第8話彼女

 蝉のうるさい鳴き声と夏の暑さで目が覚めた。まだ頭はぼんやりしていてはっきりしない。体にはタオルケットが掛けられていた。きっとミカが掛けてくれたのだろう。いつの間に寝てしまったのだろうか。床に直に寝ていたせいか、体があちこち痛かった。思い切り体を伸ばしほぐした。少しずつ頭が回り始め、昨日のことを思い出す。確か、また痛みに襲われてミカに痛み止めを持ってきて貰ったのだ。あの痛みがこれから死ぬまで何度もあるのかと思うと嫌気が差した。そして頭を撫でられたり、腹をさすって看病して貰ったような気がする。それからのことは激痛のせいであまりよく思い出せない。


 ミカは変わっているところが多いし、実際変な行動や言動がある。それに正体も結局のところまだ分からない。でも、面倒見がよくて優しい子だということはこの数日間一緒に居て分かった。決して悪い人間ではないのだ。


 ミカの様子を見ようとベッドの方に目を向ける。しかし、ベッドの上にミカの姿はなかった。代わりに、すぐ隣から寝息が聞こえてきた。そちらの方を見るとミカは床に寝ていた。寝顔はまるで本当の天使みたいに綺麗で愛らしかった。たぶん、俺の看病したまま寝たのだろう。

 俺の視線に気づいたのか、ミカが目を覚ました。


「……あ、おはようございます」


 まだ眠いのか、目を擦りながら挨拶をしてきた。


「おはよう」


「痛みは大丈夫ですか? 昨日はあのまま眠ってしまったみたいでしたけど」


「ああ、今はなんともないよ。昨日はありがとう。助かった」


「なにがです?」


「なにがって、看病してくれたろ?」


「いえ、看病なんて大層なものはしてませんよ」


「それでも助かったよ。俺一人じゃきっとまともに痛み止めすら飲めなかったと思う」


「じゃあ私がいてよかったですね。居候がいるっていうもの悪いことばかりじゃないんじゃないですか?」


 とミカはいたずらっぽくいった。


「それとこれとは話が別だろ。どこの誰だか分からない人間を居候させるなんて普通じゃない」


「どこの誰だかは分かってるじゃないですか。天国から来た天使のミカですよ」


 俺は「ああ、そうだな」と軽く流した。ミカはその俺の反応に対して不満だったらしく、頬を膨らませていた。

 俺は頬を膨らませているミカを横目で見ながら洗面台へいき顔を洗った。これでだいぶ頭もはっきりした。それからテーブルの前に座り、死ぬまでにしたいことのリストが書かれているノートを広げた。日記は昨日買って書き始めた。問題は次になにをするかということだ。


ノートに書かれているリストを見てよく考える。なるべく早く済ませなければならないこと。そしてすぐに実行できるものはなんだろう。この二点の考えから導き出された答えは、「紗友里と別れる」だった。


 もうじきで死んでしまう俺と付き合っていても紗友里のためにならないと思った。紗友里には俺と違って将来や未来があるのだ。だったら、俺とはさっさと別れて他の誰かと幸せになってほしかった。きっと俺の知らない誰かが紗友里を幸せにしてくれるだろう。無責任だと思われるかもしれないが、その可能性に託すしかない。俺がいくら頑張ったところで紗友里を幸せにはできない。

 紗友里には余命宣告の話はしないつもりだ。きっと話せば、紗友里は同情してずっと俺のそばにいると言い出すだろうから。そうなれば意地でも別れてはくれないだろう。だからなるべく穏便に、そしてできるだけ紗友里を傷つけないように別れたかった。

 紗友里のことを考えると胸が痛かった。きっと紗友里は泣くだろう。そういう女の子だから。



 紗友里と出会ったのは今から約六年前、俺がまだ高校一年生の頃だった。まだ夏の蒸し暑さと匂いが残る秋だったと思う。当時の俺には友人と呼べる存在がいなくていつも一人だった。一人で登校し、一人で授業を受け、一人で昼食を食べ、一人で帰った。そんな一人だらけの俺だったが、毎日やることがあった。それは読書だ。読書だったら一人で楽しめるし、いい退屈凌ぎになる。だからいつも一人で本を読んでいた。周りからは変な奴だと思われていたと思う。だが、他人に無理に合わせてくだらない毎日を過ごすよりはよっぽど有意義だと思っていた。

