第2話
1人で住むには広すぎる家に、由真は現在、たった1人で暮らしている。
自室のベッドに腰をかけた由真が部屋の隅に目をやると埃がたまっていた。それを見て由真は、階段にも埃がたまっていたことを思い出す。明日は、従弟の直久がこの家に泊まりにくることになっている。でも、決してとれることのない疲労感が積み重なっている自身の肉体が今日までにできたのは、客間の掃除をすることだけであった。
由真は重い腰を上げて立ち上がり、ティッシュで部屋の隅にある埃をつまみ、ゴミ箱へと捨てる。ゴミ箱の中にあるゴミも、今にも溢れそうになっていた。そのゴミを上から無理矢理底へと押し込んだ。
大きく息を吐き、鏡の前の椅子に腰かけた由真はブラシを手に取り、髪を梳かした。髪を梳かすというより、頭皮をこすりあげるといった勢いで、由真はブラシを持った右手を動かした。ブラシに目をやると、抜けた髪の毛がたくさん絡んでいた。その絡んでいる自分自身のものである髪の毛が、まるで自分に絡みついてくる様々なものに思えた由真は、乱暴にそれをむしり取って捨てた。
由真は鏡が映し出しているものをじっくりと見た。
換気も碌にせず淀んだ空気が満ちている部屋の中、青い顔でゾンビのような生気のない表情をした自分。
家族を悲惨な事件で亡くした悲しみに加え、今の由真は「生きることから遠ざかった無気力」という魔物に身も心も支配されていた。現在も、毎日入浴は行い、仕事中は接客業のマナーとして化粧はしている。以前は、そんなに几帳面というわけでもなかったが、自分の部屋はいつ誰が来てもいいくらいには整えることが習慣づいていた。外出着だけでなく部屋着にも気を使っており、ピアス集めが趣味であった。数々のピアスたちも部屋にしまいこまれた箱の中で、役割を果たすことなくあるままだ。今はこの部屋だけでなく、家全体が薄汚れて重苦しく感じる。蝿やゴキブリの巣窟にはなってはいないが、階段だけでなく家の見えない所に放置されたままの埃があるだろう。それに、本を読んだり、映画を観たりすることも全くしなくなった。新しい服や靴を買うために、ウィンドーショッピングをしたいという欲も全くなくなっていた。ウィンドーショッピングをしていたところで、心無い人たちの噂の種になるのは目に見えていたが。そのうえ、付き合っていた男性とも、事件後に自然消滅のような形で別れてしまっていた。
ただ、呼吸をして、食事をし、排泄している。その繰り返しの中で、ただ時間だけが通り過ぎていっていた。それが今、由真が紡いでいる人生であった。
――なぜ、私は生きているんだろう?
由真は鏡の中の自分に問いかけるも、無気力な顔をしたその自分は黙ってこちらを見ているだけであった。
――どうして、私が助かってしまったんだろう? 姉さんでなく、私が……
由真は顔を両手で覆った。
閉じた瞳の奥で、あの優しかった姉・真理恵の笑顔がちらついた。だが、次の瞬間、真理恵の笑顔はあの無惨な最期の顔へと変化していった。
由真の喉がヒッと鳴った。掌に当たる睫が震え出し、頬に涙がつたっていった。
ベッドの中でうとうとし始めていた由真は、玄関のチャイムの音を聞いた気がした。由真は両頬に残っていた涙を手で拭い、上体を起こした。
うっすらと埃をかぶっている目覚まし時計は、2時前を指している。閉め切られているカーテンの向こうにも、夏の闇が広がっているのだろう。
――空耳?
再び枕に頭を落とした由真の耳に、今度ははっきりとチャイムの音が聞こえた。
――イタズラ? まさか、変質者?
