第3話私の使命
頭を上げた少女はこちらをじいっと見つめたままだ。その表情は涼しげで、さも当たり前のことをいったまでですといっているようだった。
天使? 彼女はなにをいっているのだろう? 宗教の勧誘かなにかだろうか。そしてなにより疑問なのが、なぜ俺の名前を知っているかということだ。
俺が呆けた顔をしていると彼女はまたも当たり前のようにこういった。
「あなたの寿命が残りわずかとなったので見守りに来ました。それが私の使命です」
増々わけが分からない。どうして寿命のことまで知っている? それに使命ってなんだ? もしかすると彼女は病院の関係者かなにかで俺の情報を知っているのだろうか。今のところ寿命のことを知っているのは病院で働いている人間だけだ。それ以外の人間が知っているはずがない。俺は誰にも話していないし、余命宣告の現場を知らないだれかが聞いていたとは考えにくい。
そうだ。きっとこれは悪い冗談だ。人の寿命を冗談に使うなんて笑えない。
「そういう冗談はやめてくれ。俺は宗教には入らないし、あんたの冗談に付き合うつもりもない」
「宗教? 待ってください。これは冗談でも宗教の勧誘でもありませんよ?」
「じゃあなんだ?」
「今話した通り、もう余命があまりないあなたを見守りに来たんです。それが使命なんです」
「そもそも、なんであんたが俺の寿命のことを知ってるんだ? 病院の関係者なのか?」
「いいえ、私は病院の関係者じゃないです。寿命のことを知っているのは私が天使なので当然です」
「天使? 暑さで頭がやられたのか? 病院ならすぐそこにあるぞ」
「病院に行く必要はありません。お願いですからちゃんと私の話を聞いてくださいよ」
少女は潤んだ黒い瞳で俺に頼み込むようにいってきた。
俺は大きく溜め息を吐いた。これ以上話しても無駄だろう。自分のことを天使なんていっているような不審者にはこれ以上関わりたくない。俺は座っていたブランコから立ち上がり、彼女の横を無言で通り過ぎようとした。だが、彼女はそれを許してはくれなかった。右腕を思い切り掴まれる。彼女の顔を見るとそこには強い信念のようなものが感じられた。
「天使だと聞いて信じられないのも無理はありません。でも信じて欲しいんです」
俺は掴まれた腕を無理矢理引き離し、無言でその場を立ち去った。背中に強い視線を感じながら。
家までの距離はここから歩いて二十分ぐらいだろう。さっさと家に帰ってシャワーを浴びたかった。昨日一日中検査だっとこともあって疲労が溜まっているようにも感じる。シャワーを浴びたらビールを飲んで一眠りしよう、そう思った。
今日も太陽が惜しみなく光を放ち、空は快晴だった。遠くには陽炎が見え、少しだけ生温い風が吹いている。どこかの家から風鈴の涼し気な音が聞こえてきた。
それにしても先ほどから後ろの方で足音が聞こえる。嫌な予感がして振り向くと、案の定、数メートル後ろに先ほどの少女がいた。どうやら俺についてきているらしい。歩く速度を速め振り切ろうとする。その分、少女の歩く速さも増していった。まるでストーカーだ。かなりしつこい性格をしているらしい。
俺は諦めて足を止め振り返る。
「いい加減にしてくれ。家までついてくる気なのか?」
「はい。あなたが人生を全うするまで見守るのが私の使命ですから」
「その使命ってのはなんなんだ? 誰があんたにそんな使命を与えてるんだ?」
「さっきから質問ばかりですね。使命は使命です。私たち天使に与えられた、主からの使命です」
「なんだその主ってのは?」
「あなたたち人間が神様と呼んでいる存在ですね。天使は寿命がわずかとなった人間を見守るという使命があるんです。宇佐美さん自身が一番よく分かっていると思いますが、自分の寿命がもうわずかなことは知っていますよね?」
「ああ。さっき余命宣告ってのを受けたばかりだ。だが、余命宣告を受けた人間のところに天使が来るってのは初耳だな。それにあんたはどこからどう見ても天使じゃない。翼も無ければ天使の輪もない。どう考えてもいたって普通の女の子だ。自称天使な所を除けばな」
「翼も輪もありますよ? 見えないように閉まっているだけです。だって見えたら周りから奇異の目で見られるじゃないですか」
「すでに俺は奇異の目で見てるよ」
「……ひどいです」
「当然の反応だ。じゃあつまり天使ってことを証明するものはないわけだ。自称天使の変人だな」
「変人とは失礼ですね。それに自称じゃありません。れっきとした天使です。人間に見せるものではないので翼も輪も見せられませんけど」
「そうか。やっぱり自称天使の怪しい人間だな。俺は神も天国も信じちゃいないし、もちろん天使なんて馬鹿げたものも信じていない。宗教の勧誘なら他をあたってくれ」
俺はそういうとまた家に向かい歩きはじめた。もう完全に無視を決め込んだ。
結局、少女は俺の家の玄関前までついてきていた。俺は彼女を無視して玄関の鍵を開ける。靴を脱ぎ、部屋に入ろうとする。すると彼女は当然のように部屋に入ってこようとした。
「おい、なにしてるんだ。ここは俺の家だ」
