第2話あなたの天使
次の日の朝、昨日の看護師に起こされた。今から朝食だという。昨日閉め切られていたカーテンは開かれていて、病室の時計を見ると針は朝の九時を指していた。窓からはまだ朝だというのに強い陽光が俺を照らし、影を写しだしている。病室にいても相も変わらず蝉の鳴き声が聞こえてきた。窓の外を見ると大きな木が庭に生えていて、きっとそこにはたくさんの蝉が止まっているのだろう。昨日なかなか寝付けなかったせいか、頭がぼんやりする。だがそのおかげで俺は昨日の不安をあまり感じずに済んでいた。ただ検査結果はどうだったのだろうか、あまり悪くなければいいな、そう漠然と考えるだけだった。
それから少しして朝食が運ばれてきた。今朝はハムエッグに食パン、ジャムだった。うまくも不味くもない味だ。寝不足のせいか食欲もあまりなかったので、半分ほど食べて残りは残した。朝食を食べ終える頃には頭もだいぶはっきりしてきており、徐々に不安が戻りつつあった。今日これから検査結果が伝えられる。そう思うと憂鬱だった。裁判官にこれから裁かれる被告人のような気持ちだった。
特にすることもなくベッドの上でゴロゴロしていると、看護師がやってきて今から検査結果が朝倉の口から説明されるから、一緒について来るように言われた。俺は言われたままに、ベッドから起き上がり看護師の後をついていった。病院の中には様々な患者がいた。足にギブスをして車イスに乗っている人、松葉杖をついている人、眼帯をしている人、キャスター付きの点滴棒を持ちながら歩いている人、皆俺と同じ病衣を着ていて、俺も病人なのだと自覚させられた。
連れてこられたのは小さな小部屋だった。真っ白な壁に、小さな窓が一つだけあり、そこから陽の光が差し込み、部屋の中を照らしていた。ただ、それだけの光量では暗いのか、天井にはいくつかの蛍光灯が灯っていた。部屋の中心にあるテーブルにはモニターとキーボード、マウスが置かれ、椅子がテーブルを挟んで二脚ずつ計四脚あった。朝倉はすでに来ていて、俺の対面にある椅子に座っていた。
「どうぞ、座って下さい」
朝倉に促され椅子に座る。クッション性があまりない固い座り心地の悪い椅子だった。朝倉はモニターに移されたレントゲンのような画像を俺に見せながらこう切り出した。
「大変申し上げにくいのですが……」
その言葉を聞いた瞬間、体中が熱くなり、脳に向かう血液の量が増した。頭がくらくらする。よほどの大病なのだろう。しばらく入院することにになるかもしれない。そんなことを考えた。
「宇佐美さん、あなたの胃には腫瘍ができています。悪性の腫瘍です。つまり一般的に言われる胃癌です。しかもだいぶ進行していまして、他の臓器にも転移しています。もし、あなたがもっと歳をとっていればこんなに早く進行はしなかったのですが……正直に言って、もう手遅れです。抗癌剤治療によって進行速度を抑え、延命することしかできません」
入院とかもうそういった次元の話ではなかった。
「仮に延命しない場合、短くて三か月、長くて六ヶ月といったところです」
それを聞いた俺は先程と違い平然としたものだった。もうこれからの将来や未来のことを考える必要がなくなったのだから。
「どうしますか? 延命を希望されますか?」
その朝倉の問いに対して俺ははっきりこう答えた。
「延命は希望しません」
余命宣告をされて平然としていられるのは、俺が自分の人生をずっと退屈なものだと思っていたからだろう。余命がほとんどないと言われて、少し安堵したところもある。やっとこの二十一年間の退屈な毎日から開放されるのだと思った。
俺は自分の人生がずっと退屈なものだと思って生きてきた。ただ毎日変わらない生活をしているだけで、生きているという実感がなかった。こう思うようになったのはいつの頃からだろう。別になにか特別なきっかけがあったわけではない。気がついたらそう思いながら生活していたのだ。気がついたら朝起きて、食事をし、学校に行き、家に帰ってくる。そして気がついたら次の同じ日がやってくる。そんな毎日だった。最後に夢を語ったのはいつだろう、最後に将来のことについて考えたのはいつだろう。ただただ何も起きず、起こさず過ぎ去っていく毎日。そういう毎日にうんざりしていた。この余命宣告は俺にとっては自由になれる魔法の言葉のように感じられた。
俺が延命治療を拒否すると、朝倉はそうですか、とだけ頷いた。きっと延命をしてもあまり意味がないことを分かっているのだろう。
「また激しい痛みが現れることも考えられますので、痛み止めを処方しておきます。また、今後、吐き気が出てくる可能性もあるので吐き気止めも出しておきます。とりあず一ヶ月分出しておきますので、足りなくなったらまた来てください」
俺は、はいと答えた。
そのあと受付で入院費の精算をした。救急隊の人が気をきかせて、俺を運んで来る時に財布を持ってきてくれていたのだ。そして薬を処方してもらい病院を後にした。
病院を出ると蒸し返るような暑さが俺の身を包んだ。空からは太陽の光が、地面からはアスファルトの照り返しがそれぞれやってきた。空はどこまでも青くて雲一つなかった。普通であれば余命宣告などされた暁にはこんな思いにはならないのだろうが、俺の心はこの空のように晴れ渡っていた。これでやっと自由になれる。あらゆる全てから解放される。