携帯電話と父の野球バットを手に恐る恐る由真は階段を下りていく。その途中でまるで急かされるかのように、もう一度チャイムが鳴り、由真はあうやく階段を踏み外しそうになった。
決して足音を立てぬように、由真は玄関の覗き穴に顔を近づけていく――
その時だった。
「由真」
外から聞こえたその声に、由真の手に握られていたバットが玄関の床に音を立てて落ち、カランと転がっていった。その声は由真がこの世で一番会いたかった人物の声であった。
「……姉さん? 姉さんなの?!」
由真は、震える手で即座に玄関のチェーンを外し、ドアを開けた。外からの強い風が顔に吹き付けられ、目をつぶってしまった。
由真は恐る恐る目をあける。
シンと静まり返った夏の闇の下、月明かりに照らされ、まるで匂い立つ一本の白い花のように彼女の目の前に立っていたのは――
「姉さん!!」
真理恵の長い髪が月明かりをうけて、艶やかに輝いていた。由真は真理恵に駆け寄り、彼女に強くしがみついた。腕の中にいる真理恵の体は冷え切っていた。
真理恵のあの最期の日と同じ服は、血で濡れてはいなかった。本来なら32才になっているはずの真理恵は、いきなり現れた時の亀裂に封じ込められてしまった証明であるかのように、26才の時と同じ姿のまま、由真の腕の中に確かにいるのだ。
「姉さん……」
由真は今まで冷たい土の中で眠っていたような真理恵の体を温めるために強く彼女を抱きしめた。
由真は自分が今、夢の世界にいるということは分かっていた。
――姉さんは死んだ。「ここ」は夢の中だ。私は夢を見ているんだ。でも、夢だっていいんだ。姉さんは「ここ」で生きている。生きてるんだ。
現実が夢の世界となり、夢の世界が現実となることを、由真はこの時、自分の命を引き換えにしてもいいほど望んだ。夢の中であるはずなのに、由真は目から熱い涙が溢れ出したのを感じていた。
「由真」
真理恵がもう一度、由真の名を呼んだ。由真は涙に濡れた顔を上げるも、真理恵の顔を見てギクリとした。自分を見ている真理恵の瞳には、光がまったく宿っていなかったのだ。漆黒。それは生者ではなく、死者の瞳であった。
――姉さんの姿をしているけど、これは姉さんじゃない!
急速に駆け巡った冷たい恐怖に、由真の夢は満たされていった。
後ずさった由真の右腕を真理恵がガッと掴んだ。真理恵のその手の冷たさ。彼女の細身の体からはとても想像もつかないような強い力。鳥肌だった自分の腕を掴むこの感触を、由真は覚えていた。忘れようにも忘れられなかった。
――あいつだ――!
直後、真理恵の首がグリンと180度回転した。
「ヒッ!」
回転したその先にあったのは、真理恵の柔らかな髪ではなかった。
青くザラザラとした皮膚。黄色く爛々と輝く瞳。口は耳元に届くかというほどの亀裂であり、その裂け目からは黄色く長過ぎる乱杭歯が覗いている。尖りきった顎に臭気のこもる口から落ちる涎がつたっていた。醜く異様なその顔を縁どっているのは、バサバサとしたまるで干し草のような髪であった。
真理恵の肉体がねじれ、縦に伸びていく。手足はまるで枯れ木のように細く長くなり、白くなめらかな肌も青くざらついていき――
あの化け物、6年前の「殺戮者」が再び由真にその姿を見せたのだ。
そして――
「戻ってきたのよ」
醜悪な「殺戮者」の生臭い口から発せられたにも関わらず、その声は真理恵のものであった。
由真はハッと目を開けた。
嫌な汗にまみれた全身は、熱を持っているようにだるく疲れ切っていた。胸を押さえて、寝返りを打つ。枕元の目覚まし時計は、先ほどと同じ2時前を指していた。
その時だった。
ガタンという、この家のどこかで発せられた、何かが、いや誰かがいるような音。
由真はそろりとベッドから這い出た。先ほどの夢が現実となりつつあるのかもしれない、と由真は、携帯電話と野球バットを”再び”手にとり、部屋のドアを開けた。
全身の毛穴が開き、その腹のからは吐き気が込み上げていた。由真は唇をキッと結び直し、一歩を踏み出す。
家の中は、”2人分の”食料を収めている冷蔵庫が立てる音が聞こえるほど静まり返っていた。
一通り家の中を確認した由真であったが、先ほどの物音の原因となるような”誰か”などはいなかった。自分の取り越し苦労であったと、由真は顔を洗うために再び洗面所へと戻った。
洗面所の明かりの下で見る鏡の中の掛け時計は、2時前を指していた。さっきと全く同じ時刻を。
「!」
――おかしい! ここはまさか……
由真の眼前にある鏡が、まるで波打つ水面のようにグニャグニャと歪み出す。激しくなったその歪みより、2本の腕が――青くざらつき、枯れ木のように細く、冷たいあの腕――「殺戮者」の腕が由真を捉えた。
悲鳴をあげる間もなく、由真はその波打つ鏡の中に引きずり込まれた。
――早く目覚めろ! ここも夢の中なのよ!
