10. I feel unlike I've ever felt

 銃声。


 目を見開いたエラが倒れていくのを、僕はスローモーションで見ていた。ヒンドゥー教では、額は人間の中枢であり神聖な部分だと考えるという。銃弾が彼女のそこを貫き、意識というものが失われていくまでの間、僕とエラの目は合いつづけていた。と思う。


額の赤い点は彼女が手のとどかぬ存在になったことを意地悪く突きつける。


悲しみ。


僕の人生において他人の命はひどく価値のないものだったし、感情はなおさら無用の長物として扱われてきた。だから僕は誰かに同情したり、死を悲しみ嘆くことはなかった。


 こうしてエラの額に風穴をあけるまでは。


 エラのポケットのふくらみは僕やデモ隊の感情制御を起動できるデバイスのものだろう。僕のこの感情が自由意志による僕自身の選択なのか、システムによるぼくの反応にすぎないのか、感情をずっと無視してきた僕にはわからない。そしてそれを確かめるためにデバイスを手にとる勇気もない。


 野望が達成される目前にして、エラはなにを思ってこんなことをしたのだろうか。


「君がエラに——私がエラに教わったように——感情を教えてくれたことを、感謝しているよ」 


 そう言われて、いまだ縛られたままのフラハティの存在を思い出す。僕は力の抜けた体をむりやり動かして彼を解放した。


「大統領、エラは私のせいで死んだのでしょうか」


 僕がぐずぐずせずにエラの問いに答えていたら結末は変わっただろうか。だとしたらエラは僕が殺したに等しい。


「君とエラは似た者同士だ。いままで彼女の真の理解者はいなかった。私すらも」


 エラはずっと孤独だったんだ。寂しそうに言うフラハティは虚空を見つめ、遠い過去を想起している。


「しかし君は違った。エラ同様に自分の心を空っぽだと思い込んでいた。きっと、エラはそんな君に惹かれたんだ」


 それはもはや僕そのものだ。空気を読んで、上澄みの言葉で取り繕ってきた僕そのもの。

エラも僕も共感したふりをしてきた。その虚ろな心のかたちが僕たちを引き寄せあい、エラを死なせてしまった。


 すべてが手遅れになった今、僕はやっと分かった。僕はエラを愛していた……いるのだ。エラが僕のEar-phoneをハッキングするあの夜よりも前から。


誰かを愛することができる僕の心は、決して空っぽなんかじゃなかった。僕は自分の心は空っぽなんだと思い込んで、思いを伝えられなかっただけだ。


“エラ同様に自分の心を空っぽだと思い込んでいた”。


 フラハティの言い回しが気にかかった。

「エラも心が空っぽだと思い込んでいた、のですか」


 赤黒い液体をゆっくりと広げるエラを見つめるフラハティは小刻みに何度かうなずいた。


「エラに感情がない、というのは厳密には正しくない。エラに欠けていたのは『共感』する能力だ。それは他者に対するものに限らない。感情の主体的経験としての質感、すなわちクオリアの形成には共感が重要だ。自分自身に共感するとでも言おうか。それによって感情の優先順位が高まる。感情による不合理な判断の原因はこの共感だ」


「共感できないエラは自分の感情すらも他人事に感じていたのですか」


「おそらくその表現が最も近いだろう」


 感情がないことと、感情のプレゼンスが低く判断に影響しないこと。それらははたから見れば区別できない。


「しかし、エラの脳には感情に相当する活動がなかったと聞きました」


「感情が共感とセットで生じているとわかったのはずいぶん後になってからだ。それらの活動の大きさを比べると、共感が他の部分よりもずっと大きかった。その共感がないエラは感情そのものがないと考えられた」


 フラハティがエラの頬を撫でる。血の気のひいた、いつにもまして白いエラの肌に僕は見とれる。


「エラは自分と似ている君と出会って共感したんだ。そして感情のなかでも最も強烈なものを体験した。君に愛されたいという感情を」


 エラはなんの反応も示してはくれない。情けない話だが、それが真実なのかはっきりしないことに安心している自分がいることを僕は認めざるをえない。


「あなたは私を恨みますか」


「これはエラの選択だ。自分の感情に共感し、その彩りに満ちた世界を知れたのなら、その結果は些細なことだ。世界に絶望して感情を捨ててしまったのなら、もう一度希望をもってほしかった。」


 彼はエラの目を優しく閉じさせ、なおも見つめ続けていた。その親らしい無償の愛が、僕をさらに苦しめる。


 言葉には力がある。そして無言にもまた、同じ力がある。

 ふがいない自分のせいでエラを失った。その事実を僕は背負いきれるだろうか。


 空間を静寂が満たしても、外の喧騒は聞こえなかった。


_____________


上官とのアポイントの時間まで、僕はワシントンの映画館で時間をつぶしていた。下調べもせずに入った僕はちょうど上映が始まる、流行りの感動もののチケットを買った。

 スクリーンの上を流れていく物語に、隣の席の婦人は涙を流している。


 だが僕は知っている。その心は他者に外注されたものだと。


 感動したと、すばらしい物語だと感じるようにデザインされた人工物だと知っている。ノンフィクションだろうと、それがカメラや言葉で切りとり編集されたものである以上はまぎれもない人工物なのだ。


 帰国してからの僕は家に籠っていた。というより出ることができなかった。上官からの連絡も無視してずっと考えていた。


 あの時、エラに銃を向けている僕の感情は制御されたものだったのだろうか。

 あの時、エラはどうして引き金を引いたのか。

 僕の沈黙がエラにとってどんな意味を持ったのか。


 この途方の無い悩みがフラハティの言う彩りだとしたら、僕はエラの死を背負って生きていけるかもしれない。


 共感する。


 僕のなかの僕に。


 僕のなかのだれかに。


 僕のなかのエラに。


 たとえそれが苦しみや悲しみで満ちていたとしても、僕の心は空っぽではないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

自由意志クライシス 木戸相洛 @4emotions4989

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説