入院していたおかげで丸一日タバコを吸っていない。無性にタバコが吸いたくなった。さすがに救急隊の人はタバコとライターまでは家から持ってきてくれていなかった。道を歩いているとコンビニが目に止まった。ここでタバコとライターを買っていこうと考えた。コンビニの中に入るときんきんに冷えた冷房の風が俺の体を一気に冷やした。さっきまで酷暑の中を歩いていたから着ていたTシャツは汗で体に張り付いていて気持ちが悪かった。喉もからからだ。コンビニに入り、まずは飲み物が置いてある場所に行き、サイダーを手にとった。胃癌なのに炭酸なんか飲んでいいのだろうか? ふとそんなことを思ったが、すぐにどうでもよくなった。それから百円のガスライターを取って、レジに向かう。そして店員に話しかけ、ラッキーストライクを一箱買った。
店を出てすぐにタバコを吸おうと思ったが灰皿が見当たらず、禁煙とだけ書かれた看板を見つけた。運がないなと思いながら家までの道を歩く。すると道の途中に小さな公園を見つけた。灰皿も置いてある。ここで一服していこう。そう思い、公園に入った。公園は昔からあるのか、遊具は酷く古ぼけていた。とはいっても、小さな公園だったからブランコとシーソーしかなかったが。シーソーは塗装が剥げ落ち、木の板がむき出しになっていて、乗ったら今にも折れそうだった。ブランコも塗装が落ち、至る所錆びついている。俺はブランコに座り、タバコに火をつけた。一日ぶりのタバコはうまかった。
タバコを吸いながら余命宣告のことを思い出していた。残り三ヶ月から六ヶ月。俺の人生は短かったなと自嘲する。なにもない人生だった。とはいっても人並みの経験はしてきたつもりだ。退屈だと感じるのはただの贅沢だったのかもしれない。そんなことを考えていると秋月のことを思い出した。
秋月とは今から約三年前、俺が大学に入学したばかりの春に出会った。出会いは単純なものだった。同じ講義を受けていて、隣の席に座った人間が秋月だったというそれだけこのことだ。最初に話しかけてきたのは秋月の方からだった。講義に使う教科書を忘れたから見せて欲しい。それが初めての会話だった。それから講義で少しづつ話すようになっていった。他愛もない会話がほとんどだったが、話して分かったことはこいつも人生に退屈しているということだ。それから俺と秋月は意気投合し、よく一緒につるむようになっていった。講義が終わるとゲームセンターにいったり、ファミリーレストランで駄弁ったり、俺の家にもよく来るようになった。家では大抵酒を飲んだりタバコを吸ったりしながら映画を見た。俺は秋月と知り合って初めて酒とタバコを覚えた。最初の頃は大してうまいとも感じなかったが、秋月に勧められ繰り返し飲んだり吸ったりしているうちに、不思議とうまいと思うようになった。その習慣が未だに残っているというわけだ。悪習だと分かっていても止められない。まあ、もっとももうすぐ死ぬのだから止める必要はなくなったのだが。
そんな日々が三年続いた。よくも飽きなかったものだと思う。毎日、酒とタバコをやりながら人生の退屈を嘆き合った。だがある日、この日々は突如として終わりを告げた。今年の春頃だったと思う。秋月が自殺したのだ。部屋で首を吊っていたらしい。それを家族が見つけた。理由は誰も知らない。遺書は残されていなかったし、動機のようなものもなかった。ただ、今になって思う、秋月はこの退屈な人生に耐え切れなくなったのではないかと。秋月の自殺を知らされた時、不思議と衝撃は受けなかった。なるべくしてなった。そんな風に思った。
このことがきっかけで俺の毎日はさらに退屈で代わり映えないものになってしまった。唯一友人と呼べる奴が死んだのだ。他に俺とつるむような人間は大学に存在しなかった。それからの毎日は苦痛だらけだった。秋月もこんな風に人生に苦痛を感じていたのだろうか。死ぬ前はどんな気持ちだったのだろうか。
タバコを吸いながら秋月のことを考えていると、遠くの陽炎の中に人影を見た。こちらに歩いてきているようだ。人影が段々とはっきり輪郭を帯びてくる。どうやら服装のシルエットからいって女らしい。その女はどんどんこちらに向かってきた。そして俺がいる公園の中に入ってきた。その女は少女だった。見た目からいって歳は俺より少し下ぐらいだろうか。こんな小さな公園になんの用があるというのだろう。少女は公園に入って俺が座っているブランコの前まで歩いてきて足を止めた。そして、俺の顔を見ながらこういった。
「宇佐美さんですね?」
どうやら向こうは俺のことを知っているらしい。俺はこんな少女は知らない。ただ、少女は不審議な雰囲気を発していた。なんだかこの世から一人だけ浮いているような。少女の姿だけがはっきりとしていて、周りの風景が全て滲んでいるような、そんな感じを受けた。
「そうだけど、あんたは?」
俺がそう訊くと少女は俺の顔をまじまじと見つめ、それから微笑み、不思議で意味の分からないことをいったのだ。
「天使です。あなたを迎えにきました。これからあなたが死ぬまでよろしくお願いします」
そういうと少女は深々と頭を下げた。
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