聞かせたい話があるんだ。

宮内露風

第1話 妻の弁当

 20センチ×8センチ×7センチの、プラスチック製の小さな弁当箱。

僕は今でも、朝起きると、これにご飯を詰めて、海苔を乗せて、お昼御飯に持っていきます。

 お昼代節約のために、妻が一昨年8月に、赤羽のダイソーで買ってくれた弁当箱。


久しぶりに弁当を作ってあげる。


 妻は張り切っていましたが、僕はいつまで続くやらと思っていました。

新婚当初は早起きして、何やかやと、こって準備をし、毎日お弁当を持たせてくれましたが、飽きっぽい妻の弁当は、3か月続きませんでした。


 4月に東京へ出てきて、5月に仕事が決まり、当初は、職場のある竹橋パレスサイドビルの中で、弁当を買っていました。しかし、東京は故郷の鹿児島に比べて物価が高いので、一念発起した妻が弁当を作ることにしたのです。

 東京へ来たのは、妻の末期がんの治療のためでした。

一昨年の2月、鹿児島の病院で、もう治療は無理と言われました。

現代の医学で出来ることは無いだろうとも。

 どうしたらいいのか、本当に悩みました。悩みすぎて、1か月近く便秘になり、僕も大腸がんになったかと思ったほどでした。

何が妻のために一番良いのか。

悩んだ末に、妻に聞きました。

君はどうしたいのか。

妻は少し考えて言いました。


「普通に暮らしたい。」


病院は嫌だ。もう入院したくない。強い薬も嫌だ。普通の生活を楽しみたい。


発症した5年前、トータルで1年ほど入院しました。明るくそれなりに楽しんでいたようでしたが、辛かったんだなあ。

ただ、家族として諦めるわけにはいきません。思い切って東京で、治療の道を探ることにしました。

妻は毎週検査を受け、抗がん剤を投与する日々。

私は働きながら、新しい治療の情報収集をしました。

鹿児島時代と変わらず、仕事と治療以外は、免疫力を高めるため、なるだけ妻の好きなことをさせ、必ずつきあいました。

オオムラサキの放蝶イベント、静岡へのバス旅行、花火大会、盆踊り、ハロウィンパレード、愛犬の参加できるイベント

住む場所も、そのひとつ。


ベランダから、スカイツリーと東京タワーと富士山が見たい。


探しまくって、荒川の3LDKマンションを見つけた。正面にでっかくスカイツリー、奥に小さく東京タワー、一部だが富士山もはっきり見える。どんなもんじゃ。

ただし、家賃は高い。頑張って稼がねばならない。鹿児島と違い、残業をしまくる日々が待っていた。


妻の弁当は秋になっても続いていた。

珍しいこともあるもんだ。僕はからかった。

ただ内容は違ってきていた。

手作りが身上の妻が、冷凍食品を使うようになっていた。

今思うと、だんだんしんどくなっていたのだろう。

あの頃の僕は、会社で全国規模のプロジェクトリーダーを委ねられ、ただただ忙しく。妻の変化に気づかなかった。

その年末に、妻に味覚が無くなったと言われた時も、そのうち戻ると気にしていなかった。

翌年1月、東京に腰を落ち着け、治療を頑張るために、転職した。

安定を得るため、契約社員から正社員に。

知識を活かせる税理士事務所へ務めた。


年が明けても、妻の弁当は続いていた。

中身は、おにぎりだけになったが。

お金が無いのだろう。

そう勘違いしてしまった僕は、一層仕事に没頭した。

休日は相変わらず、二人で出かけていたので気づかなかった。


2月に主治医に呼ばれ

あと半年と告げられた。

僕は狂ったように病院を探し回った。

本で話題の病院が、治療を引き受けてくれた。

余命2か月と言われた人も助かったそうな。

藁をもすがる思いだったが、治療開始は4月からと言う。

しつこくお願いしたが、みんな急いでますよと言われた。


この頃から、妻の病状は目に見えて悪化し、外見も変わった。

スタイルの良かった妻の下腹は突き出し、黄疸で目と皮膚は黄色く染まった。

咳がひどくなり、唾に血が混じる。

今思うと、動くのもしんどくなっていたのだろう。

お出かけが好きな妻が外出を嫌がるようになり、僕が外の用事も済ませた。

そのときの主治医は、顔を合わすと「そのうち動けなくなるから、動けるうちに鹿児島に帰るように。」と言った。

そのたび、激しく口論した。治す気があるのかと思った。まるで死にに帰れと言われているようだった。妻からは、後できつく叱られたが。


そんな状態でも、妻は弁当を作り続けた。

おにぎりは、ご飯に海苔を乗せただけのものに変わった。

3月になって、いよいよ動くのもきつくなった妻は、僕を台所に呼び

真面目に、ご飯の炊き方と弁当の詰め方をレクチャーしてくれた。


飯なんか、学生時代から炊いているからできるよ。

ご飯の詰めかたって、俺もう五十だぜ。


言いたかったが、言えなかった。

賢明な妻を見ていると涙が溢れた。


4月、話題の病院の治療が3日後に迫った日。

妻は私の前に正座して頭を下げた。


もう実家に帰りたい。


一晩悩んで、実家のある島へ帰っても治療を続けることを条件に承知した。

3日後、本来なら新しい病院に行く日に、鹿児島まで送っていった。

それから、わずか3週間後、妻は永遠に旅立っていった。


それ以来、飯屋というものに入れなくなった。

僕は、妻が味が無いのに無理して食べていたのを気づかなかった。

そのことで、物凄い罪悪感が襲ってくるから。

もうご飯を美味しく食べることは一生無いかもしれない。

それでもいいやと思う。

ただ、出来ることなら

もう一度、君の作った弁当が食べたい。


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