第1章

第1話

 20▲2年7月某日。

 宵川斗紀夫は、かつて自分が1人で住んでいた家の前に来た。夏の日差しを受け、青々とむせかえるような芝生には男の子用だと思われる三輪車があった。表札にかかっている名前を確認すると、どうやら夫、妻、子供の三人家族であるらしい。

 そして、斗紀夫はかつての家の隣家である我妻家を塀の外からそっと窺う。塀には6年前と変わらぬ「我妻」という表札がかかっていた。斗紀夫の記憶にある我妻家より、幾分か古びているように思えたが、庭にはよく手入れされた可憐な花が今も咲き誇っていた。

 斗紀夫は玄関ブザーに人差し指をかざした。指をそのまま進ませるのを少しためらってしまう。それは、我妻佐保はおそらくもうここには住んでいないような気がするからだ。

 ためらっている斗紀夫の思考を家が読み取ったかのように、玄関のドアが開いた。

 玄関より顔を見せたのは、軽やかな素材のノースリーブのワンピースを身にまとった佐保の母・我妻優美香であった。そして優美香の腕の中には、幼児がいた。淡いピンクの花びらを思わせるような子供服と、それとお揃いの帽子を身に着けているその幼児は、まるで小さな花の精を思わせた。

 優美香はブザーの前にいる斗紀夫の顔にじっと見つめ、数秒思い出すかのように目の奥だけを泳がせていたが、すぐに笑顔を斗紀夫に向けた。

「宵川先生ですよね? お久しぶりです」

 斗紀夫も優美香ににこやかな笑みを返す。

「お久しぶりです。皆さん、お変わりありませんか?」

 斗紀夫の言葉に優美香は、ええ、と頷いた。

 優美香の腕の中の幼児に、斗紀夫はもう一度目をやった。その幼児(女児であるらしい)の顔立ちは、優美香に非常によく似ている。

「優美香さん、もしかして再婚……いや、ご結婚されたんですか?」

「まあ、まさか、この子は佐保が産んだ子です」

 優美香は「先生、中で冷たいお飲物でもいかがですか?」と、花のような笑顔を見せた。


 自身の右脚を引きずりながら、我妻家に約6年ぶりに上がり込んだ斗紀夫は思う。

――どうやら、今、この家の中には、優美香さんと佐保ちゃんの子供の2人だけで、佐保ちゃんはいないみたいだ。女1人と幼児しかいない家に、昔の知り合いとはいえ、男をほいほい上げるとは……優美香さんはやっぱり人を疑わないというか、なんというか…… まあ、それだけ俺を今でも信頼しているということだろうな。


 客間のソファーに腰を下ろしている斗紀夫の前に、優美香は涼し気な音を鳴らす氷を浮かべたアイスコーヒーを静かに置いた。そして、慌てて彼女は「片時も目が離せなくて……」とキッチンに残しているらしい孫のところに戻っていった。

 

 それからしばしの間、時折幼子の無邪気な声を間に挟み、優美香と斗紀夫は冷たいアイスコーヒーを互いに少しずつ飲みながら話をした。

 高校卒業後、一浪した佐保は翌年、女子大学の短期大学部に進学した。卒業と同時に10歳年上の男性と見合いし、結婚した。そして、今は一児の母である。優美香の傍らにいる佐保は産んだ子供の名は、初音と言う。

 2才になる初音はうれしそうに優美香に甘えたり、ソファにダイブするような格好をしたりして、まだおむつをつけているらしい丸っこいお尻が丸出しとなった。

 現在、佐保は初音を連れ、この実家に里帰り中であった。彼女は、出産直後は慣れない育児と睡眠不足で幾分かやつれていたらしいが、今は落ち着いて母親をやれているとのことだった。ほんの少し前、佐保が高校時代の仲良しグループの友人3人よりお茶の誘いを受けたため、優美香が佐保の息抜きになればと初音を預かり、送り出したとのことだった。

