第21話帰郷
花火を終え家に帰ってきた俺は、冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、いつものように晩酌を始めた。これが自分の寿命を縮める行為だと分かっていても止められなかった。俺は昔から嫌な現実には目を背け、逃げることが癖になっていた。その点、アルコールと読書というものは都合がいいのだ。今はきっと自分が死ぬという恐怖から逃げている。アルコールは俺の思考をぼやけさせ、恐怖を和らげる。そしてそのぼやけた頭で本の物語の中へ入るのだ。そうすれば完璧に現実から逃れられることができる。
ビールを二本空け、ウイスキーに手を出した。安いウイスキーは味が尖っていて正直うまいものではないが、酔うためにはうってつけだ。ウイスキーの茶色い液体を氷の入ったグラスに注ぎ、一口飲んだ。喉を熱い液体が流れていくのが分かる。そうしてもう一口。
だが、今回の晩酌は長くは続かなかった。またあの激痛がやってきたのだ。テーブルの前で腹部を抑えてうずくまる。今回の痛みは前回を凌ぐ痛みだったように感じた。声すら出すことができず、ただ荒い呼吸を繰り返すしかできなかった。俺の異変に気づいたミカが寄って来る。薬を取って欲しいといいたかったが、声が出ない。それでもミカは俺の考えを察したのかすぐに薬と水を持ってきてくれた。すぐさま薬を水で流し込む。これで数十分耐えればいい。ミカは前回俺がこうなった時と同じように、俺の頭を膝の上に乗せ看病を始めた。やはり腹をさすられると痛みが弱まるような気がする。これは気のせいなんかじゃないと思った。どういった理由かは分からないが確実に痛みが徐々に引いていく。だがそれでも激痛には変わらない。俺はまたこのまま目を閉じ、意識は薄れていった。
*
部屋に差し込む日差しで目が覚めた。ミカは前回同様、俺のすぐ隣に寝ていて、俺の体にはタオルケットがかけてあった。俺は体を起こし伸びをする。床で寝ていたせいで、体が少し痛かったが、腹部に痛みはなかった。ただ、昨日の痛みは今まで一番の痛みだった。病は着実に進行し、俺の命を削っているのだと実感できた。もう時間がないのかもしれない。そんな不安が俺を襲う。早く、次の行動を起こさなければ時間切れになってしまうかもしれない。急がなければ。
ミカは俺が起きたことに気づいたのか、寝ぼけた声で「おはようございます」といってきた。
「昨日はありがとうな」
「いえ、薬と水を持ってきただけですから」
「ミカの看病、ミカが俺の腹をさすってくれるとなんだか痛みが和らぐ気がするんだ」
「ああそれは、私がちょっとした力を使ってるからですよ」
「ちょっとした力?」
「天使の力です。病気を治したりはできませんが、痛みを少し緩和させることぐらいならできるんです。少し見直しましたか?」
「それはずいぶんすごい力だな。今後も俺になにかあった時にはぜひとも使って欲しいもんだ」
「また馬鹿にしてますね? そんなこというともう使ってあげませんよ。そんなことより、体は大丈夫なんですか? 昨日はずいぶん痛がってましたけど」
「痛みはもうないよ。でも昨日は今までで一番辛かった。きっともう時間がないんだ」
「そんなこといわないでくださいよ。きっとまだ時間はあります。そう信じましょうよ」
「そう信じたいのは山々だけどな。でも実際いつまで生きられるかは誰にも分からないんだ。ミカのいう通りまだまだ時間はあるのかもしれないし、もしかしたら医者がいっていた期間よりも短くなるかもしれない。だから、急いで残りのことを片付けなきゃならない」
「死ぬまでにしたいことのリストの話ですか?」
「そうだ。残るは『両親の墓参り』と『初恋の人探し』の二つだけだ。それさえ終えれば、もう未練はない」
「どっちから先にやるんですか?」
「『初恋の人探し』にしようと思ってる。初恋の人を探す場所は俺が生まれ育った町だ。両親の墓もそこにある。だから初恋の人を探してから墓参りをするつもりだ」
「宇佐美さんが生まれた町ですか。ここから遠いんですか?」
「電車で二時間ぐらいかな。内陸の小さな田舎町さ」
俺が育った田舎町。両親の微かな思い出と初恋の人との思い出だけが詰まった場所だ。両親が小学校に上がる直前に事故で死んでしまい、親戚の家に引き取られたからそれぐらいしか思い出せることはない。でも俺にとっては大事な場所だ。
