第5話私の名前
帰り道、真っ直ぐ家には帰らずに商店街の方へ向かった。家の冷蔵庫は空だったから、食料を買おうと思ったのだ。昼過ぎの商店街は結構人通りが多かった。俺は目的のスーパーマーケットに立ち寄った。
店内で適当にカップラーメンや安い食材、つまみ、それにビールの六缶セットをかごに入れた。その間、少女はもの珍しそうに店内を見ていた。必要なものを買い、レジで会計を済ませる。それから店を出て、タバコ屋でラッキーストライクを買った。
自宅の前についた時、少女は当然のように俺の隣にいた。
「あんたまさかうちに泊まるつもりなのか?」
「はい、宇佐美さんが死ぬまでそのつもりです」
自称天使の変人を泊めるのには抵抗があったが、もう諦めている。断ったところでまた玄関の前で体育座りを始めるだろうしな。俺は少女を部屋に上げた。
「汚い部屋だが、適当に座ってくれ」
「はい、ありがとうございます。では改めて、これから宇佐美さんが死ぬまでよろしくお願いしますね」
少女は満面の笑みでそういった。「死ぬまでよろしく」か……まるで結婚するみたいだなと、内心呟いた。
部屋は蒸し風呂みたいな温度になっていた。俺は窓を開けて、扇風機の電源を入れる。このアパートにはエアコンなんて高尚なものはついていない。
外を歩いてきて汗でびっしょりだった服をすぐ脱いでシャワーを浴びたかった。だが、よく考えてみると少女は昨日丸一日外で座っていたのだから、先にシャワーを浴びさせるべきだろう。
「あんた、先にシャワーを浴びてくれ。昨日風呂に入ってないだろ? 俺はその後に入る」
「いいんですか? 汗いっぱいかいたのでうれしいです」
「着替えはあるのか?」
「ないですね……」
「俺のでいいなら貸してやるよ。その間にあんたの服を洗濯しよう」
「ありがとうございます。宇佐美さん案外優しいですね。ご飯も奢ってくれましたし、部屋にも入れてくれましたし、着替えまで。きっと天国にいけますよ」
「いいからシャワー浴びてくれ」
「はい。あ、覗かないでくださいね。天罰当たっちゃいますよ」
と少女は笑いながらいった。天罰か……余命宣告されたんだ。もう当たっているのかもしれない。そうだとしたらなんの天罰なのだろうか。毎日怠惰に生きてきたからか? だったらもっと大勢の人間が死んでいるはずだと思う。
少女がシャワーを浴びている間、まだ読んでる最中の文庫本の続きを読んで時間を潰した。読書が退屈な俺の退屈な趣味の一つだった。本を十数ページ読んだ頃、風呂場から少女の声が聞こえてきた。
「すみません、着替え貸して貰ってもいいですか?」
俺は、「今出すよ」といって押入れから男物のTシャツとジャージを出し、風呂場の前に置いた。覗かないように。これ以上天罰に当たるのはごめんだからな。
少女が風呂場から出てくると、交代で俺が温めのシャワーを浴びた。今日かいた汗を綺麗に落とし、風呂場を出て、テーブルの前に座る。すると俺の正面に座っている少女の足元に、大きな純白の羽が落ちていた。俺はそれを拾い上げ、観察した。本当に真っ白で汚れ一つなく綺麗な羽だった。大型の鳥の羽か? 窓を開けていたから入ってきたのかもしれない。
「あ、すみません。それ私の羽です。宇佐美さんがシャワーを浴びている間に翼の手入れをしていたので、その時抜けてしまったんだと思います」
この少女は俺が死ぬまで天使ごっこをするのだろうか。いや、俺が死んでからもやっていそうだ。俺は「ああ、そうなのか」といって羽を窓から捨てた。
「絶対信じてませんよね?」と、ムスッとした顔で訊いてくる。
「当たり前だろ。いきなり現れて『私は天使です』っていうやつを信じる方が異常だ。それに飯を食べてシャワーを浴びる天使がいるのか?」
「天使がそういうことやったっていいじゃないですか。宇佐美さんって天国とか神様とか信じていないタイプですか?」
「いったろ? 全く信じていないね。人間死んだらそこでなにもかもお終いだ」
「そんなんじゃ地獄に落ちゃいますよ?」
「結構だね」
「嘆かわしいですね。こうやって目の前に天使がいるっていうのに」
そういって少女は溜め息をついた。それは自分のことを天使だと信じて貰えない溜め息なのか、それとも俺の信心深さのなさからくるものなのだろうか。でもどちらでもいいことだ。仮にこの少女が本物の天使だろうが自称天使だろうが、俺がもうすぐ死ぬことに変わりはないのだから。
