だって天使ですから

楠木尚

第1話始まりの夏

 窓からは強く光る太陽の陽の光が部屋に降り注いでいて、部屋の中に漂う埃をきらきらと照らしだしていた。窓から外を見てみると、もはや嫌味としかいえないぐらいの青い空がどこまでも続いている。空の彼方には大きな山の形をしたような巨大な入道雲が浮かんでいた。蝉は今まで貯めこんできた力をここぞとばかりに放つように鳴いていて、その鳴き声は部屋の中までうるさく響いてくる。


 部屋の中は夏の暑さで蒸し風呂みたいな状態になっていて、寝間着は俺の汗をぐっしょりと吸いこんでいた。窓を空けているというのに風一つまともに吹いてこない。


 中央に置かれたテーブルの上には昨日の晩に飲んだビールの空き缶が何本も置いてあり、中央の灰皿には山盛りになったタバコの吸い殻が積まれていて、あと一本でも吸い殻を入れたら崩れるんじゃないかという有様だ。他にも半分ほどに減った安いウイスキーの瓶や、それを飲むのに使った空のグラスが置いてある。床にも空き缶が何本か転がっている。それは俺の雑で怠惰な性格を表しているようだった。本棚やCDラックに積もった埃も同じだ。元々は真っ白だった壁紙はタバコのヤニで黄ばみ、部屋はタバコとアルコールの匂いで満たされていた。


 台所には、使ってから何日も洗っていない食器が置いてあり、早く洗わなければ汚れが落ちなくなってしまいそうだ。同じく台所にある冷蔵庫の中身はほとんど空で中身はビールとウイスキーを飲むのに使う氷が入っているぐらいで、碌な生活を送っていないことがよくわかる。ポストにはどこかの会社が雇ったであろう人間が投函していったチラシが溢れていた。高校を卒業してから、一人暮らしをこの六畳一間、ユニットバス付きの古くも新しくもないアパートで始めてから三年間ずっとこんな調子だった。

 

 アパートは二階建てで、俺の部屋は二階の角部屋だった。上には部屋がないし、左隣にも部屋はないから、あまり騒音に気を掛ける必要はない。右隣に住んでいる住人も特段うるさい人間ではないから、気をあまり使わずに済む。飛び跳ねたりして暴れない限り苦情は来ない。


 そんな俺の怠惰と惰性で満ちた部屋の中に、似つかわしくない物が一つある。というより、いる。そいつはテーブルの前で足を横に崩しながら座って、ノートになにやら書き込んでいた。


 胸の下まである長い漆のような黒髪、どこまでも澄んでいて全てを見透かすような瞳、整った綺麗な顔立ち、真っ白なワンピースに薄手の淡い青のカーディガンを着ている。ワンピースから伸びる脚は細くて透き通るように白かった。身長は俺より十五センチ以上低いだろう。華奢な体つきをしている。そして少女の傍らには純白の鳥の羽のようなものが落ちていた。


 俺の視線に気づいたのか、少女は少し尖ったような口調でこういった。


「なにじろじろ見てるんですか?」


 なぜ俺の部屋にこの少女がいるのか、それは数日前に遡る。まずはそこから話そう。



 寝る前に一人で酒を飲むことが癖になっていた。いつ頃からこうなったのかは分からない。多分、秋月の影響じゃないかと思う。タバコも酒もあいつに教わった。この秋月についてはまた後で話すことになる。


 ともあれ、寝る前の寝酒ってやつは相当に心地がいい。俺はタバコにオイルライターで火を点け、煙を肺まで深く吸い込み、それから一拍置いて吐き出した。酒を飲んでいるとついついタバコの本数が増えてしまう。灰皿はもう吸い殻でいっぱいだったから、空き缶を灰皿代わりにした。なにも灰皿の中身を捨てに行けばいいだけなのだが、それが面倒だった。酒を飲んでいる時はあまり体を動かしたくない。そういうものだ。


