第6話

 自分の足元に横たわる八窪真理恵の死体の写真を撮り終えた宵川斗紀夫は、鼻歌を歌いながら自身のポケットに携帯をしまった。

 そして、自分を見て呆れたように言った。

「……何、ドン引きしてるんですか? あなたが今夜、八窪さんやその他の人達に行ったことの方がよっぽどドン引きされるようなことですよ。いや、ドン引きどころか、こんな身勝手で残酷な『殺戮者』なんて世間が許すはずがないですよ。歩くたびに石を投げられ、唾を吐きかけられたっておかしくないくらいです」

 宵川斗紀夫はフフッと笑った。形のいい理知的な唇から、まるで爬虫類のような赤い舌が見えた。

――ナゼ、コノヒトハ、ワタシノコノスガタヲミテモ、タイシテオドロイテイナインダロウ? フツウノニンゲンナラ、ソウ、ワタシガコノヨルテニカケタヒトタチノヨウニ、ワタシノコノミニククヘンボウシタスガタヲミタラ、マッサキニニゲルハズダ……

 八窪真理恵やその他の犠牲者の乾き始めた血が、こびり付いている自分の手先がすうっと冷たくなっていき始めた。

 ほんの半日前までは、自分の憧れの存在であった宵川斗紀夫。一生会う機会などないと思っていた大好きな作家であった彼。

――マサカ、コノオトコモ、アノユメデ……

 今は目の前の宵川斗紀夫に、底知れぬ恐怖しか感じなかった。

 宵川斗紀夫はそんな自分の心の内を見破ったかのように、自分に笑顔を見せた。並んだ真っ白な歯が満月に照らされ、不気味な光を放った。

「あなたを警察に売ったりする気はありませんよ。これからは作家とファンという関係ではなく、互いが互いの協力者というスタンスでいきましょう」

 言葉も出せずに立ちすくむ自分に、宵川斗紀夫は顎をしゃくった。サイレンの音が再び聞こえてきた。

「……あのペンションにいた全員を殺害したわけじゃないないんですよね。もしかしたら、逃げきれた人が通報したのかもしれませんね。そろそろ引き上げましょう」

 思わず首を横に振っていた。その自分に宵川斗紀夫は首を傾げた。

「まだ、殺戮を続けたいと?」

 この言葉にも首を振っていた。

――サツリクヲツヅケタイワケジャナイ、タダ、ハヤクハッケンサレルヨウニ……

 足元のまだ温かい八窪真理恵の死体をそっと抱え上げた。本来なら、自分とそう変わらないであろう体重の成人女性を軽々と抱え上げていた。

 八窪真理恵のその瞳は閉じられていた。眠っているようなその死に顔。永遠の眠りについた八窪真理恵。まだ水気を含んでいる涙がその白い頬の上にあった。そして、下腹部の傷口からはまだ血が滴り落ち、茶色い地面に浸み込んでいった。

 後ろに宵川斗紀夫の視線を感じながら、八窪真理恵の死体を道路まで移動させた。

「あの……少し離れたところにあるあの彼の死体はどうします?」

 宵川斗紀夫の声に弾かれるように駆け出した。自分が木の枝を首に突き刺して殺した男のところへと。

 ここよりわずか数十メートルのところに、仰向けのまま目を薄く開いて転がっていた男の死体は、八窪真理恵に比べると骨が固くて重かった。その男も八窪真理恵の横に並べようとした。

 だが、再び宵川斗紀夫の声。

「こっちに向かってくる車なんですけど、どうやらパトカーではないみたいですよ。パトライトも付いていないし。一般人の普通の乗用車だと……」

 男の死体を担いだまま、硬直している自分に宵川斗紀夫が言った。

「もう殺戮を続ける気がないなら、ここから先に来れないようにあの車を脅したらいかがですか?」

――オドス? ドウヤッテ?