 読む本はいつも図書室で借りていた。俺が通っていた高校の連中はあまり本に興味がないらしく、図書室は大抵貸し切り状態だった。だから授業が終わって放課後になると、完全下校時間まで図書室で本を読んで過ごした。普通の高校生なら友達とファーストフード店やカラオケにいったりするのだろうけど、生憎そんな友達はいなかった。正に本が友達って奴だ。では真っ直ぐ家に帰ればいいではないかと思うかもしれないが、俺を引き取った親戚とは仲があまり良くない。というよりお互いに無関心で、俺がいても、まるで存在しないかのようだった。そんな家に誰が早く帰りたいと思う? 俺は思わなかった。その代わりに図書室で時間を潰した。

 入学してから秋までの約半年はずっとそんな感じで過ごしていた。だが、ある日貸し切り状態の俺の図書室に来客があった。その顔には見覚えがある。それは当然のことだろう。同じクラスの女子だったのだから。ただ俺は普段クラスメイトとはいえ、あまり名前や顔を覚えていない。そういうのを覚えるのが苦手だったし、一人の俺には関係ないと思っていたから、覚える必要性を感じなかった。それなのになぜ、俺がその女子を覚えていたかというと、その女子はクラスで目立つ存在だったからだ。それが紗友里だったことはいうまでもない。

 紗友里はクラスで人気者だった。交友関係が広く、誰にでも優しいし性格も明るい。俺とは対極に位置するような人間だった。クラスの中心はいつも紗友里で、学級委員長もやっていた。その紗友里が図書室に入ってきた。最初、俺には気づいていない様子でなにやら本棚を眺めていた。なにか探している本でもあるのだろう。俺から話しかけるのも変だし、俺は黙って自分の本を読み続けていた。すると、


「あれ? 宇佐美くん?」といきなり話しかけられた。こちらに気づいたらしい。クラスで影の薄い俺の名前を知っているだなんてさすが学級委員長をやっているだけのことはある。


「宇佐美くんはなにしてるの?」


「見れば分かるだろ? 本を読んでる」


「それはそうだよね。ごめんね」


 そういって紗友里は笑った。


「いつも放課後は図書室にいるの?」


「大抵は」


 俺はぶっきらぼうに答えた。人と話すのは苦手だったから、早くどこかにいって欲しいと内心思っていた。だが、紗友里は俺に興味津々といった具合で積極的に話しかけてくる。


「そうなんだ。私もね、今度から放課後来れる日は図書室に来ようと思ってるんだ」


 俺は口には出さなかったが、この貸し切り状態の図書室を気に入っていたので正直不愉快だった。それで俺が黙っていると、紗友里はまた話しかけてきた。


「もしかして邪魔かな?」


「別にそんなことはないよ」


 俺は嘘をついた。本当は邪魔だと思ったが、口に出すほど馬鹿じゃない。


「ならよかった。宇佐美くん、いつも本読んでるもんね。よっぽど好きなんだろうね」


 紗友里は俺の返事に対して安堵したような笑顔を見せた。


「まあね。たぶん趣味なんだと思う」


「私も読書が趣味なんだ。放課後の図書室で本を読むってなんか素敵じゃない? 本当はずっとやってみたかったんだけど、今まで忙しくてさ。これからは宇佐美くんと一緒に放課後本を読むよ」


 紗友里は屈託のない笑顔でそういった。増々邪魔だとはいいづらくなってしまった。

 その日から紗友里は自分でいった通りほとんど毎日図書室にやってきて本を読むようになった。そして自然と一緒に帰ることが多くなっていった。二人とも完全下校時刻まで図書室にいるのだから自然とそうなる。一緒に帰る時は本の話をよくした。それぐらいしか二人共通の話題なんてなかったから。でもその内、紗友里が色んなことを話すようになってきた。友達のことや家族のこと、自分のこと。時には紗友里の悩み相談なんかもあった。なんで紗友里が俺にそういう話をし始めたのかは分からない。俺だったら誰にも話さないと思ったのかもしれない。


