第10話自己憐憫
家に帰ってからも俺の心が晴れることはなかった。ずっしりと重たいものが胃のあたりに貯まっていて、それが動こうとしない。
紗友里はあのカフェでの去り際、目に涙を浮かべていた。あんなに傷つけないようにしようと思ったのに、その望みは叶わなかった。紗友里をあんな形で振ってしまった。その自己嫌悪が俺を苦しませた。もっといい方法があったのではないか、もっと紗友里を傷つけないで別れる方法があったのではないか。そんな考えや後悔が頭の中を何回もぐるぐると回った。きっと俺がもっとまともな人間だったら紗友里を泣かせずに済んだのだろう。ただ、一度も人を振ったことのない俺には無理な話だった。ただそれだけの話だ。ただそれだけの話だとは分かっているのに、俺の後悔は消えることを知らなかった。ずっと俺に纏わりついていて離れない。その後悔が俺を責めたてる。
俺は後悔や罪悪感から逃げるようにビールを冷蔵庫から取り出して飲んだ。こういう時、他にどうしたらいいのかその術を知らなかったのだ。ただ飲んで今日あったことから逃げようとした。だがなかなか俺を逃がしてはくれない。いつもより飲む量を増やした。嫌なことがあったらその分飲むしかない。それが今まで経験を培ってきて分かったことだ。
なにもいわず、なにも話さず黙って飲んだ。ミカは壁に寄りかかりながら文庫本を読んでいた。開け放たれた窓からは様々な虫の鳴き声が聞こえた。低音でじいじいと鳴く虫、高音でころころ鳴く虫。色んな虫たちの合奏が聞こえる。ただ、夏の夜の合奏は俺の気分をさらに暗い方へと引きずり込んでいってしまった。
このままでは駄目だと思い、俺はCDプレイヤーにお気に入りのCDをセットした。ノリのいいロックな曲だ。音量をいつもより大きめにして、この鬱々たる気持ちと、湿っぽい空気で満たされたこの部屋の雰囲気を変えようと思ったのだ。
俺は音楽と酒にだけ気持ちを集中させた。他にはなにも考えない。すると黙って文庫本を読んでいたミカが口を開いた。
「宇佐美さん、気持ちは分かりますけど、飲み過ぎですし、音も少し大きくないですか?」
「今日はもう飲むしかない、そういう気分なんだ。音はこれぐらいなら大丈夫だろう。だれも文句なんていってこないさ」
「今日はもう寝ませんか? こういう時は寝て忘れるのが一番ですよ」
「まだ眠くない。酒も飲み足りない。俺は今、酒で酔って自己憐憫に浸っていたい気分なんだ」
「そんなに自分を責めないでくださいよ。紗友里さんを傷つけてしまったのはもう仕方がないことだと思います」
「俺がもっとまともな人間だったらきっとうまく別れられたはずだ。単純に俺には無謀なことだったんだ。あの時ミカがいてくれなかったら、別れることさえできなかったと思う。利用して悪かったな。あんまりいい気分じゃなかっただろ?」
「そんなことないですよ。なかなか別れられないのは宇佐美さんが優しいからです。それに私のことは気にしないでください。たまにぐらい、宇佐美さんの役に立ちたいですから」
「慰めるのがうまいな」
「慰めてません。本当のことをいってるだけです」
それからお互いまた無言になった。CDプレイヤーからはうるさいロックの曲が流れていた。俺はまた音楽と酒に集中しようと思い、新しいビールを開けた。今日はこれで五本目だ。これが終わったらウイスキーが待っている。今日は潰れるまで飲もう。そう思った時、玄関の呼び鈴が鳴った。こんな時間にだれだろう? でも俺は玄関を開けるつもりはなかった。これ以上面倒なことにはなりたくないと思ったからだ。
「出なくていいんですか?」
「ああ、いいよ。今日は疲れたから放っておいて欲しい」