 優美香の両親であり、佐保の祖父母でもある我妻誠人と美也の近況についても、斗紀夫は聞くことができた。誠人は、初期の段階ではあるものの喉頭がんが見つかり、現在闘病中とのことだ。美也は、長年連れ添った夫に癌が見つかり、夫の前では気丈な姿を見せているも、娘の優美香の前では愛する者かも失うしれない恐怖を隠せなくなっていた。だが、彼ら2人の救いとなっているのは、佐保の産んだ初音の存在であった。佐保の幸せと曾孫の顔を見ることができてうれしいと、彼らはしきりにこぼしていた。佐保が里帰りをする数日前から、まるで小さな子供のようにそわそわとして、佐保と初音に会えるのを楽しみにしているのが優美香にも分かるほどであると。

 斗紀夫はと言えば、たまたま旧知の友人に会うためにこの町を訪れた。そして6年前の様々な出来事(楽しいことも、そしてこの右脚を不自由にされるような悪いことも)を思い返し、(偶然を装って)この家の前を通ってみたとの優美香に伝えた。


「いやあ、ビックリしましたよ。佐保ちゃんがお母さんになってるなんて……」

 斗紀夫は微笑む。”男性とセックスができるまでもう少し時間がかかると思っていたんですがね”という言葉はもちろん、彼の心の中だけで言ったが。

「ええ、佐保が良い方に巡り合えて、本当に良かったと思ってます。こんなに可愛い子供まで授かることができて……この子とこうしていると、佐保が生まれたばかりのころのことを思い出すんです」

 優美香はまるで聖母のような優しい笑顔を初音に見せ、彼女の髪を撫でた。初音がキャッキャッと嬉しそうに笑い声を上げた。優美香と佐保が母娘でありながら、まるで姉妹のように仲が良かったことは、斗紀夫も覚えていた。愛娘が自分の手元を離れ、自分とは別に1つの家庭を築いている。それは母としてうれしくもあり、少し寂しくもあるのだろう。

「あの、そういえば、先生もご結婚されたと……」

 斗紀夫は我妻家とは年賀状と暑中見舞いのみのやり取りとなっていたが、結婚報告の葉書を出したことを思い出した。それにネットニュース等の小さな記事で自分の結婚が取り上げられてもいた。

 にこやかな口元を崩さぬまま、斗紀夫は答える。

「1年ほど前に入籍だけ済ませました。妻は結婚式をあげたがっていたんですが、互いに身内も少ないし、僕は派手なことはあまり好きじゃないんで、式はあげなかったんです」

 斗紀夫はY市の自宅で自分の帰りを待っている妻のことを思い浮かべた。きっとあいつは今頃、ガンガンにエアコンを効かせた部屋の中で、お気に入りの海外ドラマのDVDを見ながら、左手にローズヒップティーかもしくは減肥茶、右手には小顔ローラーを手に、俺の帰りを今か今かと待っているだろう、と。そして、斗紀夫は自分の目の前にいる優美香の顔を、無礼には思われない程度に改めて観察する。

 優美香の目元や口元の皮膚は少し緩み始めているような気がしないでもないが、とても自分と同じ40才という年齢には今も見えなかった。それに加えて、彼女の愛らしい目鼻立ちは、この世に生まれ落ちた時に「美」を授かった者としての姿を斗紀夫の目の前に突き付けているようである。優美香より少しだけ年下で、寝ても覚めても美容のことを考えている自分の妻と、元から美しく生まれてしまった優美香のような者の間には決して越えられぬ壁があると実感してまう。


 しばし話に花を咲かせた後、斗紀夫と優美香の間には苦痛でない沈黙が訪れた。溶けかけたアイスコーヒーの氷がカランと音を立てる。斗紀夫も優美香も様々なことを思い出していた。

 約6年前のあの1年間には、本当にいろいろなことが起こった。我妻佐保をはじめとするこの家の家族には、深い傷が刻まれ、彼女たちの人生も狂ってしまった。斗紀夫も癒えぬ傷が、そう、本当に言葉通りの傷を受け、生涯右脚を少し引きずりながら歩くこととなった。数年の時がたった今、この我妻家にあるのは、傷を抱えながらも流れゆく時の先に辿り着いた、それぞれの生活だった。優美香の膝の上で無邪気にたわむれる幼子・初音がその穏やかな象徴であるかのように彼には思えた。


