第16話夏風邪

 海にいってからの数日後の朝、体に違和感を覚えて目が覚めた。具体的にどこがどのように違和感があるのかは分からなかったが、なんとなくそう感じたのだ。上半身を起こしてみると、なんだかだるさを感じた。夏バテでもしたのだろうか。それとも病気からくるものなのか判断はつかなかった。布団から這い出し、立ち上がる。少し目眩がした。やはりどこか変だ。布団をたたみ、テーブルを部屋の中心に持ってくる。それから顔を洗おうと洗面所まで歩き出そうとした時、またが目眩した。さらに足がもつれ転びそうになる。

 それを見ていたミカが、


「宇佐美さん、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」と心配そうにいってきた。


「俺も顔色が悪いような気がする。とりあえず顔洗ってくるよ」


 洗面所にいって水を顔にかけ、タオルで拭く。それから鏡で自分の顔を見てみると、やはりいつもより顔色が悪いようだ。血色が悪いとでもいうべきか。血の気が引いていて青ざめた顔をしていた。海に遊びにいった疲れがまだ残っているのだろうか? しかしあれからもう数日もたっている。それはあまり考えられないことだった。

 台所にいき、朝食の準備をする。その間も頭がぼうっとして、時折自分が今なにをしているのか分からなくなった。それでもどうにか朝食を作り上げ、テーブルへ運ぶ。ミカはずっと俺のことを心配そうな目で見ていた。いつもと代わり映えのない食事を食べていると、少し吐き気がしてきた。今日はこれ以上食べられそうにない。結局、半分以上を残して、後片付けをミカに頼んだ。ミカが洗い物をしてくれている間、ベッドで横になって体調が回復するのを待った。そういえば久しぶりに自分のベッドで寝ているなと思いつつ目を閉じる。ベッドからは甘いミカの匂いがした。

 ベッドで休んでいると、洗い物を終えたミカが戻ってきた。


「宇佐美さん、ちょっとおでこ触ってもいいですか?」


「どうしたんだ急に?」


「もしかして熱があるんじゃないかと思って」


 そういうとミカは俺の額に自分の額をくっつけてきた。


「かなり熱いですよ? ちょっと熱計ってみてください」


 俺はミカにいわれた通り、棚にしまってある体温計を取り出し、電源を入れ脇に挟んだ。それから三分ほどたって、体温計のアラートが鳴った。体温計の液晶画面を見てみると、俺が高熱であることを示す数字が表示されていた。「どうでした?」と訊いてくるミカに体温計を見せる。


「すごい熱じゃないですか」と驚いていた。


「どうやら夏風邪みたいだな。頭も痛くなってきたし」


「今日は家でゆっくりしていてください。分かりましたか?」


「ああ、そうするよ」


「ただでさ重病なんですからこじらせたら大変です」


 もう寿命がないっていうのに風邪とは運がないなと思う。しばらく貴重な時間が削られそうだ。


「困りましたね。私、風邪の看病ってどうしたらいいのか分からないんです。病院いきます?」


「いや、風邪ぐらいでいいよ」


「そうですか。……あ」


 ミカがなにかを閃いたような声を出した。


「宇佐美さんはここで大人しくしていて下さい。私、ちょっと外にいってきます」


 ミカがなにをいっているのかよく分からなかったが、とりあえず大人しくしておくべきだろう。どちらにせよ体がだるくて満足に動かせない。さっき体温計で熱を計り、高熱だと分かったせいか、余計に体調が悪くなったような気分だ。


 ミカは玄関のドアを開け外に出ていった。なにをしにいったのだろうか。皆目見当がつかなかった。

 ベッドで横になっているのに、体調は増々悪化していった。具体的には関節が痛み始めたのだ。俺は昔から高熱が出ると関節痛が出る。そうなるともういよいよ体を動かすことができなくなる。肘や膝の関節が熱くなり、ぎしぎしと軋んだ。俺は黙ってその痛みに耐えるしかなかった。


