第2章 ~8月の死者たち~

第1話

 20×5年8月3日。Y市連続殺人事件発生の前日。

 由真の姉・八窪真理恵を含む10名の人生は、その終わりへと向かって刻々と時を進めていた。でも、彼女たちのなかで「死」が自分に向かって手を伸ばしはじめていたことも、そして、その「死」が決して安らかな眠りへといざなうものではないことを知る者は誰一人としていなかった。

 

 東京の大学に入学してから、初めての夏を迎える由真は、ペンションへと続く山道を車で走らせていた。彼女の車のフロントガラスに照りつけられる夏の日差しは、徐々に強いものとなっていく。由真はその眩しさに顔をしかめた。

 由真が運転するこの車は、父の卓蔵が「大学の入学祝に」と買い与えてくれたものであった。免許を取ってまだ半年足らずではあるが、由真自身は車の運転が向いているらしく、ハンドルは彼女の手に何年も前から馴染んでいるかのようであった。

 由真は高校時代よりも長い大学の夏休みに、東京でアルバイトをすることよりも、父の会社が経営しているペンションを手伝うことを選択した。1人暮らしをする必要のある東京の大学に行かせてくれ、車まで買ってくれた父に対する感謝という理由もあったが、それ以上に由真を占めているのは姉・真理恵の抱えている問題に対しての不安だった。

 真理恵はほんの1か月前に、吹石真理恵から再び八窪真理恵へと戻った。真理恵の結婚生活は、わずか2年と少しであった。裁判沙汰にはならかったものの、離婚が成立するまで、父・卓蔵も含めて揉めに揉めていたことを由真は知っていた。

 由真は鼻から息を吐き出した。怒りの感情を少しでも抑えるために。

 彼女の脳裏には、真理恵の涙が、そして真理恵の元・夫である吹石隆平の顔が鮮明に蘇る。

――嘘つき。結婚式で誓ったくせに。姉さんを幸せにするって言ったくせに。

 車は急な斜面のあるカーブに差し掛かろうとしていた。由真は、用心深くハンドルを握り直す。

 しばらく車を走らせると、「ぺんしょん えくぼ」と木彫りの看板が見えてきた。


 車から下りた由真の足元にある草は、萌えあがっているような青い匂いを発していた。由真は周りを見渡す。ちょうど県境の山間部に位置しているこの「ぺんしょん えくぼ」は、下に広がる町並みと横に広がっている山並みの両方を楽しめる絶好の場所であった。夏はちょうど今、由真が体感しているような自然のすがすがしい空気が流れている。だが、ペンションの繁忙期は夏ではなく、冬に来るのだ。少し離れたところにスキー場があるため、その近辺の宿泊施設の予約がなかなかとれなかった客たちが、良心的な価格設定をしているこのペンションに流れてくることとなる。

 車のトランクからキャリーバッグを出そうとしている由真に気づいた従業員の笹山之浩が「やあ、お嬢さん」とニコニコしながら、こちらに歩いてきた。由真も「お久しぶりです」と頭を下げ、笑顔を返した。

 之浩は草むしりをしていたところだったのだろう。麦わら帽子をかぶり、彼の両手にはめられている軍手には、まだ青さを失っていない草が何本も付いていた。今年、45才となる之浩は、男性にしては小柄でなおかつ華奢な体型をしていた。真顔でいても、まるで笑っているような目元をし、彼の仕草や喋り方は、まるでグニャグニャととらえどころのないタコのような印象を与えていた。

 由真はペンションの入り口の扉へと向かう。扉にそっと手をかけると、上部に備え付けられている鈴がチリンチリンと鳴った。

 受付にいたのは、深田季実子であった。2人の子供は既に巣立ち、夫は既に鬼籍に入っている50才の季実子は、このペンションで住み込みで働いていた。世話好きで調理師免許も持っている季実子は、このペンションの管理を任されている多賀准一からの信頼も”大層”厚かった。

「あっ、あら、由真お嬢様、お早くお付きになられたんですね」

 驚き、顔をパッと赤くした季実子は、由真が引きずっているキャリーバックに気づく。由真は「自分で運びます」と伝え、管理者の多賀准一の居場所を季実子に聞いた。

 季実子は赤くほてった頬に手を当てて、考えるふりをした。本当は准一がどこにいるのか、季実子には即答できた。准一は季実子が立っている受付のカウンターの下、入り口の扉を開けた客からは決して見えない部分にいる。そして、つい先ほどまで、ピタピタとしたチノパンを履いた季実子の下半身を撫でまわしていたのだ。

