第6話 悪夢から覚めて

ぼんやりとした表情のままスーツに着替える私を、妻はただ不思議そうな顔で見つめている。何か私に色々と話しかけているようだったが、上の空でそれに答えつつ、気づけば私は、身体が記憶するまま通勤ルートを歩いていた。


不思議な浮遊感を持ったまま会社に辿り着く。朝一にどこか既視感のある案件の仕事が入ったので、テキパキと指示を出し、退職の為の身の回りの整理をしていたら、あっという間に一日が過ぎていた。業後にコーヒーを飲み、ほっと一息をつく頃には、そういえば夢の中で飲んだコーヒーも美味しかったっけなんて、やっと思い出す程度に、夢の記憶は薄れていた。


「課長、ちょっとこちらへお願いします」


カップを置き振り返ると、そこに部下達が集まっているのが見える。当然分かっている癖に、照れくささを隠す為、何だ何だ?なんて言いながら私が立ち上がると、皆がそれを拍手で迎えてくれた。


同時に部下の一人が、綺麗な花束を差し出してくれたのだが、私の手は何故か震え、それを受け取る事ができなかった。


「ど、どうしたんです?」


心配そうな顔を浮かべる部下。ハッと我に返り、花束を受け取ると、改めて大きな拍手が私の身を包んだ。


「今までありがとうございました!」

「お疲れ様です、課長!」

「課長、いつでも顔出してくれて構わないっすよ~」


その強烈な既視感に、目眩がする。何か、これから良くない事が起きるのではないか。そんな確信めいたものがあった。ただ黙っているだけの私を、部下達は感動しているのだと勘違いしたらしい。小さなセレモニーは滞りなく進み、気づけば目の前に部長が立っていた。


「遠野くん」

「……」

「今まで本当にありがとう、そしてお疲れ様」

「あ、有り難うございます」


差し出された餞別を受け取り、小さくお辞儀をする。部長の笑みも、あの夢と同じだ。


「おっ、そのお金でパーッっと飲み行っちゃいますかーっ」

「おいおい、課長の金だろっ!」

「課長、いつでも遊び来てくれて構わないっすよ~~」


忠実になぞられる既視感ある光景に、私の緊張はピークに達し、吐き気さえしてきた。まずい、このままでは、光る、光ってしまう!


「・・・と、遠野くん?」


思わず目を閉じうつむく私に、語りかけるような部長の声がする。


「課長どうしたんすか、マジ泣きっすか~」


そんな新人のへらへらした声に顔を上げると、そこには私を見る心配そうな皆の顔があった。私は、素早く身体に目をやり、手や顔をぺたぺたと触る。良かった、光っていない、私は消えていないのだ。


きっと、退職によって生活が変わることでナーバスになっていたのかもしれない。そう思うと、何てつまらないことで怯えていたのだろうかとくつくつと笑いがこみ上げてきた。そうやってしばらく一人で笑っている私を、きょとんとしたまま見ている皆に気づいたが、そんなこと気にもならない程気分は愉快だった。


その後、ウキウキという擬音がこれほどに合う姿はこの世にない程浮き足立ったまま、私は足早に家路に着いた。送別会は後日開催されるのだという。


家では妻と愛猫が私を待っており、食卓には私の好きなメニューばかりが並んでいる。それを嬉しそうにバクバクと食べる私の、朝とはうって変わって元気な姿に、妻は変な人ねと言って笑っていた。


そして夜、見慣れた寝室の天井を見、なんてことのない日常を有り難いものだと感じさせてくれた今朝の夢に、一人感謝しながら眠りについた私は



「おはようございます、遠野様」



そんな声で目が覚めた。

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