第25話 最後の旅行
9月になり、私が参加したプロジェクトは締めくくりの時期を迎え、追い込みに忙しい時期となった。契約更新の時期でもあり、同じ条件での3カ月の更新を提示されたが、事後処理を終わった11月以降、何をやるのかは明かされなかった。
元の職場への復帰試験は、無事人事院による1次面接も突破し、残すところは東京国税局が職員としてふさわしいかを審査する10月の2次面接のみとなった。私はすっかり受かった気でいた。20年近く国税職員として問題なく勤務したのだ。表彰も平均以上に受けている。不採用になるわけはなかった。
妻の病状は私が見る所、じわじわと悪化しているようだったが、今すぐどうこう、切迫した事態にはなりそうにないように思えた。私たちは相変わらず、週末になると、各地へ散策や買い物に出かけた。鹿児島のときは、ただ眺めていたテレビの散策番組が、東京にいる今はガイドマップ代わりだ。ここいいねと感じたら、次の週末に出かけて行った。
あるとき、仕事から帰ると、にこにこした妻が待っていた。
「じゃーん。」
手にして見せたのは、日帰りバス旅行の当選通知だった。北千住のケーキ屋に置いてあった応募用紙を、いつの間にか妻が提出していたらしい。
「これ行こう、絶対行こう!」
富士の麓、静岡の沼津辺りを回るバスツアーだった。簡単な湾内クルーズや浜焼きバイキングも体験できる。それはいいと思ったが、途中で宝石直売所による点やら、何かきな臭い感じがして私は渋った。しかも平日、業務が追い込みの時期に休みにくい。どうしても行きたければ叔母さんと行けば、そう言ったら、妻は露骨にがっかりした。
私は妻の意気消沈ぶりが気になり、一晩考えた結果、やっぱり行くよと言った。
バスは北千住を早朝7時に出発した。席は自由だったので、私たちは後部座席に陣取り、妻は子供の様にはしゃいでいた。そんな姿を見て、私は来てよかったなと思った。途中で宝石直売所や高速のパーキングエリアに寄りながら、晴天の中、バスは静岡に入った。心配していた宝石販売店では、私たちは、あまりしつこく勧誘されなかった。私が妻の後ろに、猛犬のような顔をして、張り付いていたせいかもしれない。妻は騙されやすい人で、今までも、どう見ても詐欺的な話なのに、涙を流しながら同情するようなところがあり、しばしば私が事態の収拾に追われてきた。私は反対に、職業病でもあったが、現実的で猜疑心の塊のようなところがあった。
バスの右手に、妻がどうしても見たかった富士山がその姿を現した。やはり、明らかに他の山とは格が違う威容だ。横を見ると、妻は手を併せ、何事か祈っていた。しばらくして、目を開けた妻は、やっぱり富士山はいいねと言った。
バスは沼津に着き、湾内を30分ほどクルーズした。海は久しぶりだ。私たちの鹿児島のマンションは海沿いにあったが、東京に来てからは、まともに海なぞ見たことが無かった。島育ちの妻は、魅入られたように海を見ていたが、やっぱり海もいいよねとぽつりと呟いた。
無料のツアーにこんなことを言うのもなんだが、正直、浜焼きも期待外れで、景色以外はこれということのない一日だった。しかし、妻は満足したようで、私はうれしかった。
帰りのバスの中で、珍しく妻がこんなことを言った。
「ねえ、今、海外旅行するなら、どこに行きたい。」
海外旅行は、新婚旅行以来行っていない。4泊5日でイギリスに行ったのだが、写真ばかり取っている私に妻がかんしゃくを起こし、私たちは帰りのヒースロー空港で大げんかした。もう2度とあなたとは海外に行かない。あのとき、そう言ったくせに。
「君はどこに行きたいのさ。」
「あなたに聞いているの。どこよ?」
私は暫く考え、新婚旅行当時、洪水のため行けなかったドイツと答えた。
「わかった、憶えとく。今度はドイツ旅行を当てるね。」
満足そうに笑った妻の顔を忘れられない。
この旅行が、私たち夫婦の最後の旅行になったのだから。
聞かせたい話があるんだ。 宮内露風 @shunsei51
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