 「お父様たちにもよろしくお伝えください」と、斗紀夫は我妻家を後にした。

 玄関先で優美香に抱かれていた初音は、最初は恥ずかしそうに優美香の胸に顔をうずめるかのような動作をしていたが、優美香に促され、斗紀夫に手を振ってくれた。

 斗紀夫は佐保に会うことができなかったのは、少し残念に思っていた。だが、斗紀夫はこれから、妻の待つY市へと帰らなければならない。Y市には、妻だけでなく、彼の”大切な”八窪由真もそこにはいる。

 6年前に起こった「Y市連続殺人事件」の被害者であり、生存者でもある八窪由真が店長を務めるレストランの常連となっている斗紀夫は、彼女とは普通に世間話ができる程度の間柄にはなっていた。そのうえ、彼女を傷つけ、彼女の最愛の姉・八窪真理恵の他9名を殺害し、いまだ裁きを受けていない「殺戮者」とも斗紀夫は通じていた。その「殺戮者」から、つい先日、一つの提案を受け、斗紀夫はそれを受け入れたのだ。

――これからやってくる8月は、楽しいものになりそうだ。あの事件の決着が着くんだからな……

 ひょこひょこと歩く斗紀夫の全身から、自身の中にある狂気の種を煙にくべて、くゆらせているかのような暑さのためではない熱が湧き上がり始めていた。



 20▲2年8月1日。

 太陽の光にギラギラと照りつけられた白い乗用車は山道を滑るように走っていく。運転席の八窪由真のハンドルを握る手がジワジワと震えてくる。それを感じ取ったかのように助手席のまだ水をたっぷり含んだ白い百合の花束がガサッと音を立てた。

――もうすぐだ。もうすぐあの場所につく。

 自分の心が予想していた通りの反応を、自分の肉体は示し始めていた。手だけではなく全身が震え出し、嫌な汗がじっとりと吹き出してくる。

 到着点に着いた由真は、路肩に車を停め、汗ばむハンドルを握ったまま、大きく深呼吸した。

――しっかりしろ。ここに来るのは今日が初めてじゃない。それに、”あいつ”はもうとっくにここにいない。6年前から一度も姿を見せていない。けれども……

 一瞬の静寂。

 やがて、太陽が車と地面のアスファルトを焦がしているかのようなジーという音を由真の耳はしっかり拾うことができるようになった。もしかしたら、これは蝉の声かもしれない、と。

 由真は助手席の花束をそっと手に取り、パンツのポケットに忍ばせているナイフと携帯を確認する。もう一度、深呼吸し、思い切って運転席のドアを開けた。

 車の中から流れゆく冷房と外から流れ込む夏の熱気が混じり合い、由真の肌を通り過ぎた。彼女の足は乾ききったアスファルトを踏みしめて、進む。

 そして、彼女の視線の先にある観音像へとさらに歩みを進めていく。この場所は由真の姉、八窪真理恵が最期を迎えた場所であった。観音像の周りのカラカラに乾いた茶色い土には、由真の目の前でおびたたしく流れて、じっとりと染み込んだ真理恵の血はもうあとかたもなかった。

 足元の感触、熱気を含んだ風を由真の肉体は感じる。由真は自分が生きていることを実感せざるを得なかった。

――そう、私は生きている。姉さんではなくて、私が生きている。私なんかが……

「姉さん」

 由真は百合の花を供え、手を合わせた。もうすぐ、時はあの日からちょうど、6年目に流れ着く。姉の真理恵を残酷に殺めた化け物は、いまだ発見されていない。

――姉さんの骨はきちんと墓に納められている。だけど、私は姉さんはまだここにいるような気がするのよ。いや、姉さんだけじゃない。あの夜、ペンションにいた13人のうち、10人があの化け物に理不尽に殺された……殺された皆の魂は今、どこにいるのだろう……

「姉さん」

 由真はもう一度、真理恵を呼んだ。だが、吹き抜けた風が乾ききった木の葉を今以上に乾かそうとする音だけが由真に返されただけであった。


 周囲を気にしながら、車に戻る由真は携帯の着信履歴に気づいた。ここに来る直前に病院に寄っていたため、携帯はマナーモードのままであった。着信時間はちょうど今から1分前、履歴に表示されている名前は「近衛仁郎」だ。