 由真は季実子の表情や態度に少し違和感を感じたものの、まさか自分の見えないところでそんなことが繰り広げられているとは思いつかなかった。

「先に荷物を置いてきますね」と、キャリーバッグに再び手をかけた由真に、季実子が素早い動きで、部屋の鍵を渡した。彼女を一刻も早くここから立ち去らせたいがために。

「お嬢様、今日はお客様いっぱいなもので、1階のスタッフ用の日当たりがあまり良くない部屋になるんですが……」

「私はお客じゃなくて、手伝いに来たんですから、そこで構いません」


 由真が部屋のドアをパタンと閉める音を聞いた多賀准一は、身を隠していた受付の下から、のそのそと這い出てきた。

 現在、51才。髪の色は全体的に黒よりも白の割合が増えつつあり、下腹部も少しでてきているものの、多賀准一は男としてまだまだ現役であった。彼自身も、あと20年は現役でいるつもりであった。そして、今は目の前にいる深田季実子と人知れず懇ろな仲となっていた。

 准一には妻と息子がいた。だが、息子は中学に入ったころより、准一が決して進んでほしくない方向へと歩みはじめ、ついに集団窃盗で少年院に入るような事態になってしまった。料理人一筋で生きてきた准一と教育関係の仕事に就いていた妻は、互いに息子の非行における責任の所在を押し付けあった。区役所で出した「婚姻届」1枚が、彼ら夫婦を繋ぎ止めている状態が何年も続き、ついに5年前、息子がちょうど20才になった時、彼らの結婚生活は互いの強い同意の元に終了した。

 准一は前に料理人として勤めていた料亭の常連客であった八窪卓蔵にえらく気に入られ、警察の世話になるような子供がいたにも関わらず、新設するペンションの管理者兼コックとなる話を持ち掛けてもらった。離婚した妻とは今はもう連絡をとることなどない。啖呵を切って、家を飛び出した息子は便り一つよこさない。

――まあ、あいつらも元気でやってくれりゃあ、俺はそれでも構わないさ。俺はきっと今まで仮の家族を持っていたんだ。そろそろ、本当の家族を持つ時かもしれない。

 准一は自分と同じ中年であり、さして美しいわけでもないが、喜怒哀楽を素直に表現する、愛らしい季実子の手をとり、固く握りしめたのであった。


 由真が先ほどまで履いていた白いサブリナパンツから、汚れの目立たない黒いパンツに履き替え終わった時、ちょうど自分がいる上の階より数人の笑い声が聞こえてきた。

「やだ、正志ったら―」と若い女の子の嬌声と、「すげえだろ」という若い男の声。

 少しだけ視線を上にあげた由真は、声の主たちについて想像する。

――学生? 同じゼミもしくはサークルで気があった数組のカップルかな?

 後ほど由真はこの自分の想像がほぼ当たっていたことを知ることになる。

――この部屋って上からの声が結構響くんだ、夜は静かに眠れるといいけど……

 由真の口からは思わず、フッと笑いが漏れてしまっていた。


 ペンションロビーにある自動販売機の前。

 肥後史彰はエプロンをつけて部屋から出てきた由真に目を止めた。

 由真が軽く頭を下げたため、史彰も慌てて頭を下げる。遠くから見ても顔立ちはハッキリとし、キュッとしまったウエストは彼女が身に着けているエプロンごしからも分かった。

――エプロン? ということはここの従業員か。ここのオーナー夫婦(たぶん、夫婦だよな?)の娘だろうか? あまり似てないけど……おっと、いけない。俺は女のことを考えている場合じゃない。この旅行はこれからの試練に耐えるための充電期間だ。女のことよりも自分のことをしっかり見つめて、早く仕事を見つけなければ……

 史彰は自動販売機に向き直り、ボタンを強くグッと押した。

 肥後史彰、32才、独身。2か月前に6年半務めた会社より、業績不振による退職勧奨を受けた。そして、現在、就職活動中。

――いいところまで面接にこぎつけても、最終的に俺を選んでくれた会社はなかった。俺はもうどこにもいらない人間なんじゃないか……就職がなかなか決まらないのは、年齢的なものもあるかもしれない。専門的な資格や特技を持っていないからかもしれない。一応、大卒だけど三流どころであるからかもしれない。外見にしたって、早くも中年太りが始まりかけているこの体がもっさりとして愚鈍な印象を与えるからかもしれない。

 史彰は自分が選ばれなかった理由を探そうとして、身も心もすり減っていた。自分1人で暮らす乱雑なアパートを離れて、どこか自然のなかで数日間過ごそう、そこで自分のことを振り返り、これからを生きる充電期間にしようと、思い立ってここに来た。

――安直すぎる自分革命(革命という言葉は自己啓発っぽくて、使いたくないが)かもしれないし、旅費や宿泊代のお金を家賃や食費に回すべきだったのかもしれない。でも、あんな散らかった部屋で汗臭い布団にくるまり、うだうだしているより今の状況の方がまだましだ。少し散歩でもしてこよう。誰の人生にだって、どん底はあるさ。俺はこれから必ず這い上がってみせるさ。



