8. せめて、人間らしく

 洋の東西を問わず、蜂起した民衆の強さは歴史が証明している。


 フランス革命。

 黄巾の乱。


 名もなき民衆が歴史を動かすということはありふれた出来事だ。


 血まみれで拘束される人。

 火だるまになって転げまわる人。


 催涙ガスの白煙は狼煙のように立ち上り、今がそのときだと人々を煽りたてる。

 大統領公館前の様子は、ジョルカがありふれた歴史の1つになることを予感させる。それはまるでドラクロワの『民衆を導く自由の女神』みたいだ。ただし、ここにマリアンヌはいない。


 入り乱れた群衆をかき分けて進む。目前にある遠近法が狂いそうなほど大きな建物に向かって進めばいいだけだから迷うことはない。

 どうにか公館までたどり着いたが、門が閉められていて中に入ることができない。どうやって中に入ろうかと侵入経路を探っていると、唐突に僕の脳が不快感を訴えた。

土が口に入ったときのものを数百倍にしたような、膝をついてしまうほどの不快感はどこからか聞こえるモスキート音に起因しているようだ。ひきつった胃袋が中身を吐き出そうとして何度もえずく。


 感情の制御。


 それ以外に説明できない。あまりに強烈な不快感から逃れるために、僕の意識は朦朧とし始めていた。たまらず倒れこんだ僕は、その間際に声を聞いた。死ぬときに最後まで感じられる感覚は聴覚だ、という話を思い出す。

「中に連れていけ」




 暗い。

 誰かの声は聞こえるけど何も見えない。どれくらいの間意識を失っていたのだろう。急に視界がひらけて満月が僕を照らす。そこで初めて袋をかぶせられていたことを知った。


 そこは大統領公館だった。初めてフラハティと会い、——そのときは意識していなかったが——エラと出会った部屋だ。ちょうど窓の正面で輝く満月と公館前の広場で輝く炎が満点の星空を模倣している。それをよく見るといまだに機動隊とデモ隊が押し合いへし合っているのがわかった。あの炎は火炎瓶のものだろうか。


「気づいたのね」


 エラの声だ。少しづつ頭が冴えてきた今ならわかる。が、僕が椅子に縛り付けられている理由を教えてくれることはなさそうだ。


「私に感情がないってこと、驚いたでしょ」

 エラのいたずらっぽい笑顔がその言葉を信じられなくする。


「ああ。違和感はなかったから」


「そうでしょう。私の感情的なふるまいはね、後天的に学習したの。せめて人間らしく振舞おうと思って」


 僕が気づかなかったことを嬉しそうに、無邪気なこどものように明るく話している。その話の悲しさを自覚していないのだろうか。


「みんながどんな時どうしているのかを観察して、どうすれば共感しているとみられるのか、みんなと一緒だと思われるかを少しずつ検証していく。映画は資料の1つにしていたの。映画は……あなたは想像の余地がないと言ったけど、それくらいわかりやすい方がよかった」


 後天的な学習。そんなもので感情という、この質感を伴うものを理解できるのだろうか。表向きの振る舞いが同じでも、その内実は全く違う。

 いや、理解なんてしなくてもよかったのか。


「エラ、君は一度も感情というものを感じたことがないのかい」

「小さいころ、両親と暮らしていたころは普通だった。でも一度失ってからは…。わかるでしょう。忘れることで生きていけることの1つや2つ、誰にだってあるから」


 悲しみ。


 売春所での体験を思い出したのだろうか。それとも、僕がそう推察するように振る舞っているだけなのか。


「つまりね、私は証明したいの。感情が価値のあるものじゃなくて、むしろ今の私たちには不要なものなんだって。意思決定のための情報の1つ感情がなければ、完全に合理的な存在になれる」


 エラは、感情がないという状態でただ1人生きてきた孤独な彼女は、恍惚とした表情で語る。


「僕が気を失ったのもこのシステムなのか」

「怒らないでね。あの状況であなたをここに運び込むにはああするしかなかったの」


 エラは炎と月の夜空を見下ろす。月がかたどるその後ろ姿の輪郭を僕は目に焼き付ける。しかし夜空と彼女の影の境界線は不確かでいまにも消えてしまいそうだ。


「見て。感情が、怒りが燃え盛っている」

 それは真実を知っている今となっては空っぽな言葉に聞こえる。


「あなたのせいで計画が台無しなのよ」

「計画」

 事態が飲み込めない僕に、エラは優しく教える。


「そう。生物は変化しなければ生き残れない。これは人がより生存に適した存在になるための、進化の計画」


「無秩序な複製ミスによる変化ではなく、人為的に進化させるつもりか」


「進化論は本質的にそう説明されるけど、偶然によってデザインされることを高尚なものだと捉えることは間違いだわ。そんな無駄の多いプロセスじゃなくたって、私たちは合理的デザインが可能だもの」


「でもそれは多様性を否定することになるじゃないか」


 エラには感情がないから全ての選択は数学的な合理性で下される。でも感情があっても双曲線割引ではない価値観によって未来の報酬を選択する個体はいる。そんな多様性こそが尊いんじゃないのか。