 由真が店長を務めるレストランの従業員達には、自分が昼休みにどこに行くのかをきちんと告げて出てきた。それなのに連絡が入ったということは、何か不測の事態が起こったのかもしれない。

 けれども、数秒のコール音の後に出た仁郎の声は、由真が想像していたよりもずっと落ち着いていた。

「由真? 電話しちまってすまん。富士野さんが倒れたんだよ。いや、その、失神しているってわけじゃないけど、真っ青な顔でお腹押さえて、スタッフルームで横になってんだ。俺、救急車呼ぼうかって言ったんけど、本人は呼ばなくていいって言うし……」

 アルバイトの富士野七海がスタッフルームで休んでいるということは、現在、ホールを回しているのは同じくアルバイトの高藤永吾の一人であるということだ。お昼時は少し過ぎてはいるものの、一人でホールを回すのは、若干厳しいのかもしれない。

「分かった。すぐに戻るわ。あと五分ぐらいで帰れると思うから」

「え? まだ、親父さんの病院にいるんじゃないのか?」

「姉さんのところにいるのよ」

 電話口の仁郎が、言葉を詰まらせているのが由真には分かった。


 富士野七海は冷房を若干ゆるめたスタッフルームで、ふっくらとした腰にタオルケットを巻き、あおむけのまま目を閉じていた。彼女のお腹の上で組まれている指も、白くふっくらとしていた。

「富士野さん、薬は飲んだ?」

 由真の声に七海はパッチリと目を開け、ハッとして上体を起こした。

「店長、申し訳ありません。お昼休みだっていうのに、戻ってきていただくなんて……」

 由真が遅い昼休みを利用し、父が入院している病院に足を運んでいることは、このレストランに勤務する者は皆知っている。

「いいのよ。救急箱に常備薬があったでしょう。早めに飲んでおいた方がいいわよ」

「はい、さっき飲みました。早く効いてくれるとうれしいんですけど。子供産む予定なんて全くないのに、こんなに痛い思いをしなきゃいけないのか、運命を呪います」

 月一度訪れる女性の事情。七海はその事情がかなり重いらしい。通常時は血色のいい七海であるが、今は可哀想になるくらい青い顔をしていた。

 七海が弾みをつけて、ソファから起き上がろうとし、むっちりとした白いふくらはぎがタオルケットからこぼれた。由真はロッカーをあけ、レストランの制服への着替えに素早く取り掛かかる。

「富士野さん、無理しないようにね。朝からずっと顔色悪かったし。今日の夜はそんなにお客は多くないかもしれないし、早退してもいいわよ」

 七海は青い顔のまま首を振り、立ち上がった。

「いいえ、働きます。もちろん、今、休んでいた時間は時給から引いてください。夜のホールを店長と高藤さんだけで回すなんて大変ですよ」

 七海はY市にある国立大学に通う1年生だ。約2か月前にアルバイトとして、由真が面接し、採用した。今は大学の夏休みのため、夜だけでなく昼間も働いてくれている。愛らしい丸顔の七海は何事にも真面目で真摯に取り組む学生であった。おっちょこちょいな面もあるけれど、お客様の受けも非常によく、長く働いていてほしいと由真は思っていた。

 七海にもう少し休むように伝え、由真はホールへと足を速めた。


 トレイに氷の入ったグラスを3つ乗せた高藤永吾と、由真の目が合った。

 この高藤永吾は、由真やシェフの近衛仁郎より、1つ上の25才であった。大阪で会社員をしていたが、オーバーワークにより体調を崩したため退社し、縁もゆかりもないこのY市に、自分の生き方について考え直すためにやってきたとのことだった。

 由真は厨房に声をかける。

 サブシェフの近衛仁郎が声を出さずに「すまん」と由真に向かって口を動かした。

 この近衛仁郎とは、小学校・中学校の同級生であり、由真が彼と初めて会った日からは15年以上の時が流れていた。最初は由真と仁郎の目線の高さはそう変わらなかった。でも、現在はヒョロヒョロとしているも190㎝以上の長身に成長した仁郎と話す時、150㎝そこそこの身長の由真はいつも首の後ろをグッと伸ばして、彼を仰ぎ見る形となる。