 宵川斗紀夫は自分が担いでいる男の死体に目をやった。

「その彼も生前はすこぶる爽やかなイケメンだったんでしょうね。でも、もう今はただの死体ですよ。骨にもうじき腐り始めるタンパク質が肉付けされているだけです。悲鳴をあげたり、痛がったりすることもありませんよ。もう死んじゃっているんですし、物と同じですし……その彼の死体をあの車にぶつけたらどうですか? 人が殺されたと知って、これからその先の危険地帯に進んでくる一般人なんて滅多にいませんよ。まあ、その危険地帯に自分の子供がいることが分かっている親なら進んでくるかもしれませんけど」

 自分の視線のはるか先に見える車のヘッドライトは大きくなってきていた。耳に響くサイレンもますます大きくなってきていた。

 背中に冷たい汗がタラリと一筋流れていった。

「じゃ、僕は車、用意しときますんで」と、宵川斗紀夫は自分に背を向けた。彼が独り言のように呟いた「別に男の死体は、どうなろうがどうでもいいし」といった言葉も聞こえた。

 ヤルシカナイ! と男の死体を担ぎ上げて走った。

 自分がいるここへと向かってくる車。その車にこの男の死体をぶつけるために。 路肩の闇にまぎれ、息を潜めて忍んだ。

 車が向かってきた。ここに近づいてきた。その車のフロントガラスに目がけて、男の死体を投げつけた。男の死体は弧を描いて、車のフロントガラスにバンザイをするような格好でぶつかった。

 運転席の男の声の絶叫が、闇の中に響いた。 

 そのハンドルを握り、口を限界まで開け叫んでいる男は、その横顔だけでも個性的な顔立ちをしていることが分かった。そして、男は「し、白鳥ぃぃ!」という泣き出しそうな声を発した。後部座席の恰幅のいい中年男も叫び、飛びあがらんばかりに驚いていた。

――オワッタ、ヨイカワセンセイ……

 宵川斗紀夫が待っているであろう闇の中へと駆けた。あの車の中の2人の男は、フロントガラスにぶつけられた男の死体に震えあがり、こっちに来ないはずと高を括ていた。

 けれでも、後部座席の中年男が車から飛び出してきた。贅肉が過分についているであろうその体を揺らしながら、必死にこっちへと駆けてきていた。そのうえ、運転席の男もその中年男を追いかけるように、車から飛び出した。

 必死で駆ける中年男の先には、アスファルトの地面に横たわらせた八窪真理恵の死体があった。

「真理恵ぇぇ!!」

 夜の闇に響いた悲痛なその男の声。

――マサカ、アノチュウネンオトコハ、ヤクボマリエノ……

「真理恵、お父さんだぞ! もう心配するな! すぐに病院に……」

――ヤクボマリエノチチオヤダ!

 まるでどこか遠いところで、その声を聞いているようであった。

 八窪真理恵の父親は、八窪真理恵の死体の肩に手をかけた。もうすでに死んでいる娘の肩に。娘は父親に返事をすることなく、冷えたアスファルトに転がった。父親は、娘の死体を目にした時の体勢のまま彫刻にでもされたように動かなかった。が、すぐにぐらついて地面へと突っ伏すように倒れ伏した。運転席にいた男が「社長おお!」と、またしても情けない声をあげながら、彼の元へと勇敢にも駆け寄っていた。

 男は視線をあげた。彼は自分を見た。彼は夜の闇の中にいる自分に気づいたのだ。

――ヤッパリアノオトコタチモコロスシカナイカ……

 迷った。既に口の端からほとばしっていた唾液で湿りきっていた自分の唇を舐めていた。自分のふつふつと湧き上がり始めた殺意に気づいたのか、視線の先にいた男はズデンと尻餅をついた。

 だが、後方よりクラクションが鳴らされた。もう引き上げろ、と宵川斗紀夫の合図だった。身を翻し、彼がライトを点滅させている車へと駆けた。聞こえてくるパトカーの音はこの身を震わせるほど大きくなってきていた。

 

 ここから逃げるために、宵川斗紀夫の車へと滑り込んだ時だった。

 頭が痛み始めた。頭蓋骨から脳みその中心へと突き刺すように向かってくる痛み。今度は、この青くザラザラとした皮膚が熱を持って、まるで燃えるように熱くなってきた。人ならざるものに変身した時とは、全く逆ともいえる変異が体内で起こり始めた。そして、頭のてっぺんからつま先が、体の中心部に向かって折りたたまれるような妙な感覚が――


