を向ける。ひしめく人の群れは口をそろえてなにかを唱えている。例の標語だろうか。公館前の大きな広場でそれをするものだから、前列と後列の声が輪唱のように重なって、言葉として聞き取ることはできない。


 彼らはさながら感情そのものであり、感情の塊だ。


 彼らが抱いているのは怒りなのか、それとも正義感なのか、どうしても僕にはわからない。


「ヒトラーのプロパガンダは、言わば『思考する能力が足りない者』へ向けたものだった。それが民主国家で効果を発揮するのがどんな時かは、言うまでもない」

 バカにもわかりやすく、感情に訴え、細かいことは気にせず、繰り返す。この単純なプロパガンダによって、——単純が故に——ヒトラーはまったくもって民主的に、選挙によってドイツの指導者になった。


「彼らの背後にはなんらかの組織がいると」

「デモという行為が政治的手段としてそれなりに有効である、と考える輩がいる以上はね」

「彼らは利用されているんですね」

「それはある一面では正しい。だが彼らは自身の思想を疑う余地なく自発的なものだと思っていて、主観的には支援されているに過ぎないんだよ」


 僕と比べれば老獪と言えるフラハティの論理はいささか哲学の領域を孕んでいるが、今日の全てのアカデミックな体系が哲学に基づくことを勘案すれば当然のことだろうか。


 僕は移動中にしたセシルとの会話を思い出した。90パーセントの国民が幸せだと自負する国で起こる大規模なデモ。眼下の群衆を構成する彼らにGNHのアンケートを渡せばこう答えるのだろうか。幸せですが不満はあるので訴えます、と。


「デモ自体は国民の有する権利です。どんな事情であれ、平和的な対処を要望します。というのが我々国連からのメッセージです」

 こんな言葉に意味があるのかわからないが、仕事だから仕方がない。しかし、

「それはもちろんです。それに今の私にはそれ以外の方法を実行するだけの力がありませんから」

 フラハティの返答に、僕は思わず拍子抜けしてしまう。

「そんなことはないはずだ。あなたは20年以上この国のトップであり続けているのですから」

「時は移ろうということですな」


 フラハティは意外にも清々しい様子で続ける。

「昔は言葉が力を持っていて、私の言葉でこの国が動き始めた。しかし今は違う。数か月もの間ああしていられる彼らがそれを証明しているでしょう」


 言葉には力がある。言葉によって怒る人、泣く人、笑う人。感情を左右し、ときには支配する恐るべき不気味な力が。ただし、言葉を曖昧だと感じてしまう僕はその対象外だ。

 フラハティの言葉にも、きっと言葉が持つ意味以上の不思議な力が宿っている。それは若き日の彼も同じだったろうことで、権力を多少削ぎ落された今も変わるものではないはずだ。


「民主主義の歴史はご存知かな」

「ええ、まあ」

「古典的な民主主義は古代ギリシャやローマで行われていた。意外にも帝国と民主国家の歴史はそれほど変わらない。そんな民主主義がどうして一度は廃れ、再び日の目を浴びるに至ったか、君はどう考える」


 どうして廃れたのか、それは簡単だ。力が正義の時代に民主主義というものはスピードに欠けて役に立たない。しかし、もう一度民主主義に帰結する理由はなんだろうか。


 問いを返す私にフラハティは、

「教育の普及だ。庶民にまで教育がなされることが民主主義の条件だ。王ですら読み書きもままならない時代では考えもよらないシステムを、人々は学びを経て要求し実現させた。逆にいえば、民主主義とは国民が信頼にたる賢者でなければ成り立たないのだよ」


 フラハティは僕を見ているが、その言葉が僕へ向けられたものではないことは明白だ。

「ではそれが崩壊した場合は」

衆愚しゅうぐ政治となる。著名人やプロパガンダに聡い者、感情を煽り焚きつけるもの。そうしたものが選出され、国は崩壊する」


 「私は経済を成長させる」と宣言する者と、経済成長のための具体策を述べる者。本質的にどちらが発展的であるかは述べるまでもないが、それを認知しているのはごく少数だろう。


「昔なら国家権力の暴走こそが最も恐れられたことだった。だから人々はそれを監視することを望み、そのシステムを構築してきた。その結果、民主主義国家の主権者である国民は、自分に首輪をつけてそのリードを自分で握っている。人々はそのことを自覚しはじめたんじゃないだろうか。自分たちはどこまでも行くことができる、縛られるものなどない権力者だと」


 冷戦終結以降、選挙が機能している国家が暴走する確率は格段に低くなった。それに代わって力を持ったのは、世論に大きな影響を与えるマスメディアだ。戦略性のない偏った思想や政策を実現するためには手段をいとわない彼らを、フラハティの持論はそれなりに説明できる。言論弾圧に反対するマスメディアがいる限り、言論の自由は守られているのだから。


「いまや人の思考が戦場Battlefieldだ」

 フラハティは大きく息を吐き、

「長年大統領をしている身としては、民主主義の功罪を肌で感じているのでね」

「彼らはどうでしょうか」

 私が言いたいのはね。そう前置きをしたフラハティは、

「我々は何人たりとも見捨てはしない」

 ご存知でしょう。といいたげなフラハティの表情からは、それに覆い隠された真意は読み取れない。あまりにも有名なこの言葉はまじないのように繰り返されて、この国の人々に染みついている。


 それはまるで、鏡を見ているような感覚だ。

 自分のなかの上澄みのいい部分だけをすくい取る。そうして求められる自分を演じることでのみ他人と接する。自分の深いところにある本当の想いを誰かに伝え、共感し分かり合うことをしない。相手に合わせて自分を演じ変え、相手の求める感情や意見を差し出す。そんな卑怯で臆病な僕を見せられている感覚。


 そこで僕はいつものようにこう言い聞かせる。

 誰だってそんなものじゃないか。


「エラ、例の時間はまだかな」

 秘書の1人にかけるフラハティの声で我にかえる。

「まもなくです」

 そう答えた秘書はブロンドヘアに眼鏡、パンツスーツという格好だ。薄幸で儚げな顔立ちが印象的だった。


「こちらに来たまえ」

 いつのまにか窓際にいるフラハティに呼ばれ、

「見ていてくれ」

 公館前の広場にはところせましとデモ隊が詰め寄せている。それに相対するように、ところどころに機動隊の姿もあり、その付近は特にヒートアップしている。いつ暴動に発展してもおかしくないような状況だ。


「時間です」

 さっきの秘書がそういうと同時に異変が起きた。

 広場中のデモ隊が、機動隊の周りももれなくおとなしくなり、撤収しはじめたのだ。まるで今ここにいることが不思議だとでもいうように、打ち寄せた波が砂浜に吸い込まれるように。あんなにも感情を全面に押し出して、その手段を暴力に乗り換えようとしていた人間たちの唐突な自省。


 信じがたい光景を前にフラハティは言う。

「これがわが国です」

 彼の言葉と、表情と、全身の仕草からは、この混沌の国では誰の腹の内をも推察することすらかなわないように感じた。


 茜色の空に染められたフラハティの顔が、僕には底なしに恐ろしく感じられた。

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