無視を決め込んでいるとまたしても呼び鈴が鳴った。それも無視していると、ドアを叩く音が聞こえてきた。ここまでやられては無視するわけにもいかない。俺は渋々玄関を開ける。するとそこには二十代半ばぐらいの、派手な髪色をして派手な服を着た男が立っていた。
「おい、宇佐美、音でかいよ。何時だと思ってるんだ」
時計を見るともう十時を過ぎた頃だった。
「ああ、すみません」
「どなたですか?」とミカが訊ねてくる。
「この人は隣に住んでる美容師さんなんだ。たまに飲みに連れていって貰ったりしてる」
「美容師さんっていう名前なんですか?」
「そんなわけないだろ。この人が呼ぶ時は美容師でいいっていうからそう呼んでるんだ」
「ん? その子は? いつもの彼女さんじゃないみたいだけど」
ミカに気づいた美容師が俺に詰め寄ってくる。
「こいつは居候です。彼女とはもう別れました」
「ふうん。あんた綺麗な髪してるのにだいぶ切ってないでしょ? 髪がぼさぼさ」
「あんたじゃありません。ミカです」
「ねえ、宇佐美、ちょっとこの子借りてもいい?」
「なにするつもりなんですか?」
「ちょっと髪を切ってあげようと思ってね」
「俺は別にいいですけど」
「私の髪切ってくれるんですか?」
「ああ、素敵な髪にしてあげる。俺の部屋にきなよ」
「嬉しいです。切って欲しいです。宇佐美さん、ちょっといってきてもいいですか?」
「ああ、俺は構わないよ」
「じゃあいってきます」
そういって俺の部屋を出て、隣の美容師の部屋へと向かっていった。美容師は見た目こそ派手だが、仕事熱心で真面目な男だ。一緒に酒を飲む時はいつも仕事の話や夢の話をしている。ミカに危害を加えるということはあり得ないだろう。
ミカが出て行った後は、CDプレイヤーの音量を下げ、酒の続きを飲み始めた。もう結構佐酒が回っているらしく、目が霞んだ。こじゃあ本を読みながら酒は飲めなさそうだ。仕方がないので、音楽だけを酒のつまみにして飲んだ。
紗友里に対する自己嫌悪がある程度酒で薄まると今度は孤独感が襲ってきた。紗友里と出会ってからの六年間、俺のそばにはずっと紗友里がいた。だから寂しいなんて感情は忘れていた。いつも隣で明るくて元気で、笑っていてくれた。でもその人はもういない。俺が傷つけて振ってしまった。無性に人恋しかった。人並みに寂しかった。こんな時、初恋のあの人がいたらどんな風に慰めてくれるのだろう、あの頃と同じように抱きしめて頭を撫でてくれるのだろうか、なんてことを考えた。
それから一時間ぐらい立っただろうか。ミカが帰ってきた。ミカはとても上機嫌で、嬉しそうに髪を指先でいじっていた。
「宇佐美さん、どうですか?」
ボリュームがあってぼさぼさだった髪は綺麗に纏まっていて、とてもよく似合っていた。長さはほとんど変わっていなかったから、髪をすいて後は長さがまちまちだったところを切りそろえたのだろう。
「長さは変えなかったんだな」
「髪は長い方が天使っぽいかと思いまして」
「そんな理由だったのか」と俺は苦笑した。
「それでどうです?」
「似合ってるよ」
「そんな興味なさそうにしないで、もっとちゃんと見てくださいよ」
頬を膨らませながらミカはそういった。
「見てるよ。可愛くなった」
「本当ですか?」
「本当だよ」
俺がそういうと、ミカは、「えへへ」と照れくさそうに笑った。
そして改まったような顔をして俺にこういった。
「あの……紗友里さんはいなくなっても、私がいますからね。宇佐美さんは一人じゃありませんよ」
そういうと優しく微笑んだ。
それからミカは俺を抱きしめ、頭を撫で始めた。俺はこの前と同じように笑った。心の中で。
甘くて優しい匂いがした。
ミカに慰められ、俺の心は少し軽くなった。
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