 それからしばらくしてミカが戻ってきた。


「ただいまです」


「どこにいってたんだ?」


「お隣の美容師さんのところです」


「なんでまたそんなところに」


「風邪の看病の仕方を教えて貰ってきました」


「ああ、なるほどな」


「宇佐美さんはとにかくベッドで安静にしていてくださいね」


 ミカはそういうと台所でなにかやり始めた。そしてすぐに俺の傍へ戻ってくる。ミカの手元には氷水が入ったボウルがあった。ミカはそれにタオルを浸すと一生懸命絞り上げた。


「宇佐美さん、上を向いてください」


 いわれた通りに上を向く。するとそのタオルを俺の額に乗せた。ひんやりとしていて心地いい。


「ありがとう」


「いえ、これぐらい簡単です。それと、ちょっとお財布を借りてもいいですか? 買ってきたいものがあるので」


「ああ、構わないけど。でも一人で大丈夫か?」


「買い物ぐらい一人でもできますよ。大丈夫です。宇佐美さんはなにも心配せず、ゆっくり寝ていてください」


 そうしてミカは「すぐ戻ってきますので」といい残し、買い物に出かけていった。


 俺はミカが絞ってくれたタオルを額に乗せ、久々に自分のベッドで眠ることにした。やはり床に布団を敷いて寝るよりよほど寝心地がいい。起きてさほど時間はたっていないのに、目を閉じると眠気がやってきた。きっと風邪のせいだろう。体がこれから風邪と闘うから休めといっているのだ。それには逆らわないほうがいい。俺はやってきた眠気に身を任せ、眠りに落ちた。


 目が覚めるともう夕方だった。台所から物音が聞こえてくるから、ミカがもう帰ってきているのだろう。一眠りしても体調は相変わらずだった。全身の関節が熱を持って悲鳴を上げ、頭がズキズキと痛んだ。額に乗せてあるタオルに触れると冷たかった。きっと俺が寝ている間にミカが交換してくれたのだ。

 台所からミカが顔を出す。


「お目覚めですか?」


「ああ、今起きた。なにしてるんだ?」


「秘密です。もう少ししたら分かりますよ」といって「えへへ」と笑った。


 部屋の呼び鈴が鳴った。


「私が出ます」


 そういって玄関に向かっていくミカ。ミカがドアを開けると、隣の美容師が立っていた。美容師は靴を脱ぎ、部屋に上がってくる。白いビニール袋を手に持っていた。


「宇佐美、大丈夫? ミカちゃんから訊いたけど、風邪引いたんだって」


「はい、このザマです」


「ずいぶん重症みたいだね。ほらこれ。これあげるから飲みな」


 そういうと美容師がビニール袋から取り出したのは栄養ドリンクだった。


「ありがとうございます」俺は寝たまま軽く会釈をした。


「看病の仕方はミカちゃんに教えておいたから、後はミカちゃんにお世話してもらいな。俺は風邪が移ると仕事いけなくなっちゃうからこれぐらいで退散するよ。お大事にね」


 美容師はそれだけいって帰っていった。あの人はこんなに面倒見がよかったなんて知らなかった。てっきり仕事以外は人間も含めて興味がないものだと思っていたから。酒を一緒に飲みにいった時の彼はすごい。平気で何時間も仕事の話をしてくる。カットやカラーの技術から始まり、客がなにを求めているのかの分析や将来は自分の店を持ちたいなど、永延とそんな話をよく聞かされた。俺は全く興味がなかったから適当に相槌を打ってばかりだったが。こういう意外な一面もあるのだなと今日知った。人間は色んな一面を持っているということだ。きっとそれは俺にもミカにもあるのだろう。ただ自分で気づかないだけで。


 俺はどんな一面を持っているのだろう。少し考えてみる。まず真っ先に思い浮かんだのは退屈な人間だということだ。俺には人より優れたところなんてなにもないし、自慢できるような特技や趣味なんかもない。ひたすら本を読んでいることぐらいだ。その読書だって本の中身をちゃんと理解して自分のものにしているかといわれれば、決してそんなことはないと思う。ただ惰性で読んでるだけだ。本は素晴らしい。それは間違いない。しかし、読み手がその本に相応しくなければなんの意味もない。

 次に思い浮かんだのは病人だということ。俺はもうすぐで死ぬ。これは変わりようのない事実だ。でもそのおかげで退屈な毎日から解放されつつある。死ぬまでにしたいことをリストアップし、目標を持って生きている。目標がある人生というものは思っていた以上に生きがいのあるものだった。世界は残酷だが美しいものだと俺に教えてくれた。

