第19話 マイスィートホーム
東京から鹿児島に帰ってきた私は、妻と過ごしたマンションから500mのところに小さな部屋を借りた。妻の病状を秘密にしたことで、妻の実家の憎しみを一身に受けることになった私は、コミュニケーション自体を拒否され、義母名義の部屋に帰ることが出来なかったのだ。夫婦の荷物はそのままになっていたのだが、転居して1週間後、私の実家あてに着払いで私の荷物だけが届いた。
しかたない。死にかかわる再発を実の親に内緒にしたのだから。1年前、どんなことがあっても甘んじて受けようと覚悟したのだ。妻の意思に沿うと決めたのだから、何より私が自分で決めたことだから。
それから1年が経った。前のマンションは、今も犬の散歩コースである。慣れた場所だから喜ぶだろうと思っていたが、最初は不思議と宝(ぽう)が行くのを嫌がった。私は時折マンションを見上げ、あの部屋はどうなっているだろうと考えることもあった。カーテンが閉め切られ、中の様子を窺うことはできないが、不思議とまだ中に妻がいるような気がしていた。誰もいない部屋に一人、膝を抱えて座っているような気がしてならないのだ。
ある日、1年たって生活も安定し、部屋が手狭になって来たので、私は何となく不動産情報のHPを見ていた。慣れた環境が良いので与次郎ヶ浜周辺だ。すると、私の目に見慣れた住所が飛び込んできた。湾岸マンションの4階、私たちの過ごした部屋が貸し出されている。月の家賃は15万、東京より高く、とても借りられる値段ではない。紹介ページに動画も付いていた。カメラは玄関から入って、廊下を通り各部屋を案内する。私たちが最後に一緒に寝たベッドも、妻がコツコツ買い揃えたロイヤルコペンハーゲンの皿も、玄関のスヌーピーの原画も、思い出が全て消し去られたガランドウの部屋がそこにあった。
カメラはベランダの方へ近づく。カーテンだけはあの頃のまま、そしてテレビ台の跡の畳が青いのが、数少ない私たちの生活の痕跡だった。涙が流れた。風呂も洗面所もトイレですら、何もなくなった部屋でも私には思い出が溢れた。
私は何回か心霊体験をし、実際に見たこともある。しかし、切望してやまない妻の姿だけは見たことが無い。それでも、妻はきっとあの部屋にいるという確信のようなものがあった。
ある日、いつものようにマンションの前を散歩していると奇妙な感覚に襲われた。見えるわけではない感じるのだ。ベランダに妻がいてこちらを見ている。生前お気に入りだったクリーム色のハンチングを被っていることすら感じられる。
あんな部屋の動画なんか見たから、おかしな感覚に陥っているんだろうと思った。ベランダを凝視するが何も見えない。しかし、私には妻がいる場所が特定できた。あそこに立っているという感覚が、センサーのようにビンビン反応している。 そのときだった。宝が猛然とマンションの入り口に向かって駆け出した。引っ張っても引っ張っても、何度もマンションに入ろうとする。今までそんなことはなく、どちらかというと嫌な場所のように足早に通り過ぎようとしていた宝が。
やはり、妻はあの部屋にいるのだと思った。
何年かかるか分からない、実現できるかもわからないが、いつかあの部屋を取り戻したいと思った。それが、あの日空港で別れたままの、妻を迎えに行くことのような気がした。
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