 そして――


 しばらくたった後、自分の両目に映ったのは、朝夕晩といつも自分が見ていた自分自身の肌の色であった。乳房も垂れ下がってはいなかった。

 本当の自分の姿に、生まれたままの自分の姿に戻っていた。

 木の枝で殺した男に車に轢かれたためか、全身に鈍い打撲の痛みは残っていた。だが、幸いにも骨は折れていないようだった。そして自分の手には血が、八窪真理恵たちの乾いた血がこびりついたままであった。


 運転席の宵川斗紀夫が、バックミラーごしにチラリと自分を見た。

「良かった。戻りましたね。ちょうどこの山は県境にありますし、このまま隣の県まで車を走らせますね」

 優しい声であった。斗紀夫はハンドルを右手で握り、助手席に置いていた斗紀夫自身のものだと思われるサマージャケットとジャージのズボンを後部座席の自分へと軽く投げた。

「裸のままじゃ町に出た時に怪しまれるんで着てください。男物ですけど。でも、本当にヒヤヒヤしましたよ。あのまま、カフェで変身でもされていたら、大騒ぎになってましたし……一応、変身の時に破けた服とバッグ等の身元の分かるものは回収しておきましたからね。トランクに入れているんで、あとで渡しますよ」

「……あの、宵川先生……」

「なんですか?」

「先生は一体……」

「一体、何かって? 善良な一市民であり、物書きですよ。ただ、あなたと同じように人の運命に多大な影響を与えることのできる特別な選ばれた存在ですけど」

 自分が服を着ている間、前を向いたままの宵川斗紀夫はずっと笑みを浮かべていることが分かった。そして、宵川斗紀夫はさらに続けた。

「別に僕は、あなたやまた別の知り合いのように、気色の悪い化け物や水死体のゾンビみたいに変身する気はありませんよ。その姿を見ているだけで、人間の業や妄執がこっちにまで絡みついてくるようで、吐き気をもよおしますし。それに直接、この手を血に染めることなんてことは性に合わない。ただ物語の、つまりは事件の作り手になりたいだけなんです。例えばその物語が舞台で上演されるとしたら、それを一番近いところから見ている監督であり、脚本家であり、観客となって。もちろん、その舞台の主演女優は僕の好みに合致していることが条件ですけど」

「……狂ってる」

 自分の言葉に宵川斗紀夫は、乾いた笑いをもらした。

「あのねえ、あなたにだけは言われたくありませんよ。あなたみたいなただの人殺しに。自分の境遇を嘆き、被害者に勝手に妬みや羨望を募らせただけで、怨恨や愛憎といった明確な理由があったわけでもないのに。八窪真理恵さんを……いや、ひょっとして、あなたが今夜襲ったのは八窪真理恵さんではなかったかもしれない。いろんな偶然が積み重なり、八窪真理恵さんがたまたま生贄のように選ばれただけのような気がします。そして今夜は八窪真理恵さんとたまたま同じ屋根の下にいたに過ぎない人たちも巻き込んで……あなたはただの残酷な通り魔で化け物の『殺戮者』ですよ」

 何も言葉が返せなかった。ただ目から涙が溢れ、止まらなかった。後部座席で吠える様に嗚咽していた。

「参ったな……泣かれるなんて。泣きたいのは被害者の人たちのほうだと思いますけどね。もう泣くこともできないけど」

 宵川斗紀夫は溜息をついた。

「まあ、僕たちは同士ですよ。これから、仲良くやっていきましょう。もうすぐ、町に出ると思いますけど、それまでにその手についてる血をウェットティッシュで拭いてください。それから、僕の財布から3万円を渡しますから後は適当に家に帰ってください。お金は返さなくて結構ですから」


 車は止まった。だが、まだ暗闇は朝の夜明けを告げる時間ではないというように、重々しくその暗黒のカーテンを下ろしたままだった。ただ、残り火ともいえる光が、目に映る町の中でまたたいていた。

 車から下りた。そして、宵川斗紀夫が言った。

「俺……いや、僕もこのまま家に帰りますよ。地元に住んでいる悪ガキたちにお灸をすえなきゃいけない用事があるんで……」

 その言葉に表情をひきつらせたのが、目の前の宵川斗紀夫にも分かったらしかった。聞いてもいないのに、得意げに喋りはじめた。

「1人の女の子を複数でレイプするような奴らですよ。あの悪ガキ3人……いや、1人はまだ更生の余地があるから、見逃してやるとするか。彼には友達はよく選べと忠告してあげたいぐらいだし。とにかく残る2人には制裁を加えなければ……ね」

