第5話 私の明晰夢

これは明晰夢の類だと思っていた。


私は、まるでナルニア国物語のような不思議な世界にやって来てしまった夢を見ているのだと。きっと今は退職日の早朝で、カーテンから差す陽に顔が当たった私は、レム睡眠の狭間に実体感のあるリアルな夢を見ているのだ。そのうち、妻が遅刻するわよ、何て言いながら私を起こしてくれる。そして私はスーツに着替えて、猫を軽く撫でた後、行ってきますと会社へ向かうのだと、そう思っていた。


紫色の空に月が二つ。ふわっと室内に入ってきた風は、嗅ぎ慣れない異国の空気を私の鼻腔へと運んできた。その、あまりにも現実離れした景色を見てしばらく硬直してしまった私は、真っ白な頭から、全ての整合性を繋ぐある結論に至った。すなわち、これは夢なのである。そう、やっと夢だと言う事に気づいたのだ。


そうと分かれば話は早い。思わず胸いっぱいの安堵感と共に笑いがこぼれてしまった。一体何をビクビクとしていたのだろうか、この夢の主は私なのだぞ、と気持ちを切り替え、私の無意識が生んだであろう、ユルヴェーヌと名付けた銀髪の美女の方を振り返った。


「で、私は何をすればいいのでしょう?」


そう告げると、とんとん拍子に事は進み、ある部屋へ案内され、まずは城の事務仕事をして欲しいと頼まれた。私は物わかりの良い笑みを浮かべ、頷きと共に快諾し、後はひたすらこの不思議な夢の世界での仕事に集中することにした。


昔から金縛りに合いやすく、明晰夢を見る事にも慣れていた私は夢の中での所作をある程度心得ている。こういった夢は、努力して覚まそうとするより夢の中のシナリオに乗り、淡々と進んでいけばいずれ覚めるものなのだ。当然、無理矢理目を覚ます方法も知っているが、今までにない程不思議な世界、すぐに潰してしまうには惜しいと感じたので、このまま夢を見ることにした。申し訳ないが目覚ましは妻にやってもらおう。


膨大な量の事務作業に没頭する私。仕事の夢を退職日に見るとは皮肉なものだ。勝手が全く分からないかと思ったが、やはりそこは夢だった。このファンタジックな世界観の中で、言葉や文字だけが何故か日本語で、私はスラスラと作業が出来た。


夜、私はニコニコ顔のユルヴェーヌに案内され、私の寝所だという部屋へと移動した。そこは、高級ホテルの一室のような豪華な部屋で、家具も内装も、豪華極まりないものだった。私はくたくたになったスーツを脱ぎ、用意されていた衣服に着替える。夢の中で着替えをするのは初めてだった。


明晰夢の違和感に気づいたのは、ようやくこの時になってからだ。


大きな天蓋付きのベッドに身体を預け、全身に広がる心地よい疲労感を癒やす。そこで私は、ふと明晰夢というにしてもあまりにも現実感が強すぎることに、今更ながら疑問を抱いた。酷使した目の疲れも、先ほど食べた不思議な肉の味も、あの埃っぽい廊下の匂いも、全て明晰夢の域を超えて鮮明すぎはしないだろうか。ふと顔を横にやると、部屋の隅にある棚の上に、見覚えのある花が生けてあるのが見える。


……それは皆から貰った退職祝いの花束だった。


それは、じわじわとした溜まっていた小さな不安が、臨界を迎え恐怖へと変わる瞬間だった。


私は覚悟を決め、無理矢理目を覚ます為に強く目をつむり、覚めろ覚めろと繰り返し、その後バッと目を開けてみる。昔から怖い夢を見たときは、何度もこれで目を覚ましていたのだが……しかし、そこに見えるのは見慣れた寝室の天井ではなく、古めかしくも立派な天蓋だった。


何故か、ツツーッと涙が流れる。いや、馬鹿な、いい大人が夢を見て泣くだなんて。でも、そんな、一体この世界は何なのだ。実は、うすうすは気づいていたのだが、気づかないふりをしていたのだ。私は感情でぐちゃぐちゃになった頭を抱えながら、違う違うこれは夢だ、と何度も何度も繰り返し、どれだけの時間が経ったのか、気づけば意識は深い闇に沈んでいた。


「あなた、いい加減起きなきゃ遅刻しちゃうわよ。」


そんな、声が聞こえた気がした。


聞きなれた声だ。そう私を呼ぶ……この声!


私がバッと身体を起こすと、真っ青な顔で突然飛び起きた亭主を見る、驚いた妻の顔がそこにあった。

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