「はい、分かってます。ですからさっきからいってるじゃないですか。見守るためにこれから宇佐美さんと一緒に過ごします」
「もういい。警察を呼ぶ」
「……それは困ります。止めてほしいです。さすがに捕まるのは嫌ですから」
「じゃあ出て行ってくれ。そうすれば今回のストーカー行為は見逃してやる」
そういうと少女は玄関の前で無言になり立ち尽くしてした。一瞬少女の顔を見る。俯いていてよく見えなかったが、落胆の表情が微かに見て取れた。俺は玄関の鍵をしっかりと閉めたことを確認して部屋に入った。
途中不審者に付け回されたが、やっと家に帰ってこれた。汗で湿った服を脱ぎ、暑いシャワーを浴び終え、冷蔵庫から冷えたビールを持ってきてテーブルの上に置いた。ビール缶のプルタブを開け、喉に流し込む。ビールの苦味と炭酸の爽やかさが心を満たしていく。アルコールが全身に染みわたっていく感覚がした。それから窓を開けて、タバコに火をつける。退屈な人生の中でこの時ばかりは少しだけ幸せを感じられる瞬間だ。
昨日あまり寝付きがよくなく若干睡眠不足だったせいか酔いはすぐに回ってきた。残りのビールを飲み干し、ベッドで横になる。アルコールと眠気でぼんやりした頭で今日受けた余命宣告のことを思い出す。残りの人生は三ヶ月から半年か……。まだ自分が死ぬという実感が湧いてこなかった。本当に俺は死ぬのだろうか。死ぬということはいったいどういう状態なんだろう。死に続けること以外なにもできない状態。死んだらどうなるんだろう。俺は天国とかは信じていない。だからきっと無になるのだ。何もない。俺という存在がない。何も感じず、何も考えず、何もできず、ただただ無になる。それは恐ろしいことなんだろうか。いや、きっと恐ろしいことなんだろう。
――秋月、お前はどんな気持ちだった?
太陽の眩しさで目が覚めた。どうやら昨日あのまま寝てしまったようだ。時計の針は朝の十時を指している。ずいぶん長い間寝ていたみたいだ。またあの夢を見た。長い長い夢。遠い昔の記憶。
あれは俺がまだ小学生になるかならないかの頃だったと思う。俺の育った街はなにもないどこにでもあるような田舎街で、子供たちの興味を引くものもほとんどなかった。これが都会であったのなら話は別だったのかもしれない。そういった田舎での子供の関心事といえば、冒険や虫取り、そして同じ子供たちだ。皆が退屈していた。そんな中俺は運悪く、同じ子供たちの関心を引いてしまっていた。小さい時の俺はまだ体が小さく、体力も力もなかった。それに加えて性格も内向的で、よく同い年の連中にいじめられていた。そういう日は決まって家の近所にある公園にいって一人で泣いていた。
そんなある日、「彼女」に出会った。歳は今の俺ぐらいだっただろうか。当時の自分からしたら彼女は随分大人に見えた。俺がいつものように公園で一人泣いていると、彼女がやってきて、「どうしたの?」と声をかけてきた。それが初めての出会いだった。それから彼女は俺が公園で泣いている度に俺を抱きしめて慰めてくれた。彼女は暖かくて優しかった。両親が共働きで、ほとんど家にいなかった俺にとってそれは、彼女だけが唯一の救いといえただろう。
不思議なことに彼女は毎日同じ公園にずっと一人でいた。何の予定もない日は幼稚園が終わった後、その公園に行き、彼女と色んな話をした。今日あった幼稚園での出来事、両親のこと、いじめのこと、将来の夢のこと。夢中になって話した。その度に彼女は「うんうん」と優しく頷いてくれた。そして日が暮れ夕暮れ時になると「またね」といって別れた。その不思議な交流は俺が引っ越す時まで続いた。それ以来会っていないし名前すら知らない。今となっては顔も声も思い出せない。だから夢に出てくる彼女の顔はいつもぼやけていてはっきり見えなかった。でも彼女の温もりや優しさはずっと覚えている。これからもきっと忘れない。今頃彼女はどこでなにをしているのだろう。今でも彼女のことを思い出し、夢に見る。ませていると思われるかもしれないが、初恋だったのではないかと思う。
ベッドでしばらく夢のことを思い出していたら空腹を感じ始めた。試しに冷蔵庫になにか入っていないか、確かめたが、やはり入っているのは酒と氷だけだった。仕方がない。外でなにか食べてこようと思い、顔を洗い、歯を磨いて着替えた。玄関を開けると、夏の強い日差しで目が痛かった。今日も暑い一日になるのだろう。ふと、気配を感じ、左を向く。そこには昨日の少女が玄関の横で両膝を抱え体育座りをしながら俯いていた。俺に気づいたのか、顔を上げる。
「あ、おはようございます。どかこに出かけるんですか?」
俺は驚きを隠せなかった。
「あんたまさか昨日あれからずっとこうしてたのか?」
「はい。暑くて大変でしたし、ずっと座っていたのでお尻も痛くなっちゃいました」
「なに考えてるんだ……」
「宇佐美さんのことを考えてますね」
「俺が今日家から出なかったら、今日もずっとそうしてるつもりだったのか?」
「はい。だって天使ですから」
少女はにっこりと微笑みながらそう答えた。
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