 自分に同意を求めているかのように、宵川斗紀夫はニンマリと笑った。何も答えずにいると、宵川斗紀夫はダッシュボードから名刺を取り出した。

「これ連絡先です。あなたとはこれから、長い付き合いになるでしょうし。あ、それと、今はしつこい元彼女と揉めているんで……電話は控えて、なるべくメールで連絡ください。本名ではなく性別の分からないような送り主名で……そうだ、『舌無しコウモリ』って名前はどうでしょう? 吸血鬼の手下のごとく、生き血をすすったコウモリ。そして『舌無し』というのは、何も喋らないという意味です。あなたは俺以外の誰にも今夜のことは話すことはできないと思いますし。『口無しコウモリ』でもいいですけど、『舌無しコウモリ』の方が口に出したときに、不気味な余韻がありますからね」

 宵川斗紀夫は自分に向かって、ニッコリと笑顔を見せた。その朗らかな笑顔と今、その口から吐き出されている話の内容は全く合致していなかった。


 宵川斗紀夫の車は走り去っていった。

 自分はずっとその場にたたずんでいた。たたずむしかなかった。そう、ずっと――

 やがて、朝日が昇った。美しい夜明けの光がこの身を照らしていった。

 20×6年8月4日に『殺戮者』となったこの身を――


 両の瞳に映る夜明けの光は眩しく美しかった。神々しさすら感じさせた。

 自分のこの両手に殺めたあの人々の顔が蘇ってきた。この夜明けの美しい光をみることなく、自分がこの手で人生を断ち切ってしまった人々の――

――ワタシハイッタイナニヲシテイタンダロウ……

 長い悪夢から覚めたような夜明け。でも、これから始まるのは、もっと長く苦しい、この命ある限り覚めることのない更なる悪夢であったのだ。



 それから6年後の20▲2年8月4日。

 『舌無しコウモリ』は、夏の夜の闇の中にある八窪真理恵の最期の場所へと駆け続けていた。彼女の青くザラザラとした冷え切った肌が、夏の蒸し暑い風を切っていた。

――ごめんなさい……許してください……

 彼女の脳裏には、高校時代の制服に身を包んだ八窪真理恵の姿がこれ以上ないほど鮮やかに、記憶の中の彼女に命が吹き込まれたかのごとく蘇ってきた。何も罪もなかった八窪真理恵のその姿と、そして自分が彼女をあんな風にしてしまった最期の姿も。

 蘇ってきたのは、八窪真理恵だけではなかった。

――自分が殺した人達……そう、”私”がこの手で……


 私があの夜、その人生の時を止めてしまった10人。

 ペンションから逃げる1台目の車の助手席に乗っていた女性。私が八窪さんと間違えて襲撃したあの女性は、新田野唯という名の38才の女性であった。隣の運転席で、懸命に私を車から振り落そうとし、私がガラスを割った時、彼女の前にかばうように腕を出した男性は、彼女の夫で同じく38才の新田野道行だった。

 あの新田野夫妻は直接この手で殺めてはいない。でも、私が夫妻の視界を遮らなかったら、きっと崖から転落し、車ごと炎上するなんてことにはならなかったはずだ。新田野夫妻は、次の年に結婚20年目を迎えるはずであった。今も新田野夫妻の親族や友人たち、主に夫妻の母親たちを中心として駅前での情報提供を求めるビラ配りは今でも行われている。

 同じく新田野夫妻の車に乗っていた滝正志と鈴木梨緒。”あの時”は滝正志の顔が、高校時代に私を振ったSに似ている気がした。でも、後に新聞記事やインターネットで見る彼の顔はSには全く似ていなかった。学外でも有名なテニスサークルに所属し、人気者であったらしい彼。そして鈴木梨緒。彼女は容姿と年齢もマスコミの興味をひいたのか、八窪さんの次にニュースで多く取り上げられていた。学内ミスコンにも立候補しており、ウェディングドレスや浴衣を着ている可愛らしい彼女の映像もTVで流されていた。鈴木梨緒も滝正志も、就職の内定をもらっていた。2人の葬儀の映像もテレビで流され、多くの友人が2人の死に号泣して参列していた。これからの将来に夢や希望を膨らませていたに違いない、まだ22才の学生たちを私は殺した。