しかしいくのはいいが、重大な問題がある。それは俺が初恋の人をほとんど覚えていないということだ。顔も声も思い出せない。思い出せるのは温もりと匂いだけ。そして当時の俺より十歳ぐらい歳上だろうということ。果たしてこれだけの情報で見つけることができるのだろうか。今もあの町に住んでいればいいのだが。
朝食を済ませ、俺とミカは家を出た。まずは駅に向かい電車に乗る。俺の故郷までは電車を乗り継いで約二時間ほどだ。車内ではこの前美乃里に会いに行った時のようにボックス席に座った。俺は車内でなにか少しでも初恋の人のことで思い出せることがないかずっと考えていた。彼女はいつも同じ公園にいた。まずはそこにいってみようと思った。後はやっぱりどうしても思い出せなかった。せめて名前だけでも知っていれば見つけられる可能性は大幅に上がるのだろが、名前を聞いた覚えはなかった。俺がそんなことを考えている間、ミカは車窓から外を眺めていた。よくも飽きないものだと思う。
電車を乗り継ぎ、やっと目的の故郷についた。この町は美乃里が住んでいる町よりもずっと田舎で、駅前には本当に何もなかった。電車を降りた客もミカと俺の二人だけだった。町はまるで俺が住んでいた時から時間が止まってしまったみたいに何も変わっておらず、とにかく静かだった。蝉の鳴き声だけが大きく聞こえる。
「ここが宇佐美さんの生まれた町ですか。自然がいっぱいのいいところですね」
「なにもない、時の流れに取り残されたみたいな町だよ。あれから十年以上たっているから少しは発展しているのかと思えば、なにも変わっていなかった」
「まずはどうするんです?」
「そうだな。とりあえず彼女がいつもいた公園にいってみようと思う。なにか思い出すかもしれない」
公園まではバスで移動しようと思った。たしか駅から歩いていける距離ではなかったはずだ。駅前のバス停に向かい、時刻表を見てみる。こんな田舎でもかろうじてバスは走っているらしい。だが次のバスが来るまでに一時間以上もある。これはもう待つしかない。駅前にはなにも店なんかないし、時間を潰せそうな場所なんてなかった。俺は鞄から文庫本を取り出し、本を読むことにした。ミカも自分の鞄から今読んでいる途中と思われる本を取り出して読み始めた。幸運にもバス停は屋根つきだったから日陰になっており、どうにか暑さにも耐えることができた。
本を読んでいると時間はあっという間に過ぎ、バスがやってきた。バスの一番後ろの席に座り、バスが走りだすのを待った。結局乗客は俺とミカだけだった。バスが走りだすと、懐かしい風景が見え始めた。幼稚園生の頃遊んだ川や両親につれていってもらった駄菓子屋など。駄菓子屋のシャッターは閉まっており、きっともう店をたたんでしまったのだろう。こんな田舎だ、もう駄菓子屋に通う客がいなくなったことなんて容易に想像がついた。それからバスは俺が以前通っていた幼稚園の前を通った。夏休みなのか、もうなくなってしまったのかは分からなかったが、子供は誰一人としていなかった。
そろそろ、例の公園の近くだ。俺は降車ボタンを押した。車内に降車客がいることを告げるブザーが鳴った。バスは公園から数十メートル離れたなにもない道路に止まった。
バス停から歩いて公園に向かった。公園はどこにでもあるような公園だった。ブランコやシーソーがあり、公園の中央にコンクリート出できた半球状の遊具がある。その遊具には滑り台がついていたり、突起がついていてそれで遊べるようになっていた。
公園はすっかり寂れていた。遊具はどれも色あせていて、長い時間がたったのだと感じさせられた。俺はブランコに座り、タバコに火をつけた。ミカも隣のブランコに座る。なんだかミカはそわそわしている様子だった。
「どうした? なんかあったのか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、なぜかこの場所懐かしい気がするんです」
「懐かしい?」
「はい、懐かしいです。昔、ここに来たことがあるようなそんな気がします」
「こんな公園どこにでもあるさ。他の公園と勘違いしてるんじゃないか?」
「そうなんでしょうか。でも懐かしくて不思議な感じです」
「よくある既視感さ」
「そうかもしれませんね。それでなにか思い出しましたか?」
