第15話海
次の日、俺たちはまた駅に来ていた。近場の海水浴場は電車に乗って三十分ぐらいの場所にあるからだ。昨日と同じく切符を買って改札を通り、ホームに出た。今日はちゃんと電車の時間をあらかじめ調べておいたので、電車はすぐにやってきた。海水浴場が混雑することを考えて早めに家を出たせいか、今日も車内の人はまばらだった。ミカは昨日と同じように靴を脱ぎ、座席に上がって外の景色を眺めていた。よほど電車が気に入ったのだろう。
「今日は天気もいいし暑くて絶好の海水浴日和ですね」
「ああ、そうだな。ちゃんと着いたら日焼け止め塗るんだぞ」
ミカの肌はまるで透き通るように白い。日焼け止めを塗らずに一日海にいたら真っ赤に腫れ上がってしまうだろう。そうなることを考えて、電車に乗る前に、駅前のドラッグストアで日焼け止めを買ってきたのだ。
「分かってますよ。ちゃんと塗るから大丈夫です」
海水浴場の最寄りの駅に着くと、すでに人でごった返してしいた。これは少し急いだ方がいいかもしれない。砂浜に座る場所がなくなってしまうかもしれないからな。
駅から十分ほどのところに海水浴場はあった。砂浜にはいくつものビーチパラソルが差してあって、人がたくさんいた。これでも早目に来た方だと思うのだが、少し甘かったのかもしれない。思ったよりも混雑していた。海が見えると隣から感嘆の声が聞こえてきた。
「おお。海ですね。すごい。人がいっぱいです」
「急いで場所取りしないとな」
砂浜を見渡すと、運良く、海の家近くに二人分なら座れそうな場所が空いていた。飲み物や昼食のことを考えると海の家の近くというのは都合がいい。俺は急ぎ足でその場所へ向かった。砂浜に足を踏み入れると、太陽の熱で焼かれた砂の熱がサンダル越しに伝わってきた。もし裸足だったら火傷してしまうのではないかと思う。
空いていた場所に、昨日買ったビニールシートを敷く、スペース的には丁度よさそうだ。そこに荷物とミカを残し、俺は海の家へビーチパラソルを借りにいった。それからついでにビールを三缶ほど買う。ミカの元に戻るとビニールシートの上で体育座りをしていた。
「おかえりなさい。パラソル借りられましたか?」
「ああ、この通りばっちりだ」
「ところで、その片方の腕に抱えている缶はなんですか?」
「ビールだよ。海といったらビールだからな」
「海に来てまで飲むんですか」
ミカの目線は少し冷たかった。だが仕方がない。これが楽しみで来ているようなものだ。
「海で飲むビールはうまいんだよ。ミカも飲むか?」
「いらないです」
ミカはそういうと立ち上がって、「着替えてきます」といい残しいってしまった。その間にビーチパラソルを差し、俺も水着に着替える。水着は服の中にすでに履いてきていた。それから俺は早速、一缶目のビールを開けて飲んだ。熱せられた外気とは裏腹にビールはよく冷えていて、いつも以上にうまかった。
海を見ながら飲むビールはこれがきっと最後だろう。そう思うとビールが余計に体に染みた。
それからしばらくしてミカが戻ってきた。昨日悩み抜いた末購入した水着を着ている。とても似合っていて、素直に可愛いと思った。
「……どうですか?」
頬を赤らめ、恥ずかしそうに訊いてくる。
「似合ってるよ。すごく可愛い」
思わず思っていることが口からそのまま出てしまった。
「よくそんな恥ずかしいこといえますね」
ミカは元々赤らめていた頬をさらに赤らめそういった。俺は話題を変えるために、日焼け止めの話をしようと思った。
「そんなことより、早く日焼け止めを塗った方がいい」
ミカは「そうですね」といい、日焼け止めを塗り始めた。しかし背中の部分はうまく濡れないようだった。
「悪いんですけど、背中だけ塗るの手伝って貰えませんか?」
「ああ、分かった」
俺は照れくさかったが、日焼け止めを手に取り、ミカの背中に塗る。ミカの背中はすでに太陽のせいで少し熱くなっていた。手間取りながらもどうにか塗ることができた。
「ありがとうございます。それじゃあ早速泳ぎましょう」
「泳げないんだから浮き輪がないと無理だろ」