 そして私が見逃すことになった、ペンションから逃げる2台目の車には、私が両膝の裏をひっかき、舌を千切った笹山之浩が乗っていた。44才の独身で10年ほど前に2人暮らしだった母親を亡くし、天涯孤独であった彼。勤務態度は非常に真面目で、コツコツと地道な努力を積み上げていくタイプであったそうだ。また、地域の清掃等のボランティア活動にも積極的に精を出していたとの話もあった。彼は病院へと運ばれたが助からなかった。他の犠牲者と同じく、8月4日が彼の命日となった。

 私が首と胴体をこの手で切断して殺した多賀准一。51才の彼は高校卒業後、料理人としての修行を一心に積み重ね、あの「ぺんしょん えくぼ」の管理人兼コックを任されるまでとなっていた。家庭は順風満帆とはいっていなかったようだが、仕事ではすごぶる評価も高く、信頼も厚い頼もしい人物であったとのことであった。そして、その多賀准一の首を大切そうに抱えていた深田季実子をも自分は縊り殺した。彼女は50才で、夫はすでに亡くしているも、息子と娘、それぞれに子供が生まれていた。朗らかで明るく、恋愛ドラマが大好きで、孫の成長を楽しみにしていた彼女も私が殺した。

 私がペンションの割れた窓ガラスに胸を突き刺して殺した根室ルイ。彼女は62才であった。ずっと独身を通し、定年まで働き続けてきたキャリアウーマンだった彼女。年をとっても美しい彼女であったが、私が思っていたように、ずっと男に守られて生きてきた女ではなかった。子供は産まなかったが、彼女の葬儀には、彼女が育てたともいえる職場の後輩たちが多数出席し、その袖を涙に濡らした。  

 白鳥学。28才の独身であった彼は八窪さんの父親の経営する会社の社員であった。私が事件発生日に、町で会ったあの同級生の女に見せられた写真に映っていたのは、おそらく彼であったろう。彼の兄は県外に住んでいたようであるが、事件後に彼の両親ならびに妹が八窪さんの父親の会社を相手取って裁判を起こしていた。きっと彼の遺族も、その怒りや理不尽さを本当にぶつけたかったのは、大切な息子であり、兄を実際に殺めたこの私であったに違いない。

 そして、八窪真理恵。自分が『Y市連続殺人』を起こすきっかけとなった元・同級生。だが、彼女には何の罪もなければ責任もない。事件後、私は初めて彼女の生い立ちを知った。幼い頃に母親を病気で亡くしていた。そして、あの夜、最後まで彼女と一緒に逃げていたあのショートカットで小柄な女性は、父親の愛人が産んだ彼女とは腹違いの妹であった。私は彼女の表面だけしか見ていなかった。会社を経営しているような裕福な家に生まれ、なおかつ美人にも生まれ、大学にも進学でき、男にも――それも皆から羨ましがられるような男にばかり、愛されていたと思っていた彼女。私に襲われた時だって、腹違いの妹――八窪由真を自分の身を挺してでも守ろうとしていた彼女。その妹の八窪由真も自分の身を挺してでも、彼女を守ろうとしていた。彼女たちの父親は事件が原因で、脳出血を起こし、寝たきりの状態となってしまった。私は八窪家を崩壊させてしまったのだ。

 これらのことを私はネットや宵川斗紀夫より知った。 


 私が殺した10人と、”殺さなかった”ならびに”殺せなかった”4人。

 ”殺さなかった”のは、笹山之浩を乗せた車にいた2人。あの32才男性と22才女性の名前は、報道されず、名前を知ることはなかった。22才の女性は、滝正志と鈴木梨緒と同じ大学の学生であったらしいが。あの2人も6年たった今でも、きっと苦しんでいるはずだ。あの夜、私は彼らに生涯癒えぬ傷を刻みつけてしまった。

