第24話 炎の舞

 おそらく私は、夏が来るたび、あの光景を思い出し続けるだろう。あの日、目にしっかりと焼き付けた妻の姿を。


 東京に夏がやってきた。私は仕事に追われながら、治療のため東京に腰を落ち着け、借金を返すためのある計画を実行に移していた。私にとっては屈辱的なことだが、背に腹は代えられない。元いた職場、国家公務員に復帰するのだ。復帰できれば、現役当時より階級は下がるものの給料は今より上がり、住宅補償なども受けられボーナスも出る。復帰するためには、筆記試験と二回の面接をパスしなければならないが、私には自信があった。順調に筆記試験をパスし、喜ぶ私の顔を妻が何とも言えない複雑な顔で見ているのに気が付いた。

 どうかしたのと聞くと、結局職場に戻るんだったら、私があなたの人生をかき乱してしまったみたい。申し訳ないと言った。

 そんなことはない。人生何が起こるのか誰も予測できないし、起きた事態に柔軟に対応していかなければならない。別に私に悔いはないと言った。嘘偽りない本心だった。妻との生活をできるだけ長く続けていくことだけが、当時の私の唯一の望みだったのだ。

 それを聞いて妻は泣いた。プライドの高いあなたが、今の職場でずいぶん年下の上司に、我慢して仕えているのは分かっている。これは私が招いたことだ。本当に申し訳ないと。

 私は平気だ。これも嘘偽りない。確かにプライドは高く、独身の頃はそれが仇になって苦労することはあったが、今は妻を守るためなら何でも我慢できた。それが夫婦、それが家族というものではないのか。


 夏になって、隅田川や北千住の花火大会も終わったころ、近所で櫓が組まれ盆踊りが行われることを知った。東京の盆踊りは、鹿児島より地域に密着し、昭和のにおいがする。下町荒川ではなおのことだった。盆踊りに参加する人々の光景は、幼いころ地元で見たあの光景そのままだ。最近の櫓も太鼓もない鹿児島の盆踊りにうんざりしていた私たちは目を見張った。

 その頃の妻は、次第に疲れやすくなっていた。外で30分も歩くと家でしばらく寝込むほどに。病気に加えて、東京の夏の暑さのせいだろうと思っていたが、実際は肝臓のがんが、ゆっくり確実に妻の体を蝕んでいたのだろう。盆踊りは夕方からなので、昼間よりは楽だろうが、せいぜい30分見物するだけだなと思っていた。東尾久の盆踊り会場は、歩いて10分の公園に設置されていた。ちなみに、当時問題になった”うちわ事件”の現場で、私たちはもらわなかったが、”うちわ”が配られているのは目撃した。

 盆踊りが始まった。スピーカーから流れる音楽に合わせた太鼓の曲打ちは、見事なものだった。浴衣を着た地元の人々が楽しそうに踊っている。横にいる妻の顔が生気を取り戻していくように思えた。楽しそうだなよかった。もしかしたら地元を思い出しているのかもしれない。妻の実家がある島は、もうじき”八月踊り”と呼ばれる盆踊りが盛んにおこなわれる。一度地元に返しても良いかもしれないな、私がそんなことを思っていたとき、妻が意外なことを申し出た。

「ねえ、踊ってきて良い。」

 ああいいよと言ったが、正直、妻の体力が心配だった。様子を見て、無理そうだったらブレーキをかけるのが私の役目だと思った。

 妻が躍るのを見るのは初めてだった。日舞の師匠で、弟子もいたこともあり、若いころ名人と呼ばれていたそうだが、妻は私の前では決して踊ろうとはしなかった。もちろん、私が求めることもなかったが。

 ひいき目なく言っても、妻の踊り、いや舞は見事だった。前にいる浴衣を着た踊り連のレベルをはるかに凌駕していた。時には、ひらひらと美しく舞う蝶のように、時に荒々しく打ち寄せる波のように、大袈裟でなく、まるで天女が舞っているようだった。何より、妻の顔。ここのところ見たことがないほどに楽しそうだ。20分ほどで踊りが一段落した。もう十分だろう。私は手をたたきながら妻に寄って行った。そんな私に、妻は信じられないことを言った。

「もう一回良い?」

 妻の顔を見ているとダメ出しはできなかった。妻はもう一回、もう一回と、結局2時間近く踊っていた。一瞬、しまった、カメラを持ってくるんだったと思ったが、妻の姿を見て思い直した。この姿を目に焼き付けておこうと思った。


 満月の下、TシャツGパンで美しく艶やかに舞う妻。

 私はゆらゆらと揺れる命の炎を見た。

 最後まで燃やし尽くそうと懸命に燃える炎を。

 生涯忘れることはないだろう。

 あの夜、私は確かに、この心に焼き付けたのだ。

 

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