 蒸し暑い、よくある夏の夜だった。俺は窓を開け、音楽を聴きながら飲んだ。開けた窓からは蝉の声がよく聞こえてきた。きっと近くの木か電柱に止まっているのだろう。鳴き声は大きく、俺を少し苛つかせた。風はほとんど入ってこなかったが、微かに水気を孕んだ空気を部屋の中に運んできていた。部屋の温度を下げるには役に立っていないだろうが、窓を閉めきっておくよりは遥かにましだ。


 すでにビールを三缶空にし、そろそろウイスキーに手を出そうかと思案していた。いつも飲み始めはビールでそれを数缶のんだら次にウイスキーに移るというのが常だった。今日も例に漏れずそうしようとしていた。

 だが、この日俺はウイスキーを飲むことはなかった。


 腹部を刃物で刺されたかのような激痛が走った。それは痛いようで熱かった。あまりの痛みに床に倒れこみ、その場でうずくまった。体を丸め必死に腹部を両手で抱え込んだ。最近不摂生な生活をしてきたツケが回ってきたのだろうか。碌に食事もせずに酒ばかり飲んでいて、とてもじゃないが健康的とはいえない生活を送ってきた。それが理由だろうか。痛みは酷く、額からは油汗が吹き出し、全身は冷や汗をかいていて服を濡らした。このままじっとしていればいずれ収まるだろうと最初は判断した。だが、それが間違いだったということにすぐ気付かされた。痛みは全く収まる気配がなく、俺を苦しめた。時間が長く感じられた。時計の秒針が一秒を刻むごとに腹部の痛みが脈打つように感じる。痛みはやがて、俺の意識までも蝕むようになってきていた。これはさすがにただ事ではないと思い、近くにあった携帯にどうにか手を伸ばす。それから俺は初めて一一九番に電話をかけた。電話に出たのは、落ち着いた声の女性だった。


「どうされました?」


 それが第一声だった。俺それに対して返事をしようとしたが、声が喉に引っかかって上手く出なかった。一度唾を飲み込み、やっとの思いで声を出した。


「急に腹に激痛が走って、身動きがとれないんです……」


 それから、どんな風に痛みがあるのか、今どんな状態か、どこにいるのか、名前、住所、電話番号を聞かれた。俺はその度に朦朧とする意識の中、痛みと戦いながら必死に答えた。電話していた時間は五分にも満たなかったと思う。しかし、その時間が永劫のように感じられた。そして最後に救急車が十分ぐらいできてくれると教えてくれた。電話を切り、少し安堵した。これでどうにかなる。そう思った。痛みはそれからもずっと収まらなかった。しばらくしてサイレンの音が遠くから聞こえてきた。きっと俺の家に向かってきてくれているのだろう。サイレンはどんどん大きくなり近づいてくる。そしてアパートの前で音は止まった。


 何人かの急いだ足音が聞こえてくる。足音が階段を上り、玄関の前までくると、呼び鈴が鳴らされた。それから激しくドアを叩く音。最後の力を振り絞って、這いつくばりながら玄関まで行き鍵を開けると、向こうからドアが開かれた。ドアの前には数人の男たちが立っていて、俺になにか話しかけているようだった。しかし、混濁した頭では何をいっているのか理解できなかった。そしてついに俺は意識を失った。目の前が暗闇に染まり、落ちていくような感覚だった。



 目を開けると、染み一つない真っ白な知らない天井が視界に入った。まだはっきりしない頭で自分の置かれている状況をよく考える。俺はベッドの上に寝ていて、周りをカーテンで閉め切られていた。そしてやっとのことで思い出した。急に腹部に激痛が走り、救急車を呼んだことを。それから救急隊を目にし、意識を失ったのだ。だとすればここはきっと病院だろう。微かに消毒液と病院独特の匂いがする。


 今は何時頃なのだろうか。カーテンのせいで昼なのか夜なのかさえ分からなかった。右腕に違和感を感じ、見てみると、点滴がされていた。なんの点滴なのだろうか。医療的な知識が皆無な俺には皆目見当もつかないが、痛みがないことを考えると鎮痛剤の類かもしれない。