瞬間、夢の場面はバッと切り替わった。
由真は仰向けで川の中を流れされていた。川の中にいるはずなのに、息苦しさも感じず、何より不思議なことに、由真は川岸の光景をはっきりと鮮明に見ることができた。
金縛りにあい体を動かせなくなっている由真は、なかなか目覚めぬこの悪夢から一刻も早く目覚めることだけをただ祈るだけであった。
が、由真は気づいた。
川岸で佇み、流されている自分を覗き込んでいる人々がいるということに。
顔は見えない。だが、由真の目は川岸で佇む人々の脚だけはしっかりとととらえることができた。
スカートを履いた脚に、ジーンズを履いた脚……
――あれは! あの人たちは……!
9人分の脚の確認した由真は、それらの持ち主たちがそれぞれ誰であるのかが分かった。そして、自分が最後に見ると予想していた脚もまた、川岸に佇んでいた。
――あれは……姉さん……!!
由真の意識はさらに深く、何も見えない暗い夢の底へと沈んでいった。
運転席の由真は、目をこすった。助手席にいる八窪直久がそんな由真を心配そうに見ている。
夢の中でまた夢を見るという、あの状況は心身ともに彼女に疲弊させるものであった。夢の中とはいえ、最愛の姉に会うことができた。だが、憎いあの化け物――「殺戮者」も現れたのだ。そして、あの川岸に佇んでいたあの人々は、6年前の事件の犠牲者たちだと。悲しく、そしてこれから不吉なことが起こる前触れでような夢。
嫌な脂汗にまみれて目を覚ました由真の、いつもの起床時間はとっくに過ぎていた。汗を熱いシャワーで流し、冷たい牛乳だけを胃に流し込み、眉毛だけを書き、車に飛び乗った由真は、直久が待っている駅に駅へと向かった。
どうやら直久を長時間待たせることだけは避けられたようだった。小柄な体に不釣り合いなほどの大きなボストンバックを抱えていた直久は、由真の姿を認めると満面の笑みで手を振ってくれた。
「直久くん、お父さんたちはどこ行っているの?」
由真が直久に問う。
「2人ともグアムですよ。子供は行っちゃダメだって。まあ、部活もあるし、仕方ないですけど」
直久が大きな瞳をクリクリと動かして答えた。
色白で女の子かと見紛うほど愛らしい顔立ちの直久は、中学校でバスケットボール部に所属しているとのことだった。現在、彼は中学校2年生であるが、1年生の背の高い後輩がレギュラーとしての座を獲得し始めていることに、複雑な思いを抱いてしまっているとポツリと由真に漏らした。
「どんなに努力したって越えられないこともあるって、ちょっと落ち込み気味です……」
力なくハハッと笑う直久に、由真は黙って頷いた。
彼女たちの車のフロントガラスに、焦がすような夏の陽が照りつけられていった。
由真の自宅についた直久は、真理恵の霊前に手を合わせた。正座し、黙って目を閉じている直久の姿を見て、由真は思う。
――直久くんは、本当にいい子だ。あの人たちとは、違って……
直久は、由真の父・卓蔵の一番下の弟の子供である。卓蔵は四人兄妹であり、卓蔵が再起不能になった後、素早く卓蔵のポジションについた弟とはまた別の弟の一人息子であった。
真理恵の三回忌の時、集まった親族たちの話を由真は一言一句覚えていた。
お茶の用意をするため、部屋の外にいた由真に聞こえてきたのは――
「まさか、愛人の娘の方が助かってしまうなんてね」
「鈴恵さん(真理恵の産みの母)の産んだ真理恵ちゃんの方が助かっていたら、もしかしたらお義兄様もあんなことには……」
「どのみち、卓蔵兄貴の再起はもう無理だろ」
「あとはあの長引いている裁判に決着がつけば……」
親族たちが自分の前で隠していた本音を聞いてしまった由真は、その場で叫び出しそうになった。
