9. if I can’t be yours

「来てくれたのね」


 エラは子供のようにのびのびと言う。僕が構えている銃がまるで見えていないように、想起されるべき恐怖など微塵もないとでもいうように、目を輝かせながら。


 手足を縛られて床に転がっているフラハティをぴょんと飛び越えて駆け寄り、僕の手をとって部屋の中央、制御盤の前へ引っ張っていく。


「セシルのことは聞かないのか」


 僕がここへとたどり着いた時点で聞くまでもないが。


 エラは血まみれた僕のシャツを見もせず、

「殺してくれたんでしょう」

 と淡々と言ってのける。


「もう彼は長いこと邪魔だったの。押し付けてしまってごめんなさい。そしてありがとう」


 たとえ疎ましかったとしても、長く一緒にいた人間の死をこうもあっけらかんというエラには、やはり共感することができないのだろうか。だとしたら僕へのありがとうには、学習で得た「このシチュエーションでは」以上の意味もないのだろう。


「彼はこの感情を司るシステムを世界中に売り払おうとしていた。ロシア、中国、EU、そしてあなたの国」


 エラの冷たい顔を赤い回転灯が一定の周期で無機質に照らす。その顔が表す機微きびはわからないが、僕の心のなかの良心と呼ぶべきモジュールを痛めつけた。いままでとても数えきれない無数の人々を騙し、殺してきた。にもかかわらず、エラを騙していたという罪悪感の刺は僕の心に絡みついてその動きを制するのだ。


「お金に目がくらんで余計なことを考えていたみたいだったから。あなたには迷惑をかけてしまったわね」


「モンスは君が殺したのか」


「ええ、そうよ」


「裏切って亡命しようとしたからか」


「それはどうでもよかったの。デモ隊のEar-phoneにシステムがアクセスするためのバックドアを開発してくれた時点で彼女の役割は終えていたから。セシルと違って、このシステムを売りさばくわけでもなかったし」


 部屋には大きなモニターと、それを操作するためであろういくつかのコンピュータが並んでいる。月へ飛び立ったアポロ何号かの管制室を思い出させる部屋だ。それは人類が船に乗せた夢を実現させた場所。


「それより、いい話をしましょう」

 エラはツアーガイドのように、僕と制御盤を交互に見ながら語り始める。


「このシステムはね、人類が夢を実現させてくれるもの。感情に振り回されることなく、争いのない社会を実現してみんなを幸せにするのよ。開発時の名前は『パンドラの箱』。神話ではその箱を開けてしまった時、最後に残っていたのは……」


「希望だろう」


 エラは「そう」と嬉しそうに言って、

「これは“あなたたち”の希望なの。感情から解放され自由に合理性を選択できる唯一の、ね」


「一人残らずか」

「『我々は何人とたりとも見捨てはしない』」

「それを拒む人がいるとしたら」

 エラは僕に合わせていた視線を外し、


「幸福は拒む人には訪れない。でも感情を崇高ななにかだという人はたくさんいて、きっとこの”希望”を拒絶する。だからこのシステムは数ある感情の外注先のなかから音を採用しているのよ」


 滑らかに続けられたなかで続く言葉だけはどうしても異質に感じられたが、それは恐れというのが最も近いのかもしれない。


「耳にはまぶたがないから、この心を拒むことは誰にもできない」


 かくてゼウスの御心からは逃れがたし。

 詩人が記した、「パンドラの箱」についての末文を引用したような話だ。僕の意識はそれをこう結論付けた。


 狂ってる。


 パンドラの箱に最期に残ったのは希望だが、世界へ飛び出していったのは争いや疫病といったいくつもの災厄だ。


「あの時、君はなぜ撃った」

 赤レンガのアパートの一室で僕が銃口を向けられたとき、エラが引いた引き金。あの時点でエラは僕がスパイだと見抜いていたはずだ。


 エラが困惑の表情を浮かべる。凍てつく無感情な彼女も、時おり見せるあどけない豊かな彼女も、決して困惑し迷うことはなかった。合理性とは瞬時に決定される自明のものだから。


「…わからない。あのときスパイであるあなたを始末することが合理的だった。余計なリスクを負わないために。なのに私は、引き金を引いた」

 エラはこめかみを押さえて自問する。


 どうして僕を守ったのか。

 どうして僕をモンスに会わせたのか。

 どうして僕をここまで導いたのか。


 どうして僕と一夜を過ごしたのか。


「君は感情がないけど、感情に憧れがあるんじゃないのか」

 そうかもしれない。消えてしまいそうな細い声でそう言うと、また考え込んだ。そして、どうにか出した不慣れな結論をゆっくりと言葉にしていく。


「パーティのとき、あなたは『感情を疑わない人に憧れている』と言ったでしょう。同じだって思った。感情があるように振舞おうと思って感情を勉強してきた私と、あなたは同じことを考えているって」