そんな話をしているとあっという間に夜になった。日が落ちても相変わらず蒸し暑い夜だった。俺はいつものように冷蔵庫から今日買ってきたビールを取り出しテーブルの上に置いた。冷蔵庫で冷やされたビールは暑苦しい部屋とは対照的に涼しげでうまそうだ。さっそく缶を開け飲み始める。中の液体俺の全身に行き渡り、体温を下げてくれたような気がした。ビールを数口飲んでからタバコを吸った。やはり酒にはタバコがよく合う。
少女の方を見ると、なにやらこちらをちらちらと見ている。酒が気になるのだろうか。
「なあ、あんたは酒は飲まないのか?」
「飲んだことないですね。なにせ食事だって今日初めて食べたんですよ。お酒なんて飲んだことないです」
「どうだ、少し飲んでみてみないか?」
少女に酒を勧めたのは人恋しかったからかもしれない。秋月が死んでから、酒を飲む時はいつも一人だった。他の人間と一緒に酒を飲んでみたい。そういった欲求があったんだと思う。つまり寂しかったのだ。残りの少ない寿命をずっと一人酒というのも味気ないし、虚しいものがある。今までは誰かと酒を飲みたいなんて思ったことはなかったが、余命宣告をされて少しずつ俺の考えも変わってきているのだろう。死の実感が湧き始めたといってもいい。
「いいんですか?」
少女は俺の提案に目を輝かせてるようだった。うまいといってくれれば嬉しいが。俺は少女にビールの缶を手渡した。それを両手で受け取る少女。
少し考えるように一拍置いてから少女はビールを一口飲んだ。
「う……苦くておいしくないです」
「ビールが苦手な女の子は多いからな。もしかしたら甘いカクテルだったら飲めるかもしれない。今回は飲みの相手はして貰えなさそうで残念だ」
「いえ、もうちょっとがんばって飲んでみます。これも人生経験です」
そういうと不味そうな顔をしながらもビールを少しずつ飲み始めた。
「あんまり無理はするなよ。でも飲み仲間ができて嬉しいよ」
それから少女はゆっくりビールを飲み続けた。特になにか話したりしたわけではないが、なんだか楽しかった。
ビールを一缶空にした少女はなにやらノートとペンを取り出し、なにかを書き始めた。
「なにしてるんだ?」
「日記を書いてます。今日あったことや宇佐美さんのことを書いてるんです」
「それも天使の仕事なのか?」
俺は少し馬鹿にしたように訊いた。
「いいえ、これは趣味みたいなものです。人間が死ぬまでにどんなことをしているのか知りたいので」
「俺はどうせ平凡なことしかしない」
「その平凡も天使にとっては特別だったりするんですよ」
そうか、と俺は答えた。きっと少女には悪いが本当につまらない平凡の日記に仕上がることだろう。
日記を書き終えたらしき少女はうとうとし始めていた。テーブルの前で体育座りをして、膝と膝の間に顔をうずめていた。
「寝るなら俺のベッドを使っていいぞ。昨日は一日外で疲れてるだろうし、ゆっくり眠りたいだろう」
「そんな悪いですよ。私はこのままで大丈夫ですから、宇佐美さんがベッドで寝てください」
「いいから遠慮するな。俺には来客用の布団があるから。そっちで寝るよ」
「そうですか? じゃあお言葉に甘えて……」
そういうと俺のベッドに潜っていった。そしてすぐに寝息が聞こえ始めた。やはりよっぽど疲れていたのだろう。俺はテーブルを部屋の端に移動させると、押入れから来客用の布団を取り出し床に敷いた。俺もいい感じにアルコールが回っているせいかすぐに眠れそうだった。
眠りに付く前、なんとなくだがこの少女とはうまくやっていけそうだと思った。最初は自称天使の不審者にしか思っていなかったが、一緒に食事をし、一緒に酒を飲んで少しずつだがこの子ことが分かってきたように思う。変わってはいるが悪いやつじゃない。本当に死にまで一緒でも構わないかもしれない。それが少女に対する印象だった。そう思いながら目を閉じた。
これがこの少女との出会いだった。もし、この世に運命というものがあるならこの出会いはそれだったのかもしれない。
*
「なにじろじろ見てるんですか?」俺の視線に対して少女はもう一度いった。
「なんであんたは天使になろうとしてるんだ?」
俺は単純な疑問を訊いた。ただの憧れなのだろうか、それともなにか事情があるのだろうか。
「ですからすでに本物の天使なんですって。宇佐美さんが信じようが信じまいがそれが事実です。それと、あんたって言うのやめてもらえませんか? 私の名前はミカです。これからはミカと呼んで下さい」
「そういえば今まで名前を聞いてなかったな。ミカか。分かった。本物の天使ってことにしておくよ」
「分かってくれればいいです」
ミカは満足気にそういって笑った。
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