 白鳥学は、車の助手席に八窪真理恵を乗せ、まだ燦々と太陽が照りつける山道を走っていた。

 学が営業として勤務している会社の代表取締役である八窪卓蔵より、取引先の帰りに彼の長女である真理恵を車でペンションまで送るように仰せつかっていたために。

 彼らが天気等の世間話を数回交わし終えたこの車内は、今は互いに無言となっていた。今より数十分前、大きなキャリーバッグを側に置いたまま、自宅の鍵を閉めていた真理恵に学は声をかけた。振り返った真理恵は、「白鳥さん」と驚いていた。自分で車を運転しペンションに行くという真理恵であったが、学はやや強引に「お父様より頼まれたことですので」と説き伏せ、この車に乗せた。

――俺の名前は覚えていてくれたらしいな。まあ、あんたが結婚する前に何度も自宅にいったことはあるし、あんたの結婚式にも参加したからな。

 学は隣に座る真理恵の睫毛の長いその横顔に、チラリと目をやった。

 前に視線を戻した学は、「さて社長の真意は何だろうか」と考える。 

――もしかしたら、社長は俺を義理の息子に……すなわち後継者にと考えているのだろうか?

 白鳥学は独身であり、現在28才。年齢は真理恵のちょうど2つ上である。Y市で生まれ育ち、大学の4年間だけ京都で学生生活を送り、大学卒業後はずっと実家暮らしであった。両親ともにY市の出身であり、それぞれ税務署と市役所に勤めている。3人兄妹で、4才年上で銀行員の兄は既婚者で別世帯であったが、4才年下で自動車会社の受付嬢をしている妹とは同居していた。

 学は自分でも自覚していたが、幼いころより勉強もスポーツもまずまずこなし、

容姿もまずまずいい方で(彼自身、清潔感には人一倍気を配っているのが労したのだろう)、小・中・高・大と女性に歓声をあげられるポジションにいた。無論、就職してからも女に困ったことなど一度もない。大学卒業以来、勤めている今のこの会社でも「会社一のイケメン」と噂になっていたことは仲が良かった女子社員から聞いて知っていた。

 真理恵の父・八窪卓蔵が酒の席で、「やっぱりあんな男と結婚なんてさせるんじゃなかった。あの野郎、人の娘を虚仮にしやがって」と、漏らしたことを思い出した。その時は黙って頷いた学であったが心の中では「あんたが言うなよ」としらけた気分になった。

 愛娘の夫となった男(確か、吹石隆平といったか)は、結婚後1年もたたないうちに他所に女を作った。隆平自身はほんの一時の遊びのつもりだったらしい。だが、その女は隆平に本気となり、本妻である真理恵にありとあらゆる嫌がらせをしたそうだ。一方的にぶつけられる悪意に、体調を崩すまでとなった真理恵。怒った卓蔵は、真理恵の暮らす横浜へと出向き、夫と女を呼び出した。卓蔵の剣幕、そして人相に恐れをなした女は真っ先に逃げ出した。そして、真理恵と隆平を問答無用で離婚させた――と。

 卓蔵の今は亡き本妻が産んだ娘は真理恵ただ1人であった。だが、愛人との間にもう1人娘が生まれている。

 どうやら、会社の古株の従業員の話を聞くと、その愛人とやらは玄人などではなく、会社のかつての従業員であったらしい。彼女の記憶が薄れていない者に話を聞くと、入社当時は遊んでいる風でもなく、むしろ素朴な感じだったらしい。だが、次第に服装も派手になり、勤務態度も徐々に乱れていった。そして、いつの間にか退社していた。彼女が退社してから数年後、大きなおなかの彼女が歩いているのを見た従業員もいるらしい。

 学にこの話を聞かせてくれた古株の従業員たちは、言っていた。

「社長だけでなく、社内にも何人かの穴兄弟はいたと思うよ」「セックスの快感を知ってしまった女ってのは怖いねえ」とも。

 結婚歴のないシングルマザーとして暮らしていたその愛人は、長い付き合いであった男に、自分の産んだ娘を「あなたの子よ」と告げた。その娘の存在に希望と恐れの入り混じった感情を持ったに違いないその男は、娘のDNAを調べた。結果、その男の娘ではなかった。その後、いろいろと悶着があり(ここは当事者しか知らないことらしい)、八窪卓蔵がその娘の生物学上の父であると明らかになった。

