2. 混沌の国
飛行機の中で上官から受け取ったファイルに目を通していると直射日光が差し込み、全反射して紙面を真っ白に染めあげた。反射的に目を逸らすと、すでに荷物をまとめている女性が目にとまる。インド亜大陸の民族衣装——厳密な区別は僕にはつかない——に身を包み、額に赤い点をつけたふくよかな女性は乗務員から注意を受けている。
確かあの点はビンディというやつだ。女性が既婚であることを示すシグナル、手出し無用のサイン。とはいっても近年はファッションの意味合いが強いらしい。
まもなく着陸のアナウンスが流れ、シートベルトの着用が促された。しばらくして飛行機はらせんを描きながら高度を落としていく。流れていく窓からジョルカの首都が見えた。混沌の国。その首都のわりに合衆国の多くの街と変わらず、直行する大通りが整然と生い茂るビルを貫いているだけだ。
あの曖昧な街と同じ、というのが僕が抱いた印象だ。そして多言語を包有することがこの国をより曖昧な存在にしているように思える。仕事として各地を巡ってきたが、世界はどこにいっても変わらないらしい。
この国がEar-phoneを普及させ、バベルの塔以来の混沌を脱しようとしているのは、きっとそれが理由なのだろう。
冷房がよくきいた空港から出ると、肌にまとわりつくような暑さに襲われた。心の中で舌打ちを響かせて真上を睨む。ラングレーのそれと同じものとは思えない太陽は、さえぎる雲もないジョルカの大空でこれでもかと懸命に輝いている。
「暑いな」
なんとはなしに呟いた僕に、黒塗りの車の横に立つ大柄な男——セシルが目を細めながら、
「ジョルカは亜熱帯ですからね。でも今日は特別だ」
褐色の肌に白い歯が映える気持ちのよい男だ。セシルはトランクに荷物を積みながら続ける。
「太陽があなたを歓迎しています」
「クーラーが恋しいよ」
後部座席へ乗り込む。作業を終えた男は運転席へ乗り込み、バックミラーで私を見ながら言った。
「ようこそ、混沌の国へ」
車は大統領官邸へと走り出した。
混沌の国。そう呼ばれながらも、ここにも秩序が存在する。ヒンドゥー教の影響を色濃く受け、カースト制度をはじめとした骨董品のようなシステムがいまだに現役だ。ビンディもまたその1つなのだろうか。
「この国は初めてですか」
「ええ。仕事柄世界中を回っていますが、やはり途上国での仕事が多いので」
「私たちもまだまだ発展の
セシルは謙遜しながら笑みを浮かべている。その瞳の先には首都のビル群が生えていて、競い合うようにその高さを誇示している。
「しかしGNHで世界一になったことには驚きました」
これは過去に僕が読み飛ばしたCNNの見出しだ。敵を知るのも仕事のうちだからと呼んでみると、内容は興味深いものだった。
GNH——国民総幸福量とは、幸福に関する72におよぶ項目についてのアンケートだ。
自殺を考えたことはありますか。
周囲の人を信頼していますか。
あなたは幸せですか。
国民はそんないくつもの無神経な質問に答えなければならない。そして綿密に集めたデータから幸福度が算出される。その平均値の最大化がジョルカ政府の行動規範となっている。
この国では幸福が数値化されているのだ。
「私たち政府の人間もですよ。特に満足度の項目では、90パーセント以上の国民が幸福を実感しているという結果でしたから。といってもGNH調査の有意さには疑問を持たれてますから、真面目に調査した国がどれだけあるのか分かりかねますが」
自分が幸福であるという認知、あるいは自負。そこに隠された「幸せだから幸せ」というトートロジー。
「GNHは主観的で非科学的だといわれますものね」
「しかし幸福という感情を扱うのですから主観的なのはあたりまえだと思うのですがね」
この多様性が是とされる世界では客観的で絶対的な幸福なんて存在しない。
だったら幸福をどう定義すればいいのだろうか。GNHのスコアだろうか。それとも、「幸せだから幸せ」が究極の定義なのか。この男なら、セシルならその答えを持っている気がした。
「そのうえで幸福を定義するならなんと表しますか」
「そうですね」
セシルは少し悩んでから「科学的に言うのなら」と嫌味っぽく前置きをして、
「脳の状態、ですかね」
幸福とは、脳がエンドルフィンで満たされた状態です。それが幸福なのです。さあ一緒にマリファナをキメましょう。そんな文句で幸福を売買する時代も、そう遠くはないのかもしれない。
「それが幸福の正体ということですか」
「というよりも、そうとしか言いようがない、といったところです。一説には2185ある感情は27の基本的な感情とその組み合わせでできているそうですよ」
「そんなに単純なものなんですか」
「あくまで一説です。それでも、私としては27でも十分多いと感じますけどね。自然に存在する100に満たない元素の一部から我々が生まれてきたのですから」
僕たちの車が走る高架の高速道路からICへ向かってクロソイド状に道路が延びている。その支柱の根本にはトタン屋根が密集しているのが見える。見るからに治安も衛生環境も最悪なそこは典型的なスラム街だ。
ジョルカは外国からやってきた労働者に対して国籍取得を推奨し、高度な人材や安い労働力を確保した。移民の審査はアメックスよりざるだとまで言われる。そしてこの国には今でもあらゆる人間が集まり続けていて、人種も文化もごちゃまぜになった。まさに混沌だ。
ジョルカが推進してきたこの移民政策によって社会から押し出された人々は、否応なしに都市のすき間に身を寄せ合った。そうして自然発生したスラムはジョルカ中に溢れていて、合わせて100万人以上も存在するが、彼らには国家の威信をかけたGNHの調査すら行われない。
「スラムですか」
白々しく聞こえないよう注意して訊くと、セシルはバツが悪そうに答えた。
「ええ。どれだけ対策を打ってもどうにもならなくて」
「彼らは幸福なのでしょうか」
彼らをMRIにでもいれて脳を観察すればわかるだろうか。もしくはGNHの調査をすればわかることだろうか。
バックミラー越しにセシルの視線を一瞬だけ感じた。僕は続ける。
「私は経済的な裕福さが幸福とイコールで結び付けられるとは思っていません。しかし、十分条件なのではないかと考えているんです。経済力があれば幸福とは言わないけれど、前提となる条件なんじゃないかと」
「そう難しく考えなくてもいいのかもしれません。幸福とは世界中の文化圏で驚くほど普遍的な条件で成立します。それは健康と良い統治、社会とのつながりの3つ。それさえあれば人は満足していられるのですから」
幸福とは、感情とはそんなものなのだろうか。そうだとしたら、感情というものの価値が暴落してしまう気がする。
「とはいえ、もちろん我々は彼らの幸福の実現を願っていますし、そのシステムを構築しつつあります。使い古された言葉ですが、我々は誰も見捨てませんから」
我々は何人たりとも見捨てはしない。
若き日の現大統領が用いたこの言葉は、現在でもジョルカ政府があらゆる場面で用いている。
それは当時貧しかった彼らが国家としてのアイデンティティと存在感を示すための、ある種の苦し紛れだった。
その後多数の移民を受け入れることで、ジョルカは当時の数倍のGDPを手に入れた。スラムの住人はその犠牲とでも言うのだろうか。
そもそも幸福の量や質を勘定すること、それを事前に予測することなんてできないんじゃないか。
思いあぐねる僕をのせ、車は陽炎にゆらめく摩天楼へと分け入っていく。
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