 仁郎の奥にいたメインシェフの松前不二男も、由真の姿を認めぺこっと頭を下げた。ここでは最年長の48才だ。少し気難しそうな顔立ちとやや薄くなりかけた頭部、身長は平均的であるも日々鍛えているかのような筋肉をまとい、周りを威圧するような存在感を見せていた。他の従業員とは年が離れていることもあるのか、寡黙で多くのことを語らないタイプであるが、彼のシェフとしての腕前は確かであった。この不二男も仁郎と同じく、このレストランの開店計画時にシェフとして応募してきて、現在に至っていた。

 

 レストラン 笑窪(えくぼ)。

 開店してから3年と少し。席は20席程度でそう規模が大きいわけではないが、この界隈ではなかなかに繁盛していた。地元の家族連れや学生のみならず、近辺のペンションなどに泊まっている客までも足を運んでくれていた。

 そして、今は落ち着いたものの、開店当時は由真がホールで働く姿を見て、ヒソヒソと耳打ちしあっていたり、肩をつつきあい様子をうかがっている客が何人もいた。中には他のホールスタッフに、由真のことを聞いている客までいた。

 唇を噛みしめ、気づいていないふりをしている由真の耳に「あの事件の」「殺された人の妹」といった言葉が刺さってきた。その程度ならまだしも、「よくこの土地に留まれるよね」と言った由真をさらに鋭く突き刺すような言葉までも時折聞こえた。

――野次馬。自分に関係ないことだから、好き勝手推測できるんでしょ。どうせ、家に帰ったら、自分が今言ったことなんて忘れて、いつも通り、家族との幸せな生活を送るんでしょ。

 由真は家の外では、悲しみも苦しみも全て自分の内に飲み込んでいた。だが、たった1人で暮らす家に戻り、飲み込んだはずのものが自分の内からドッとあふれ出てくるかのように全身を震わせ泣いた時が、両手でも数えきれないほどあった。

――私はここを離れられない。こうすることでしか、私は父さんを守れない……

 由真は一応、「レストラン 笑窪」の店長という肩書をもらってはいたものの、実際のレストランの実権は、由真が好きではない叔父夫婦が握っていた。叔父夫婦も決して由真のことを好きではないというのは、由真は理解していた。由真と真理恵の父・八窪卓蔵はペンションや飲食店を経営する会社の代表取締役であった。6年前のあの日、惨殺された直後ともいえる愛娘の死体を目の当たりにした卓蔵は脳出血を起こし倒れた。言語障害と運動障害が残り、卓蔵は今も病院にいる。

 卓蔵に代わり素早く新たな代表取締役と取締役に就任した叔父夫婦が、卓蔵の入院費用を負担する代わりに、新しく開店するレストランの店長となることを由真に持ちかけた。彼らは会社経営については一応血のつながった身内だけで固めておきたかったのだろう。それに、毎月かかる多額の卓蔵の入院費用は、由真が事件後に通っていた大学を退学し就職して働いても払い続けていくのは困難であると思われた。家だけは叔父夫婦が情けをかけてくれたのか、残しておいてくれていた。

 由真は叔父夫婦のこの提案を受け入れた。このY市に留まり、姉と父との思い出のつまった家に住み、父を守り、姉を思い偲び続けることを選んだのだ。


 閉店間際のレストラン笑窪では、薬が効いたのか、いつもの元気を取り戻した七海がテキパキと動いていた。

 が、七海が腋に挟んでいたトレイを床に落っことし、けたたましい音が店内に響いた。七海は由真に向かって、小声で「すいません」と肩をすくめた。そして、床に落ちたトレイを拭きながら、由真の隣にやってきた。

「店長、最近、あの人来ませんね?」

「あの人?」

「あの人ですよ、ほら、あの人……いつもメロン級の巨乳の奥さんを連れていて、右足を少し引きずって歩いてる、あのスラリとした人……」

「宵川斗紀夫さんのこと?」

「そうです。なかなか、名前が出てこなくて……」

 最後に宵川夫妻がこのレストランに来たのは、一体いつだったかを思い出そうとしている由真の顔を七海がチラリと見た。

 黒いストレートのショートカット、切れ長の大きな瞳、アーチ形に整った眉、形のいい鼻、小さく引き締まった唇、そして細くてしなやかな体つき。七海から見た由真は、小さな黒猫をイメージさせる女性だった。