あの事件の前から、愛人(それもかなり身持ちが悪かった)の娘が産んだ婚外子である由真に対し、親族たちは表面は上品さを保ち、露骨には態度に現わさないものの境界線を引いたような態度を取っていた。彼らが真理恵に向ける目と自分に向けている目が明らかに異なっていることは、それこそ由真がこの家に引き取られた頃から分かっていた。
真理恵の霊前に手を合わせてくれた直久に、由真はお礼を言い、彼を客間へと案内する。
直久の両親は今頃きっと、グアムで豪遊しているところだろう。
彼の中学校の夏休みの課題のためだということだが、困った時だけ自分に頼み込んでくるあの人たちの考えていることはよく分からない、と由真は今さらながら思った。
つい頼みも聞き入れてしまった自分も自分であるとも思ったが、血のつながった従姉とはいえ、14才の息子を24才の女が1人でいる家に連泊させるとは……由真と直久の性別が逆であったら大問題なのかもしれないが、きっと彼の両親たちはそんなに深く物事を考えないのだろう。
由真は腕時計を確認する。
レストランの開店は11時であるが、その1時間前より掃除や食材の準備をしておかなければならない。直久は今日からの3日間昼間のみ、レストランの炊事場で、皿洗いや掃除を手伝ってくれることになっている。帰りは直久1人でバスで帰ることとなるが、行きは彼と一緒に車で出勤するつもりだった。
――斗紀夫のノートパソコンがつけっぱなしになっている!
宵川斗紀夫の妻・宵川麻琴は、斗紀夫の気配を近くに感じないことを確認し、そろりそろりとノートパソコンへと近づいた。
画面は、斗紀夫の新作の原稿などではなく開かれたままのメールソフトだった。
斗紀夫が近くにいないことを確認するために、麻琴はもう一度振り返り、音を立てないようにパソコンのマウスにそっと手を触れた。
礼儀正しく、やや硬質な文章がそこには並んでいた。斗紀夫にメールを送ったこの主は、現在、自身の父とともにハワイで仕事をし、暮らしているらしい。そして「日本を離れても母や弟たちはずっと僕たちのそばにいてくれているんだということを、ずっと心に刻んで生きています」と。
斗紀夫とこのメールの主の関係はよく分からなかったが、メール本文の末尾には「長倉貴俊」と名が記載されていた。
麻琴はメールに写真が添付されていることに気づく。
マウスのポインタを合わせ、カチリとクリックする。夕暮れの海を背景とした写真がパッと展開された。そこに映っていたのは、思わず真琴が「きゃあ」と語尾にハートマークを5つぐらいつけた嬌声をあげてしまうほどの美青年と、その美青年によく似た顔立ちの中年男性だった。おそらく2人は親子であるだろう。青年の年頃は20代半ばぐらいに見える。中年男性の髪には白髪が混じり、ややグレーの髪色となっている。2人とも肩を寄せ合って笑顔を見せているも、あまり写真を撮り慣れていないのか、彼らの表情は硬かった。
「麻琴!!」
突如、背後から浴びせられた斗紀夫の声に、麻琴は飛びあがった。
恐る恐る自分に振り向いた妻の麻琴を見た斗紀夫は思う。
シンプルなTシャツなのに、その胸元は今にもはちきれんばかりに膨らみ、腰はキュッとくびれ、その下に続くジーンズの臀部は形よく曲線を描き、体の半分以上を占めているだろう細く長い脚(しかも膝下が長い)が伸びていた。30代半ばだというのに、本人の日頃からの努力もあるが崩れなどは全く見当たらず、その肉体は日々熟れていっているように思われる。宵川麻琴は、前に「超」を5つつけても過言ではないほどのナイスバディの持ち主であった。けれども彼女のその顔立ちは、美しくもなければ醜くもなかった。町を歩けば、彼女とよく似た女を10人以上は見つけられるだろう。その体の素晴らしさに気づかなければ、印象に残らない女。顔立ちが平凡な分というのはおかしいかもしれないが、彼女の絶品のそのスタイルだけがやけに強調されて、そこにあった。