「いや、特に新しいことは思い出せない。思い出すのは同じことばかりさ」
「どんな人だったんですか?」
「昔、ここで泣いていると、その人がやってきて慰めてくれたんだ。俺のことを抱きしめで頭を撫でてくれた。すると不思議に悲しい気持ちがどこかにいってしまう。いつも笑顔で優しくて、素敵な人だった」
「名前とかどこに住んでいたかとか思い出せないんですか?」
「思い出すどころか元々知らないんだ」
「そうなんですか。それでよく探そうなんて思いましたね」
「まあな。俺も正直見つけられるとは思っていない。ただ、やれることはやっておきたかったんだ」
「これからどうするんです?」
「とりあえず、ここら一帯の家の呼び鈴をならして聞き込みをしようと思ってる」
「覚えてくれている人がいるといいですね」
「彼女は毎日この公園にいたんだ。だから知っている人がいてもおかしくはない。それに探す方法は初めからそれしかなかったんだ」
公園を後に、近所の家の呼び鈴を鳴らして回った。留守の家やもう人が住んでいない家が多く、聞き込みには苦労した。それで初めて呼び鈴に反応してくれたのは七十代ぐらいの老婆だった。
「どちら様かね?」
「えっと、ちょっとお聞きしたいことがありまして、今から十年ぐらい前にそこの公園に毎日女性がいませんでしたか?」
「十年前ねえ……まだ私はボケてないからよく思い出せるけど、そんな人はいなかったね。毎日公園にその人はいたのかね?」
「はい、毎日いました。なにか覚えていませんか?」
「いいや、そんな人は見た覚えがないね。毎日いたんだったらきっと覚えてるはずなんだけどね。そんな人はいなかったよ」
「そうですか……ありがとうございます」
それから何件も回ったが答えはどれも同じようなものだった。おかしい。だれも覚えていないなんて。毎日あの公園にいたんだから目立っているはずだ。なのにだれも覚えていなかった。そんな人はいなかったという。じゃあ俺を慰めてくれたのはいったい誰だったんだ。
結局、なんの情報もなく俺の初恋の人探しは終わった。
「だれも覚えていないなんて不思議ですね。本当にあの公園だったんですか? 宇佐美さんの勘違いとか」
「それはない。間違いなく、あの公園だった。でももういいさ。初めから見つけられるとは思ってなかったんだ」
「宇佐美さんがそういのなら」
「そんなことより、俺の実家を見にいってもいいか? この近所なんだ。せっかくだから見てみたい。一応俺の思い出が詰まった、生まれ育った家だからな」
「もちろんいいですよ」
公園から十五分ほど歩き、俺が生まれた家へと向かった。だが、どこをさがしてもそれらしき家は見つからなかった。この辺のはずなのだが。
「宇佐美さん……あの、ここは?」
ミカが指差した場所は草が生い茂った空き地だった。よく思い出せば、場所はここで間違いなかった。どうやら俺の家は取り壊されてしまったらしい。空き地には「売地」という看板だけがたっていた。
初恋の人の手がかりは得られず、家は取り壊されている。なんて散々な帰郷だったのだろう。ここにいても仕方がない。俺は死ぬまでにしたいことリスト最後の項目である両親の墓参りをすることにした。
本当は線香や花を用意したかったが、それを売っていそうな店は見当たらなかった。公園前のバス停に戻り、そこから両親の墓地までいった。
夕暮れの小さな墓地は草が生い茂っており、碌に管理されていないのが分かった。本当だったら墓の回りを綺麗にして墓石も拭いてやりたかったのだが、生憎そんな道具類は持ってきていなかった。墓石に手だけ合わせて、帰ることにした。
駅に着く頃にはもう辺りは真っ暗になってきており、疲れもだいぶ溜まっていた。ミカは疲れたのか眠そうにしている。ホームに入ってきた電車に乗り込み、座席に座った。すると、ミカはすぐに眠りに落ちたようだ。俺の左肩に頭を預け寝息を立てている。ミカの優しい甘い匂いがした。そこで俺はふと思い出した。この前から懐かしいと思っていたこの匂いと温もりは、初恋の彼女と同じだということに。でもミカが初恋の人なわけがない。ミカの年齢は知らないが、俺より十歳も年上には到底見えない。不思議な偶然もあるものだと思い、俺はその温もりと匂いを心に染み込ませながら目を閉じた。
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