 後思い浮かんだことといえば、自分は割と器量の大きな人間なんじゃないかということだ。別に自分の心が広いといっているわけではない。俺がいっているのはミカのことだ。普通、よくも知らない人間と一緒に生活するなんて考えられないことだろう。しかも自称天使の変人だ。その変人に今では少し心を許している自分に驚いている。今思い浮かぶ自分の一面といったらこれぐらいだろうか。きっと本当はもっとたくさんあるのだろうが、これ以上自力で考えるのは難しそうだ。


 俺がそんなことを考えていると、ミカが台所からお茶碗を持ってきた。


「お粥っていうものを作ってみたんです。宇佐美さん朝ほとんど食べてなかったからお腹すいてるかなと思って。美容師さんが作り方教えてくれたんです」


「ミカが料理をしてくれるなんて初めてだな」


「私だって教えて貰えば作れるんですよ?」


「じゃあ今度教えるから作ってくれよ」


「気が向いたら作ります。それよりも今起きられますか?」


「ああ、どうにか」


 俺は上半身をやっとの思いで起こした。起き上がるとき関節の痛みがひどくなった。さらに頭が少しくらくらした。


「じゃあ食べさせてあげますね」


「いいよ。自分で食べられる」


「駄目です。病人は黙って看病されて下さい。せっかく美容師さんからやり方を教わったんですから」


 ミカはそういってお粥をスプーンでお茶碗からすくうと、ふうふうと息でお粥を冷ました。俺はそれが照れくさかったが、黙って口を開けた。そこにミカがお粥を入れる。おいしかった。お粥とはいえ、誰かの手料理を食べるのは久しぶりだった。


「どうですか? 食べられますか?」


「ああ、うまいよ」


「よかったです」と安堵の声を漏らした。


 それを数回繰り返し、お茶碗の中身は空になった。朝、自分で作った食事は食べられなかったのに、ミカが作ってくれたお粥が食べられたのは不思議だった。あんなに食欲がなかったのに。ミカは俺を心配して俺のためにお粥を作ってくれた。そういう気持ちがこもった食べものというものは不思議な力を持っているのかもしれない。

 俺がお粥を食べ終わると、ミカはビニール袋からなにかの箱を取り出した。


「それは?」


「風邪薬です。ご飯も食べたのでこれ飲んでくださいね。今水を持ってきますから」


 コップに入った水と風邪薬を渡された。薬を口に放り込み、水で流し込む。


「はい、偉いですね。これで少しはよくなるといいんですが」


「なにからなにまですまないな」


「いつも宇佐美さんにはお世話になってますから、恩返しです」


「そうか、でもありがとう」


 食事もし、薬も飲んだ俺は床に布団を敷こうと思い、ベッドから立ち上がった。


「なにしてるんですか?」


 ミカが慌てた様子で訊ねてくる。


「自分の布団を敷こうと思ってな」


「まさか、その敷いた布団で眠るつもりですか?」


「それはそうだろう。俺の布団なんだから」


「駄目です。今日はベッドで寝てください」


「でもミカを床で寝させるわけにはいかない」


「別にいいですよ。私が布団で寝ます」


「駄目だ。ミカはベッドで寝てくれ」


「嫌です。病人の宇佐美さんがベッドで寝るべきです」


「頑固だな。病気ならもう平気だ」


「ふらふらなのになにいってるんですか。じゃあ分かりました。折衷案ということで、ベッドで一緒に寝ましょう」


「そんなことできるわけないだろ」


「なんでですか?」


「それは……」


ミカは「もしかして私のこと意識でもしてるんですか?」とニヤニヤした顔でいってくる。


「そんなわけないだろ」


 一瞬その言葉に焦りを感じたが、俺がミカを意識しているなんてあり得ないと思い直した。そんなことはきっとあり得ないに決っている。


「分かったよ。じゃあ一緒に寝よう」


 俺がそういうと、ミカはベッドに潜り込み、端に寄った。そしてベッッドの空いているところを手でぽんぽんと叩いた。


「じゃあ決まりですね。早く寝てください」


 俺は少し照れながら、ベッドに横になった。隣にいるミカとは必然的に近くなる。触れないように気をつけた。


「一緒に寝て風邪がうつっても知らないからな」


「それは大丈夫です。天使は風邪なんて引きませんから」


 そうして背中を向かい合わせにして目を閉じた。

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