「何をしているんだ?」
斗紀夫の声に怒りではなく、軽蔑が含まれていることが分かった麻琴は俯いた。
「……ごめんなさい……」
麻琴は幼女が涙をのみ込むような表情で、懇願するように斗紀夫を見つめた。
「だって……だって、心配だったんだもの。私は妻だけど、いつもあなたの心の中には別の女が棲んでいるような気がしてるんだもの。あなたはその女に、決して私に向けることのないような感情を抱いているんじゃないかって、思ったんだもの……」
「だから、人のメールを勝手に見てもいいと?」
「……メールを勝手に見たことは謝るわ。でも、私は妻なのに、書いている原稿だって全く見せてくれないし……」
斗紀夫は苛立ちのこもった重いため息を吐き出した。
「執筆途中の原稿を見られるの、死ぬほど嫌いだって前に言ったろ」
「……いや、その、どんなこと書いてるのかって、心配だったんだもの」
「何で、君に心配されなきゃいけないんだ?」
涙目で麻琴は頬を膨らませた。
斗紀夫は思う。そんな表情や仕草が似合うのは、10才未満の女の子だけだ。36才の女がそんなことをすると薄気味悪いだけだぞ。前の彼女の千郷はいろいろと途中で歪んで……いや歪ませてしまったのは俺だけど、年甲斐のないぶりっこは絶対にしなかったな、と。
斗紀夫のその心に気づかない麻琴はなおも言葉を続ける。
「でもでもだって、私はあなたの妻だもの。作家の宵川斗紀夫の妻だもの。私のアドバイスだって必要でしょ。小説を書くのは1人の人間でも、その小説を読むのはたくさんの人なのよ」
「俺の仕事については、君からのアドバイスなんて必要ないよ。アドバイスをもらうにしても、担当の編集さんからもらうから。君はただ俺の妻であればいい。俺が君に与えている何不自由ない暮らしの他に何を望もうっていうんだ?」
麻琴は俯いた。
「……ごめんなさい。今日の夕食は外で1人で食べることにするわ」
「ああ、その方がいいね」
真琴はわざと足音をバタバタと立てて、洗面所に駆け込んだ。斗紀夫が「きついこと言ってごめん」と言いながら自分を追いかけてくれることを期待しながら。
だが、当の斗紀夫はパソコンの前で、真剣な目をして座っていた。
――麻琴の奴、物事の表面しか見れないアホ女かと思っていたけど、意外に鋭いところもあったとは……
麻琴の声が繰り返される。
”いつもあなたの心の中には別の女が棲んでいるような気がしてるんだもの。あなたはその女に、決して私に向けることのないような感情を抱いているんじゃないかって、思ったんだもの”
そうだ、その通りだ、と斗紀夫は1人で頷いた。
彼の心の中には、我妻佐保が、いや我妻佐保の”ような”女性が幾人も棲んでいる。そこは決して、麻琴が入ることのできない領域だった。
彼が我妻佐保を思い出す時は、長倉貴俊(当時は矢追貴俊という名だった)のことも思い出さずにはいられなかった。中牧東高校の制服に身を包んでいた彼女たち。今は更地となってしまったあの沼工場で起こった数々の事件。そして死者たちについても。
斗紀夫は貴俊への返事を書くために、キーボードへと手を伸ばした。
6年近い歳月。我妻佐保は母親となり、長倉貴俊は海外という新たな「安全地帯」へと移り暮らしている。貴俊とともに海外に移り住んだ彼の父は、自分がこの世に誕生させた3人の息子のうち、1人の息子の成人しか見ることができなかった。ともに白髪となるまで妻と添い遂げることもできなかった。
斗紀夫は思わず自分の右脚をさすっていた。
――でも、傷を背負い続けているのは「被害者」だけとは限らないんだよ。
20×6年8月、このY市での起こった未解決殺人事件の「殺戮者」は、この地に戻ってきている。
――あの人のことは「殺戮者」と言うよりも、俺が名付けた「舌無しコウモリ」という名で呼んだ方がいいかな?
