第6話真夏の夢

 昨日、俺は夢を見た。秋月の夢だ。

 場所は薄暗い夕暮れの広い大学教室だった。俺と秋月以外は誰もいない。教室は静まり返っていてなんの音も聞こえない。空気の流れもなく、まるで時間が止まっているようだった。秋月は夕日を背後に俺の方を向いていて、俺からは逆光のせいで秋月の顔はあまり見えなかった。

 秋月が語りかけてくる。


「人生の退屈はどうなった?」


「なにも変わってない。ただ数日前に余命宣告されたよ」


「そうか。どんな気分だった?」


「やっとこの退屈でどうしようもない人生から解放される、自由になれると思った」


「そうだな。死んだらあらゆることから解放される。退屈なことなんておさらばだ」


「ああ、おさらばできる」


「でもお前は、そう思うことと同時に恐怖や寂しさを感じてる。そうだろ?」


「そうかもしれない。自分がもう少しで死ぬって分かった時は、死ぬことへの実感なんて湧かなかった。でも今は少しずつ実感が出てきている気がする。そう思うと怖かったり、寂しかったり、そんなことを考える。それに死ぬまでに何ができるのかって考える。俺は後何杯のビールを飲める? 後何本のタバコを吸える? 後何冊の本を読める? そういったことを考えるようになってきた。それにやり残したことはあるか、やりたいことはあるか、未練はあるか、そういうことも」


「それを聞く限り、もう退屈な人生を送ってないんじゃないのか? いつのまにか退屈とは無縁な人生になっているんじゃないのか?」


「そうなのか? これが俺がずっと求めてた刺激的な人生なのか?」


「さあ、俺は知らない。でも死ぬ実感が湧くってことは、生きてるっていう実感も湧くってことにはならないか?」


「たしかに生きているっていう実感、まだ死んでいないっていう実感はあるかもな。そう考えれば退屈なんかじゃないのかもしれない。俺は今、今までの人生で一番退屈していないかもしれない。楽しんでいるかもしれない」


「そうだ。本当の楽しみや幸せってのは死ぬことを実感して初めて分かるもんなんだよ。ただし、恐怖や孤独は付きまとう。これはしょうがないことだ」


「秋月、お前はなんで死んだんだ? 死ぬと決めた時どんな気持ちだった? 死ぬ瞬間どんな気持ちだった? 怖くなかったか? 寂しくなかったか? 教えてくれ……」


「俺は……だった」


「秋月、聞こえない。もっと大きな声でいってくれ。俺に聞こえるように、分かるように」


 俺は語気を強めていった。叫んだ。どうしても訊きたかった。

 

 夢はそこで覚めた。


 目が覚めた時、部屋はいつも通り蒸し暑くて、タバコとアルコールの匂いがしていた。いつもの見慣れた景色だ。大学の教室でもなければ夕暮れでもない。夏のよくある朝だった。

 着ていたTシャツは汗を吸ってぐっしょり濡れていて、体中に張り付いていた。息が乱れていて心臓の鼓動が速く脈打っていた。夢の中で秋月はなんていったのだろう。きっと俺の夢の中のことなのだから答えなんてないのは分かっている。でも夢の中でも秋月なら答えてくれる気がした。夢の続きが見たかったが、こんな状態ではとてもじゃないがもう一度眠ることはできなそうだ。


 布団から体を起こし、部屋を見渡すと、ミカはもう起きていてノートに筆を走らせていた。昨日寝る時にテーブルを部屋の隅に移動させていたから、隅っこで小さくなっていた。

 俺が起きたことに気づいたらしく、こちらに顔を向けてくる。


「おはようございます。うなされていたみたいですけど大丈夫ですか? すごい汗ですよ」


「ちょっと死んだ友達の夢を見ていてな。数ヶ月前に自殺したんだ」


「自殺ですか。それはお気の毒です。それを止められなかった自分を責めてるんですか?」


「いや、そういうわけじゃない。あいつの自殺は誰にも止めようがなかったと思うし、誰にも責任はないと思う。あいつ自身が選んだんだ。だれかのせいじゃない。強いていえば世の中の退屈があいつを殺したんだと思う」


「そうなんですか。じゃあなんでうなされてたんですか?」


「死ぬっていう実感を感じさせる夢だったからさ。昨日まで実感なんかなかった。でも今はもうすぐで死ぬんだと、はっきり感じるんだ。余命宣告されたときは、これでやっと退屈な毎日から自由になれると思って、怖くなんてなかった。それが今じゃ怖いって思うんだ。寂しいと思うんだ。笑えるよな。情けないだろ?」


 俺がそういうと、ミカはおもむろにこちらに近寄ってきて俺の正面に座った。そして右手で俺の頭を撫でてきた。


「よしよし。死ぬことは怖いことかもしれません、寂しいことかもしれません。でも、宇佐美さんには私がいますから。死ぬまでずっと一緒に傍にいますから。だから大丈夫です」


 俺は笑った。なにが可笑しかったのかは分からない。でも笑った。きっと嬉しかったんだと思う。こんな風に人にされたのは初めてだった。もちろん今まで俺のことを励ましてくれた人もいる。ただ、真顔でこんなことをいって頭を撫でられた経験なんてなかった。いや、昔一人だけいたかもしれない。初恋のあの人だ。少しだけあの人のことを思い出した。だいぶ久しい人の温もりだった。



 朝食を食べてからしばらくぼうっとしていた。秋月の夢をみたせいか、ある天使の映画のことを思い出していたのだ。秋月は映画と写真が趣味でよく俺の家で酒を飲みながら映画を見た。見る映画の種類は多岐に渡ったが、秋月はアクション映画やコメディ映画よりも、ヒューマンドラマや芸樹的であったり哲学的であったりする映画を好んだ。その天使の映画はそれらのうちの一本だ。

 その映画は割りと古いものだったと思う。たしか三十年ぐらいまえの映画だっただろうか。それ以上かもしれない。人間ではなく、天使が主人公の映画だった。映画の中の天使たちは人間からは姿が見えず、ずっと長い間人間を見守り続けていた。ただ、子供には見えていた。天使は何人もいて、ビルの屋上だったり、図書館だったり、飛行機の中だったり、サーカスの客席だったり、家の中だったり、人間がいるところにはどこにでもいた。そして人間の心の言葉を聞くのだ。天使がすることといえば、落ち込んでいる人間を不思議な力で少し元気づけたり勇気づけたりするくらだった。そういえば劇中で若者が自殺するシーンがあるのだが、それを止めることはできなかった。天使とはいえそこまでの力はないようだ。

 そんなある日、一人の天使が人間に興味を持つ。劇中での天使は、世界がモノクロにしか見えず、食べものなどの味も分からず、痛みといった感覚も分からないという設定だった。だからその天使は人間と人間の世界に心を惹かれる。世界はどんな色なのか、コーヒーの味は? 痛みとはなんなのか。

 そしてその天使は人間の女に恋をする。恋をした天使は空から堕ち、人間になった。そんな映画だった。俺にはあまりに詩的でよく理解ができなかったが、秋月はこの映画を気に入っていた。


 今、俺の目の前にいる自称天使とは設定が全く違う。果たして本物の天使がいたとして、そいつはどんな存在なのだろう。死んだら会えるかもしれないな、なんてことを考えた。



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