 ”殺せなかった”のも、2人。

 1人目は八窪真理恵の異母妹・八窪由真。当時、18才。私は彼女の目の前で、彼女の姉を殺した。そして、彼女をも手にかけようとした。首を切断したり、縊り殺すよりも崖から落として、その顔がグチャグチャになればいいと思っていた。私が最後に殺そうとした人物である彼女。

 2人目は八窪真理恵の元夫・吹石隆平。当時、28才。私が1番最初に襲い、殺そうとした人物。私は彼の左腕を切断し、崖へと蹴飛ばした。

 事件から6年後のこの運命の夜、八窪由真とともに私に向かってきたあのホームレスのような風貌の男――あれはおそらくあの吹石隆平であるに違いない。今、あの男が誰であるのかを、はっきりと確信できた。


 1番最初と1番最後に、この手にかけようとした2人は助かった。本当に死ななくて良かった。生きていてよかった。これ以上、私の罪が積み重ならくてよかったと。

 以前、宵川斗紀夫に自分のこの胸のうちを話した時「10人も殺しておいて何言ってるんですか。あなたの場合、10人が12人になったところで、その罪の重さはそう変わりませんよ」と嘲笑うように言われた。

 

 事件発生後、マスコミや週刊誌、オカルト好きの一般人の来訪により、Y市はかつてないほど騒がしくなった。地元の警察も犯人検挙に向けて、捜査に尽力しているようであった。町を歩いている時、捜査官が聞き込みを続けているのを何度も見た。だが、警察は私の元には聞き込みに来ることはなかった。

 私と被害者の1人である八窪真理恵との接点は、高校の元同級生であるというだけであった。そして、在学時もそう親しいというわけではなかった。そのため、私は捜査線上には浮かばなかったのだろう。そもそも、生き残った4人ならびに八窪真理恵の父親とともに車で駆け付けた男が見たのは、人間の姿をしている私ではなく、醜い嫉妬や羨望をさらけ出し化け物に変身した『殺戮者』である私であったのだから。

 これ以上、Y市に住むことができないと、事件から数か月後に逃げるように県外へと移った。だが、自分の罪からは逃れることができなかった。目を覚ます時、いつも自分のこの手が、人間のものであるこの手が血で真っ赤に染まっている気がした。

――あの時の私は身も心も化け物である『殺戮者』になっていた。本当の私がしたことじゃない!

 何度もそう言い聞かせようとした。でも、あの夜『Y市連続殺人事件』を起こしたのは――10人もの人をこの手にかけたのは、紛れもないこの”私”だ。

 自殺を試みたことは一度や二度ではない。再びあの『殺戮者』に変身して、町を歩き、警察や自衛隊に射殺される図だって、想像していた。でも、それはできなかった。他人の命は奪ったのに、自分の命は惜しかった。

 宵川斗紀夫につけられた『舌無しコウモリ』という珍妙なハンドルネームでネット上の事件に関係する様々な掲示板に書き込みも続けていた。あの夜、宵川斗紀夫には二度と会うまい、連絡をとるまいと思っていたが、私のこの罪を話すことができるのは彼しかいなかったのだ。彼の元恋人とその姉が起こした女子高生の誘拐事件に彼が巻き込まれた時も、彼の命が助かったことに安堵してしまった。

 宵川斗紀夫に、この苦しいという一言ではとても表現できないこの状況を話した。私の話を聞いた彼はこう言った。

「自分で死ぬことができないのなら、被害者の遺族の手で処刑されるというのはどうでしょうか? ちょうど、Y市のレストランで、八窪真理恵さんの妹の由真さんが働いているんですよ。彼女は被害者でもあるし、遺族でもある。彼女こそあなたを処刑するにふさわしい人物でしょう」

 自分や遺族を思っての発言ではなく、彼は自分の楽しみ(歪んだ性癖)をさらに盛り上げるための新たな試みの提案であるとは分かった。あの八窪由真が彼の歪んだ性癖に対する生贄として、彼の頭の中で汚され続けていることも想像できた。

 けれども、私は疲れ果てていた。こう生きるしかなかった人生に終止符を打ちたかった。

 私はY市へと戻って来た。ここへと戻って来た。

 そして、ついに今日というこの日がきた。

 私の最期の日が――

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