「この社会が本当に多様性を求めていると思うの」


 僕は答えられない。僕らはもはや厳しい生存競争が行われる自然ではなく、都市に身を寄せ合い生きている。秩序と安定のための社会に生きている。


「群れをなすというのは多くの哺乳類がとるソフトウェア的戦略で、それだけ効果的なのね。もちろんこれは遺伝子のなかに書き込まれている。そして群れの個体数やそのつながりの強さは脳の大きさに比例している。でもヒトにはこれが通用しないの。私たちよりも大きな脳をもっていたネアンデルタール人は少人数での生活を営んでいたことがわかっているのよ。その差は脳の大きさではなくて構造的な違い、質的な違いによって生じている」


 月を背にして立っているエラの顔は影になっていて表情を読み取ることはできない。その表情にはもとになる感情と表現すべきものはないけれど。


「具体的にはね、ネアンデルタール人と比べて現生人類は小脳が大きいの。この小脳というのは認知能力を司る。そしてこの高度な認知機能が共感という機能につながった。こうしてヒトは生まれも育ちも違う赤の他人と関係性を構築できるようになった」


 ヒト、とくに子供はマネをするということに対して、あらゆる種のサルと比較して異常に強い関心をもつと聞いたことがある。こうした能力が人間がサルと一線を画する理由なのだろうか。


「個体同士の関係性が血縁とかの先天的なものから後天的なものに移り変わる時。この瞬間に“群れ”は“社会”にアップグレードされたのよ。環境が変わったのなら生物も変わる。そうあるべきなのが進化論でしょう」


「だからって感情がいらない理由にはならないだろう」


「人が構築できる人間関係の上限は150人なの。先進国でも狩猟民族でも変わらず、150人。これをダンバー数というの。でも肥大化した今の社会はそれだけでは上手く回らなくなった。共感という、感情の共有によって構築する関係は確かに強固だけど、150人以外の人間が目に入る今の社会では共感できない他者への攻撃性を助長してしまう」


 社会は肥大化し、いまや地球を覆いつくしてしまった。ネットによって、真の意味で無数の他人とつながり、無数の情報に接することができる。進化によってダンバー数が増えるよりも圧倒的に早く、わずか数千年でこの社会をつくりあげた。しかしそれは人のハードウェアによる制約を超えているから、社会を維持しつづけるためには無数のそれらを取捨選択しなければならない。


 人は見たいものしか見ない。頭蓋骨のなかの演算装置のスペックの都合でそうすることしかできないから。だから見たくないものには目蓋を閉じる。


「共感でつながる社会から、理屈でつながる社会に変わる。ということか」

「そう。感情という多様性の根源がなければ」


 たしかに、この好きだとか嫌いだとかいう感情が無くなれば差別や紛争といった多くの社会問題は解決されるのかもしれない。


「1万年前と比べて人類の脳は縮小しているの。脳はなにか不要になった機能を捨てようとしているのよ」


 それが社会生活においては不要に、あるいは害をなすようになった感情。エラはそれを取り除こうとしているのだ。

「感情がなくなって、みんなは幸せになれるのかな」

「幸せが脳の状態だというのなら、幸せではないかもしれない。その機能を捨てることになるから。でも幸福という尺度で自分をランク付けして生きることから解放されるのよ」


「あなたは幸せですか」と迫られる世界。

「僕は幸せだろうか」と苦悩する世界。


「そろそろ行くわ。あなたが来てくれることを信じてる」

 うっとりとした目でそう言って、エラは部屋を出ていった。


「エラはどうしてお前を気に入ってるんだろうな」

 背後からセシルの声が聞こえ、彼がいることをここで知る。ずっと黙っていたから気づかなかった。


「気に入っている、のかな」

「結果オーライとはいえ、計画がこんなことになったのにあの様子だからな」

 僕は無邪気にうれしく思う。

「あれを聞いた気分はどうだ」


 セシルが僕に見えるようにしてスマートフォンを操作すると、あの強烈な不快感に襲われた。ひとしきり僕がうめいた後、満足した彼がまたスマートフォンを操作するとその不快感は唐突に終わりを迎える。

 僕は息も絶えだえに、


「言わなくてもわかってるだろう。その気分になるよう制御するものなんだから」

「モンスが音楽は心で…とか言ってただろ」

「音は心で音楽になると」

「そう、それだ。俺はそんなキレイなもんじゃないと思うけどな。音は心を強姦する、のほうがしっくりくる」


 キュルキュルとナットを回すような音が聞こえる。銃にサプレッサーを装着しているのだろう。


「戦争中の孤児が人身売買で売春施設に行き着くのはよくある話で、あいつも子供の頃はそこにいた。当時兵士だった俺は偶然あいつがいた施設を解放した。みんな絶望した顔だったが、あいつだけは違った。絶望すらも抱かずにがらんどうの目でついてきた。あとで感情がないと聞いたときは、驚くよりも納得したよ」