 エラは必至に言葉を探し、思いつく限りで最適なものを口にした。


「これが共感、なのかな」


 それはエラができるはずのないもの。

 ここにいたって、エラは口にガムテープを貼られて横たわるフラハティに初めて目を向けた。


「私にはずっとわからなかった。あなたが大統領になってすぐのとき、どうしてこのシステムを実行しなかったのか」


 と言いながら近寄り、ガムテープをはがす。フラハティはエラに体を起こされ、デスクにもたれて座った。


「教えて」

「それはな、お前が理由なんだよ」

 フラハティはもう一度念を押すように「エラ」と呼びかけた。


 部屋を支配する沈黙。それがこの二人にとって何を意味するのだろうか。


「私はもとはただの実業家だ。感情ではなく合理性で生きてきたし、そうでない人を軽蔑さえしていた。だから感情を制御する技術に興味をもち、開発に出資した。そして当選してすぐにそれを実行しようとしたとき、お前の顔が思い浮かんだ。…愛おしいと思った。この子が、エラが感情を持っていないことを知っていたし、私の愛情すらなんとも思わないことも知っていた。それでも、どれだけ不合理で報われないとしてもこの子を守りたいと思った。そのとき私は感情を知った。人からそれを奪うことなど私にはできない」


 エラは愛情を脳内物質の働きだと言った。胎生である哺乳類の進化論に基づく適応機能だと。だがフラハティが血縁関係にないエラに愛情を抱いたことはそれを覆すことになる。


 目を潤ませた彼女は動けずにいた。そして目からこぼれると同時にフラハティにすがりついて泣いた。


 涙。


 娘が初めて父の愛情を知ったのだ。

 しばらくして立ちあがったエラは構え続けていた僕の銃を掴み、銃口を自らの額に密着させる。日差しの強いこの国にいて、白くキレイな手だ。


「ねえアーロン。ジャック・アーロン。あなたは…」

 黙って、もっと聞いていようか。それとも……。


 しかし僕はなにも言えない。上澄みでない、僕の奥の方の本当の心を表現することを、僕は知らない。曖昧な言葉で気持ちを伝えることを怖がっている。

 彼女はまた泣き出す。


「私は確認したかったのね。あなたの私への思いが本物なのかを、あの日私を慰めた言葉が本物だったのかを。だからあなたはここにいる」


 僕は言葉を発することができない。言うべき言葉はわかるけれど、言いたい言葉が、ずっと蓋をして無視してきた僕の心がわからない。そしてあることに気づく。

 これは映画をみて感情をエミュレートしてきたエラと同じだ。


 無理に口を開けば、先に涙が出てしまいそうだ。それでもなんとか絞り出す。

「今の僕の感情は制御されたものなのかな」

 エラは答えない。


 僕はいよいよ身動きが取れなくなった。彼女が見せた様々な表情で心はがんじがらめになり、良心と罪悪感と無数の感情の棘が容赦なく食い込む。


 時間の感覚を失うほどに動揺した僕は、エラの上目遣いと目を合わせないことだけを意識している。

 引き金にかけていた僕の人差し指に彼女の親指が重なった。銃を握る僕の手は彼女の手に包まれている。それはこの状況でもなお、僕にわずかな安らぎをもたらした。


 エラの親指にゆっくりと力が加えられ、引き金が動き出す。


 やめてくれ。


 喉がひきつって発声できない。かわりに頭を横にふるが、指を開く力では握る力にどうしても抗えない。僕もエラも涙で顔がくしゃくしゃだ。


「こんなことなら、こんなにつらいなら、感情なんて知らなきゃよかった」

 言っている意味が分からない僕は、また頭を横にふる。

 エラの親指がさらに押し込んでくるのを感じる。それは撃針が雷管を叩くまでのカウントダウンだ。そして抗うことも避けることもできない不可逆な死への。


 エラが大きな目を閉じた。目蓋に追い出された涙がそれまでに流れたものの軌跡を辿って、流れ星のように滑り落ちていく。そして涙が顎に到達したころ、とうとうそれは長い沈黙に耐えかねた。


 銃声。


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