 そんな日々が二年も続いた。クラスが別々になっても放課後に図書室で会い続けた。その二年間は紗友里と色々なことがあった。最初は邪険にしていた紗友里の存在だったが、紗友里の積極的な行動や優しさで俺も紗友里に対して心を開いていった。図書室だけで会っていたのが、紗友里に誘われてファーストフード店やファミリーレストラン、カラオケやゲームセンターに一緒にいくようになった。本だけが友達だった俺からは考えられない進歩だ。紗友里のおかげで一般的な高校生活を送れたと思う。


 紗友里と過ごす毎日は楽しかった。人とここまで接するのは小学校以来だったから余計にそう感じた。俺は昔から内向的で受け身な性格だったから、友達はなかなかできなかった。人と一緒に行動するのが苦手だったし、だれかに遊びに誘われても基本的には断り続けていた。でも紗友里は、そんなことはお構いなしといった具合に積極的に俺を遊びに連れ出して回った。最初は断っていたが、ある日ついに根負けした。それから放課後は大抵紗友里と過ごした。高校二年の時に、俺に珍しく友人ができてからその頻度は減ったものの、それでも十分一緒に長い時間を共にした。結局はその友人とも紗友里は友達になり、三人で遊ぶことも多くなった。修学旅行先の自由行動の日もその三人で見て回った。学園祭では実行委員になった紗友里の手伝いもした。もしかすると俺の人生で最も充実した日々だったかもしれない。


 そして卒業式の日、俺は紗友里に呼び出された。そこは卒業式の喧騒からは遠く離れた校庭の端だった。そしてこう告げられた。


「私ね、回りくどいいい方できないからこんな率直にいっちゃうけど、宇佐美くんのことが好きなの。ずっと好きだった。一年生の時から気になってて、それで図書室に通おうと思ったの」


「そんな前から? 俺のなにがよかったんだ?」


 俺は不思議でならなかった。紗友里のような人気のある優等生が俺のどこを気に入ったのだろう。


「宇佐美くんは、なんていうか周りの人とは違って見えたの。普通の人は皆に合わせようとして、思ってもいないこといったり、愛想笑いしたり、無理にでもそうするでしょ。でも宇佐美くんはそういうのが全然なくて正直な人だなって思った。それから宇佐美くんが毎日放課後に図書室にいってるってことを知って、私もいってみようって。そして話していくうちに、私の思った通りの人だって分かった。だから好きなの」


「俺はただ人と接するのが苦手なだけだよ。別に正直なわけじゃない」


「そんなことないよ。私、人を見る目はあるんだから」


 そして紗友里は一呼吸置いてこういった。


「だから私と付き合ってください」


 その言葉にはかなり驚いた。俺も紗友里に好意を持っていたからだ。それにあの人気者の紗友里がこんな俺を選ぶなんて信じられなかった。でも告白はいたずらでも冗談でもなく本気で、俺はその告白に対して「俺も好きだ」ということをいった。そこから紗友里との交際は始まった。


 あれから三年、俺は今紗友里と別れようとしている。



 俺がノートを見ていると、ミカが横から覗き込んできた。


「次はなにをするんですか?」


「紗友里と別れようと思っている。これは早く片付けた方がいいからな」


「本当にいいんですか? 彼女さんならきっと宇佐美さんの傍に居てくれますよ?」


「いいんだ。紗友里には俺と違って未来がある。それを台なしにしたくない」


「寂しくなりませんか?」


「たぶん寂しくなると思う」


「宇佐美さん、優しいんですね」


「ただの自己満足だよ」


「でも相手のことを思いやってのことじゃないですか。それは優しさっていうんだと思います」


「どっちでもいいさ。紗友里が幸せになってくれれば」


「やっぱり優しいですよ」


 俺は携帯を手に取り、紗友里へメールを送った。「大事な話があるから今日会えないか」と。紗友里とは大学も一緒で家もそんなに遠くないところに住んでいる。きっと会ったらまずは、なんで大学に来ていないのか咎められることだろう。

 メールはすぐに返ってきた。「大学の講義が終わった後なら大丈夫だよ」と。大学の講義は三時頃に終わるらしい。駅前に四時集合という話になりメールは終わった。今から紗友里に別れ話をすると考えると心臓の鼓動が速くなった。うまい具合に別れられるだろうか。傷つけずに別れられるだろうか。そんな考えが頭の中を巡った。その不安を打ち消すために、約束の時間まで本を読んで過ごすことにした。他にやることもなかったし、少しでも他のことに頭を向けたかった。怖かったのだ。紗友里と別れるという現実が。


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