 喉がからからに乾いていた。水が欲しかったが誰も近くにいる気配がしない。俺は溜め息をついた。このまま誰かが来るのをひたすら待っていなければいけないのだろうか。だが、上体を起こし周りを見てみると、枕元からコードのようなものが伸びていて、その先に押しボタンのようなものがついていた。ドラマで見たことがある。おそらくこれはナースコールのボタンだ。俺は目を覚ましたことを伝えるためにナースコールのボタンを押した。それから三分ぐらいして誰かが部屋に入ってくるのが分かった。看護師がカーテンを開ける。


「意識が戻ったみたいですね」


 四十代ぐらいのベテランといった感じの女性の看護師だった。俺は喉が乾いているから水が欲しいと伝えた。


「分かりました。今先生を呼んでくるので、その時に水も一緒に持ってきますね」


 そういうと看護師は落ち着いた様子で部屋を出て行った。少しは急いでもらいたいものだと内心思った。カーテンはまた閉められてしまったので、結局時間は分からなかった。


 それからどれぐらいの時間がたったのだろう。何十分か何時間か、時計も見れずなにもないベッドの上でただひたすらに寝ていると時間の感覚が麻痺してくる。いくら待っても水も医者もなかなか来なかった。その間、俺は自分の身に起きたことについて考えていた。あの激痛はなんだったのだろうか。救急車を呼んだことは英断だったのか。それほど重症だったのか。もしかしたらただの胃の不調かもしれない。不摂生な生活とアルコールで胃を痛めただけかもしれない。もし仮にそうだとしたら救急車を呼んだことを申し訳なく思う。しかし、救急車を呼ぶに値する病気だったら、そう考えるとそれはそれで不安だった。せいぜい胃潰瘍ぐらいであればいいのだが。とにかく、医者が来てくれれば説明をしてくれるだろう。

 それにしても病院というものは人を待たせるのが好きだ。いくらでも待たせる。そして診察は五分程度なんてざらだ。


 そんなことを考えていると突如カーテンが開けられた。そこには先程の看護師と医者らしき男が立っていた。三十代半ばぐらいで、医者にしては若い方なのではないかと思う。白いワイシャツに紺色のネクタイをし、その上に白衣を着ている。長身で髪が少しぼさぼさしていた。いかにも医者といった風貌の男だった。看護師は忘れずに水を持って来てくれており、俺は差し出されたコップの水を勢いよく一気に飲み干した。それから一息つくと、医者らしき男が口を開いた。


「初めまして。あなたの担当医になります朝倉です」


 彼はそういうと軽く会釈をした。俺もそれに合わせ会釈をする。


「まずあなたの病気についてですが、これから詳しい検査をしないとどのようなものかはまだ分かりません。ですから、今日一日はそれらの検査をしていくことになります。検査はいくつもあるので、今日は入院していって下さい」


 朝倉のいう通り、今日一日はずっと検査だった。採血や胃カメラ、レントゲンなど、後は知らない検査をいくつか受けた。検査と検査の間はとにかく待たされ、長い時間が流れていった。病院は人を待たせるのが本当に好きなようだ。わざと待たせているのではないかと思ってしまう。この調子なら検査で一日潰れるのがよく分かる。


 それからやっと全ての検査が終わって自室に戻ることが許されたのは夜になってからだった。検査の結果が分かるのは明日だそうだ。


 ベッドの上で呆けていると、夕食が運ばれてきた。味の薄い焼き魚に、ひじきの煮物、味噌汁、白米がメニューだった。作ってくれた管理栄養士には悪いが、正直おいしいと思えるようなものではなかった。ただ、まともな食事を食べたのは久しぶりのことだった。きっと栄養バランスは優れているのだろう。


 夕食を食べ終え、一時間もすると、消灯時間になった。寝酒がしたかったが当然許可が降りる道理がない。酒を飲まずに眠る夜も久しぶりだった。寝心地のあまりよろしくない病院のベッドで、眠りにつくまでの間、色々なことを考えた。もし大病だったら今通っている大学はどうなるのか。休学になるのか、退学しなければいけなくなるのか。長期入院などになったら入院費はどうするのか。そんな不安なことばかりが頭をよぎった。


 隣のベッドからは知らない誰かのいびきが聞こえてきた。それが余計に俺の入眠を妨げた。だが、これらの不安や心配は無駄だったということを次の日知ることになる。


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