「ああ、そうでした」
俺は鞄から持ってきた浮き輪を取り出し、空気を入れ膨らませる。
「これで大丈夫だろう」
「では改めて、泳ぎにいきましょう」
「俺はまだビールが残っているからそれを飲んでからいくよ」
ミカから不満の声が上がる。
「ミカは先に泳いでいてくれ。ちゃんと後から俺も泳ぐよ」
「分かりました。約束ですからね。絶対」
そういうと浮き輪を片手に一人で海の方へ走っていった。
俺はビールを飲みながらミカの背中を見送った。
海を見ながら飲むビールは初めてだったが、こんなにうまいとは知らなかった。もっと早く知っておくべきだったなと思う。水平線を見ながらビールを飲んでいると、ふと死の実感が湧いてきた。もうすぐで死ぬという実感は俺の世界の見え方を変えた。海はこんなにも美しかっただろうか、空はこんなにも青かっただろうか。――そして夏の暑さは生きているという実感を俺に与えてくれた。それが逆に死を余計にを意識させる。
ビールを飲みながらそんなことを考えていると、浮き輪でぷかぷかと浮いているミカの姿が見えた。一人で楽しそうに泳いでいる。ミカはいつも無邪気だ。そんなミカを見ていると心が和んだ。こんな日々がずっと続けばいいのにと心から思った。でもその願いは叶わない。俺はもうすぐで死ぬのだから。この穏やかな日々はそう遠くない日に終わる。そう思うと無性に寂しくなった。この海も見ることはできなくなる。この空も。この夏も。そしてミカも。もう人生を退屈だと思うことはなくなっていた。むしろ今は今までの退屈だと思っていた人生ですら輝いて見える。
そんなことを考えていると、海から上がったミカがこちらに駆け寄ってきた。
「どうしたんですか? 暗い顔して」
「なんでもないよ」
「なんでもないって顔してませんけど」
「本当になんでもない。ただ海を見ながらビールを飲んでいたら感傷的な気分になっただけさ」
「また暗いこと考えてたんですか? 今日はせっかくの楽しい日なんですから、そういうことは考えずに楽しいことだけを考えましょうよ」
「ああ、そうだな」
そうはいったものの、なかなか死に囚われた俺の気持ちが晴れることはなかった。
「……さっきの約束。一緒に泳ぎましょうよ」
「分かったよ。俺は泳ぐより見ている方が好きなんだけどな」
「きっと私と一緒に泳げば考えも変わりますよ。さ、いきましょう」
ミカにつれられ、俺も海へと入った。海水は冷たく、心地よかった。浮き輪をつけたミカを泳ぎながら押してやった。ミカはうれしそうに笑っていた。本当にこんな日々が続けばいいのにと心の中で呟いた。
海で十分泳いだ後は海の家で昼食を食べた。俺はカレーを、ミカは焼そばを注文していた。こういうところで食べる料理の味なんてたかが知れているのに、ミカはいつも通りおいしそうに食べていた。俺は具の少ないカレーに不満を持ちながら食べた。
昼食を食べてからも、ミカはまだまだ泳ぎ足りないといった感じで、俺はそれに付き合わされた。午後はミカに泳ぎ方の練習を少ししてやった。一人では全然まだ泳げないが、俺に掴まってバタ足をするぐらいならできるようになっていた。
気がつけば、もう日が少し傾き始めていた。ミカにそろそろ帰るぞというと、ミカはまだ泳ぎたいという様子だったが、渋々俺のいうことを聞き、帰り支度を始めた。ビーチパラソルを海の家に返し、浮き輪とビニールシートをたたんで鞄に詰めた。
帰りの駅も朝来た時と同じように人で溢れていて、切符を買うのに苦労した。ホームも人でいっぱいで、乗り込んだ電車も混雑していた。背の低いミカは「これじゃ外の景色が見えません」と不満を漏らしていた。俺は人の隙間から見える外をぼうっと眺めていた。少し前まで強い光を発していた太陽は夕日に変わっており、海の上に大きく赤く浮かんでいた。それがなんだか無性に悲しく感じられた。海の夕日を見るのもこれが「最後」だろう。
また一つ、俺の「最後」が終わりを告げた。
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