斗紀夫はパソコンの前で、歪んだ笑みを浮かべた。
3日間の手伝いにも関わらず、レストランの炊事場で直久は甲斐甲斐しく働いている。ホールの担当である高藤永吾も、懇切丁寧に(彼の後から入ってきた七海に教えていた以上に)直久に炊事場での仕事を教えていた。
彼ら2人の様子を見た七海がクスッと笑った。
「店長、直久くんってかっわいいですよね。なんか、まだランドセル背負ってそう」
笑いをこらえているような七海の言葉に由真は苦笑いする。
「それ、絶対に本人に言っちゃだめよ。背が低いの気にしてるみたいなんだから……バスケ部だから余計身長欲しいみたいだし」
「へえ、バスケしてるんだ。なんか、吹奏楽とかの方が似合いそうなんだけどなあ……」
直久と話終えた永吾がにこやかな笑みを浮かべ、まるでスキップするような足取りで、由真たちのいるホールに戻ってきた。
汚れた皿やグラスをトレイに乗せた由真が炊事場に戻った時、直久とサブシェフの近衛仁郎が一緒に洗い物をしているところだった。
直久が仁郎に話しかける。
「背が高くて、うらやましいです。学生の時、何かスポーツやってたんですか?」
「小・中・高とずっと野球やってたよ。万年補欠だったけどな。身長だけなら、ダルビッシュと同じくらいだぜ」
仁郎の言葉に、厨房で夜のメニューの下ごしらえをしていたメインシェフの松前不二男がフフッと笑った。
由真は思い出す。由真は、仁郎と高校は別々であった。だが、小学校・中学校と真っ黒に日焼けし、いがぐり頭でグラウンドを駆けていた姿は今でも鮮明に思い出せる。今の仁郎は肌の色も白くなり、やや脱色したような髪をし、シェフの制服に身を包んでいる。やや面長で取り立てて美形というわけではないも、さっぱりとして明るい印象を与える仁郎には、チャラ男っぽいと軽口を叩きつつも彼目当ての常連客までついていた。
ジュースの補填のため、冷蔵庫を開けた七海が声をあげた。
「あの……隙間に置いてあるこのコンビニ袋、誰のですか? 昼からずっと入れっぱなしになってますよ」
「いけない。それ、私のよ。ごめんなさい、夜まではそこに置かせて」
慌てた由真に、仁郎が言う。
「お前、時々、冷蔵庫に弁当とか飲物とか入れてるよな。それは別に構わないんだけどさ……一体いつ、それ食べてんだよ?」
「……いろいろと事情があるのよ」
顔を赤らめて答えた由真に、不二男がチラリと目をやった。
レストランの中の時計は、3時を過ぎたころだった。
――今日はまだ来てないみたいね……
由真はまだ明るい陽射しが燦々と照りつけている外に目をやり、確認する。
2人の女性客が席を立ったため、由真は彼女たちのお勘定を済ませる。
テーブルにあった食器を片づけ、トレイを手に入り口に背を向けた由真は、再び入り口が開く音に振り返った。
「いらっしゃいませ」と言いかけた由真であったが――
由真のトレイから食器が滑り落ち、けたたましい音を立て床で砕け散った。
同じくホールにいた七海と永吾が驚いて由真の様子を見ている。厨房にいる仁郎たちも、怪訝な顔でこちらの様子をうかがっているようであった。
そして、何より今、入り口に立っている「2人の来客」も、由真が自分たちを見て食器を落とすまで驚いたことにやや狼狽していた。
――あの2人はまさか……
「2人の来客」は、由真に向かって同時に頭を深々と下げた。
それを見た由真は、やっと金縛りが解けたかのごとく「2人の来客」に慌てて頭を下げた。
――やっぱり、あの2人だ……
6年前、20×6年の8月4日の夜、ペンションには13名の人間がいた。そのうちの真理恵含む10名はあの憎い「殺戮者」に惨たらしく殺害され、由真含む3名は生き残ったのだ。
今、由真の目の前で立っているのは、由真と同じ生存者である”あの2人”であった。
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