 写真でしか見たことがなかったが、いかにも清楚なお嬢様風の由真の姉・八窪真理恵と由真は全く違ったタイプの外見をしている。七海は後から、由真と真理恵が「腹違いの姉妹」であることを知り、タイプの違いになんだか納得した。

 最初は由真から人を寄せ付けない近寄りがたいオーラを感じていた七海であったが、実際に由真と働いてみると案外普通の人だと思うようになった。確かに由真は自分のことをあまりしゃべらないし、笑顔も滅多に見せることはないが。

 店長も事件が起きる前はもっと笑顔を見せていたのかな……と、七海の心には哀しさが押し寄せてくる波のように広がることも時々あった。

 七海は宵川斗紀夫の話題を続けようと、明るい声を出す。

「あの宵川斗紀夫さんって、落ち着いた大人の男って感じですよね。もう、奥さんがいるのが残念ですけど」

「確かに独特の雰囲気持ってる人よね」

「奥さんもいっつも身綺麗で肌も髪もピカピカだし、いつも違うブランド鞄持ってきているし、一体、どれくらい稼いでいるんだろう? 羨ましいな。愛も大切だけど、お金がなきゃ人間は生きていけませんよね」

 由真は頷く。七海は私語が過ぎたことに気づいたのか、ハッとして「ゴミを捨ててきます」と裏口に走って行った。

 

 先ほど七海が話題にした宵川斗紀夫は、レストラン開店以来からの常連であった。月に3回~5回、そしては1年ほど前からは妻も連れて、このレストランに足を運んでくれていた。

 大抵の人には好感を持たれるであろう外見、そして柔らかな物腰と話し方。彼がかつての野次馬の客のように由真を傷つけるような態度をとったことは一度もなかった。だが、由真は宵川斗紀夫が苦手であった。危害を加えられたこともないし、明確な理由があるわけではない。ただ、由真の中の動物的な、それこそ本能に近いようなシグナルが「危険」を由真に知らせている。

 普通でない何かがあの男のにこやかな顔の裏に潜んでいる、決して信用するな、深く関わるな――と。

 由真は思う。

――私は人を信じるよりも、まずは疑う幼少期を過ごしていたから、人に対して身構えてしまっているんだ。

 由真は卓蔵と真理恵の家に引き取られる前、生物学上の母とともにアパートで暮らしていた。アパートを訪ねてくる母の男たちを由真は見ていた。そう、ほんとうにいろんな男が……

 

「……長、店長」

 どうやら、ずっと高藤永吾に呼ばれていたらしい。

 慌てて、顔を上げた由真を、永吾は心配そうに見ていた。彼は優しそうな一重瞼をゆっくり瞬きさせた後、言葉を続ける。

「大丈夫ですか?あの、明日のことでちょっと確認したいことがあるんですけど」

 永吾は軽く咳払いをして、続ける。

「店長の従弟の直久くん……でしたっけ? 確か明日から、このレストランのお手伝いに来てくれるって話でしたけど、よかったら、僕が朝の出勤のついでに駅まで彼を迎えに行きましょうか?」

 由真はゆっくりと首を横に振った。

「いいえ、彼は私が車で迎えに行きます。ありがとうございます。気を使っていただいて」

「そうですか……」

 永吾はわずかに苦々しい顔をした。親切心から申し出てくれたのに断ってしまった、と由真の心にもざらついたものが広がっていく。

 だが、従弟の八窪直久はまだ中学2年生の子供だ。駅に全く面識のない大人の男性が自分を迎えに来ても、びっくりさせるだけである。それに、直久はレストランの手伝いの前に、もう一度、真理恵のお墓参りをしたいと言ってくれてもいた。先日の土曜日に行われた真理恵の七回忌の親戚一同の集まりで、顔を合わせたばかりでもあるのに優しい子だと、由真は思わずにはいられなかった。

 一息をついた由真は、窓から見える月を見上げた。

 今宵の月は爛々と獲物を狙う動物の片目のように、不吉に黒い夜空に輝いていた。

 そう、”あの夜”と同じように。

 惨劇が起こる前の予兆であるかのように。

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