 ぐったりと座る僕の前を、セシルがゆっくりと歩きながら言う。


「フラハティが彼女を見つけたのはこのシステムをテストする検体を探しているときだった。感受性の高い子供で実験することが必要だったんだ」


「それは売春施設のやつらがやったことと同じじゃないか」


 セシルは「かもな」とだけ返して続ける。

「もとは感情を消すことを目的にした研究ではなかった。感情がない状態のデータがなければそれを再現させることができないからな。だが数十人のサンプルの中で彼女は異質だった。そこで我々は発見したのだ。感情がない、という状態を。エラのデータからそれを見つけ、そこから感情を呼び起こす技術と並行して“打ち消す”技術が開発された。」


 彼は初めて僕に正面を向けた。

「これを実行しようと決め、進めたのは我々ではない。フラハティだ」


 合理的な実業家である彼ならば納得できる。そういえばフラハティの姿がない。


「システムが完成して間もなく、激しいデモが発生した。ちょうど今と同じように。我々はこのシステムの効果を目にできると期待した。だが彼は実行しなかった。」

「どうして」


「わからん。とにかく、システムはここに設置されたまま封鎖されて数十年が過ぎた。だがエラはあれが必要だという思いを強めていった。今の社会の限界を知っているはずのフラハティにその失策を突きつけ、今度こそ実現しようとした。合理的な秩序でできたユートピアを」


「その結果がこれか」

 僕はアゴで広場の争乱を指し、皮肉を込めていったが、


「結果論だが、この状況は望んだものだ。こうした混乱が起こればフラハティは今度こそシステムを起動するだろう。そうならないのなら、我々がスイッチを押すだけだ」


 そこで僕はようやく思い至る。

「デモの黒幕はお前たちなんだな」

 

 セシルは答える。

「それだけじゃない。エラとお前を襲ったやつらもだ。お前が米国の工作員かを確かめるためにな。だが計算外だったのは、エラがお前を助けたことだ。そのせいでデモの直接的な指導者から裏切りを疑われて、あのざまだ。今の彼らは制御されていない、自分の本当の感情で行動しているよ」


 エラが撃った男の最期の言葉の意味がようやくわかった。計画も大詰めのタイミングで訪れた僕をテストし、必要ならば殺すという命令を実行し、その寸前で主に殺されれば理由の1つや2つ聞きたいものだ。僕だってそうするだろう。


「エラはやる気なのか」

「エラは感情を消すことによって社会をより良くするつもりなんだ。合理的にそれを選択した。もう誰にも止められない」


 もう間もなく、感情というものが終わる。


「モンスを殺したのは誰だ」

 そこで彼の表情が変わる。

「死んだのか。彼女が」

「ああ、目の前で突然自殺したよ」


 セシルは同様して、そんなわけがないとブツブツ言いながら歩き回る。

「あいつがいなきゃ売り込むルートが切れるじゃないか」

「売り込む。なにをだ」

「この兵器をだよ。こんな便利なものを世界各国に売りさばけば大儲けだ」


 僕は手首に縄が食い込むのを気にせず、椅子と縄をきしませて暴れた。わかっていながら傷ついたエラの心を強姦し、挙句金儲けを企んでいる。相いれないこの下衆と同じ空気を吸っているのが、僕は我慢ならない。


「なぜそんなことをする」

「決まってるだろう。金だよ。金は幸福の十分条件だからな」

 初めて会ったときの僕の言葉を引用し、

「グルカ兵ってのは聞いたことがあるだろう。イギリスに部隊を持つネパール人の兵士だ。俺もその一人だが、退役した後の年金じゃ満足に生活できない。大抵のやつはグルカ・セーフティ・サービスで傭兵として働く。俺がこの国の戦争に参加したのもそれだ」


 グルカGセーフティSサービスS。世界大手の民間軍事企業だ。アメリカもロシアも気にかけない、泥沼の紛争ではおなじみの傭兵たち。


「そこで俺は、人の命もなにもかも金で売買されているという世界の秩序にやっと気づいた」

 セシルの口角は醜く釣りあがっている。


「お前がこの計画に賛同するのなら、解放するように言われている」

 感情を持たない人間が感情に終わりを告げる瞬間を、特等席で見届けようというわけか。

 セシルは椅子に座った僕の前に立ち、顔を突き出した。


 


 僕は後ろに組んでいた手をほどき、隠し持っていたナイフをセシルの首に突き刺す。


「どうして」


 どうしてナイフを持っているのか。

 どうして死ぬのか。

 どうして死ぬのが怖いのか。


 それらは全てエラに聞いてくれ。


「あなたが来てくれることを信じてる」


 そのときエラは僕の手にこっそりとナイフを渡した。彼女が何を考えているのかはわからない。だからこそ僕はエラのもとへ行かなければならない。


 本当のところ、僕は感情がどうなろうが構わない。彼女がいるから、彼女が来いと言うから、僕は行くだけだ。


 すでに息絶えたセシルから拳銃を奪った僕はモンス研究員が言った場所、大統領公館の地下へと向かう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る