 卓蔵もその娘――由真――が生まれていたことを知ったのは、その愛人の記憶が薄れかけていたころだったそうだが。

――こんなことになるんだったら、遊びは遊びと割り切り、口が堅く避妊に気を使える玄人の女をかこっておいた方がよかったな。

 卓蔵が真理恵の産みの母を「虚仮にした」結果が、八窪由真の誕生へと結びついたのだから。20年以上前に病死にしているにも関わらず、「お綺麗で優しくて、真理恵お嬢様はまるで奥様の生き写しであるかのようだ」と社内でも時々話題にあがる、真理恵の母・八窪鈴恵は今、草葉の陰でどのように感じているだろう。

――でも……なんだか、あの八窪一家って変わってるよな。

 これがドラマなら、それも昼ドラなら、一悶着どころか二悶着が起きるような関係であるだろう。だが、学の目には卓蔵は、真理恵も由真も分け隔てなく可愛がっているように見える。真理恵も由真を大切にし、由真も真理恵を慕っていることも分かる。真理恵が純白のウエディングドレスに身を包んでいた日、まだ高校生であった由真が目を真っ赤にし、真理恵も頬に涙の筋を残しながら、抱き合っていたことを思い出した。

――そういえば、確かあの下のお嬢さんもペンションの手伝いに行っているって社長が言ってたな。

 真理恵も成績優秀の部類ではあったが、由真はそれ以上に成績優秀であり、東京の有名大学に現役合格したことを卓蔵が頬を緩ませながら話していたことを、学は思い出していた。


 タクシーの中の根室ルイは目を細めて、流れゆく夏の白雲を眺めていた。

――自分ではまだまだ若いつもりだったけど、やっぱり年ね。結局、タクシーを使って、町を回ることとなったわ。そうよね、人生80年としたら、もうその4分の3は過ぎているものね。

 流れていく白雲と同じく、時は流れているのだ。ルイは、自身の62年の人生をふっと回想する。

 結局、結婚は1回もしなかった。もちろん、子供もいない。両親は既に鬼籍に入っている。兄弟は兄が2人と弟が1人であるが、皆、全国の各地でそれぞれ家庭を持って暮らしているため、たまに電話や手紙でやり取りをするくらいだった。かつて暮らしていた生家も、時の流れに飲み込まれ、すでに取り壊されていた。

 仕事を持っていたルイはそこいらの男性以上に頑張り、役職ももらえ、今暮らしているマンションも自分の力で購入していた。ルイの人生をたった一単語で表すとしたら、それは「努力」に限るだろう。

――努力はできる時にしておかないと、時を止めることはできないし、後からそれを取り戻そうとしても、倍以上の労力がかかるし、必ず取り戻せるとは限らないのだから……

 仕事に対する努力、人付き合いに対する努力、そして容姿に対する努力。服飾関係の仕事を引退したルイは、今は年金と40年以上コツコツと貯めつづけた貯金による生活だ。そして、気のあう友人とだけ、たまに会いゆったりと、日常を送っていた。

 今、彼女が泊まっている「ぺんしょん えくぼ」には、本来、長年の気の合う女性の友人とともに泊まる予定であったが、家庭持ちであるその友人の都合がつかなくなり、1人で泊まることとした。

――子供や孫がいると、なかなか泊りがけの旅行なんていけないわよね。まあ、1人でもゆったり過ごせればいいわ。今までの人生、1人でいることの方が多かったんだし。今年の正月すぎに中学校の同窓会に参加したけど、思ったよりも多くの人がすでにあの世に旅立っていた。死は遠いところにあるかと思ってたけど、そうでもないわね。

 ルイは腕時計をつかみ、目を細めた。老眼が進んでいるも、時計の針を読み間違えることのないよう、2本の針が示している時刻を正確に確認する。

――もうすぐ、着くわね。あのペンション、なかなかにいいところね。宿泊費はリーズナブルで食事も美味しいし、従業員たちの教育も行き届いているようで、今のところ、不快な思いなどはしていないし。ただ、近くの部屋に泊まっている若い子たちの騒々しさはちょっと気になるところだけど。まあ、あれが若さってものなのかしらね。


 笹山之浩がペンション裏の雑草を刈り取っている間、由真はペンション前の掃き掃除をすることになった。「裏の草刈は、いつもやっていることだし、俺がやりますよ。」と之浩が胸をはるようにして、由真に言った。

 一番太陽が高く上っている時刻はとうに過ぎていたも、直射日光はまだジリジリと音を立てて、由真を焦がすかのようであった。

 暑いけど長袖と日焼け止めの準備を万全にしておいて良かった、普段は日焼けよりも他のことが気になっているからなあ、と由真は思った。

 由真が小学生だったころに、真理恵は高校生であった。真理恵は、化粧をして学校に通うなどということはしてはいなかったが、その肌の白さを守るために、紫外線対策や角質のケアにはいろいろと気を使っていた。確かに守る価値のある美しい肌だ、と由真は子供心にも感じていた。だが、由真が真理恵と同じ年頃になったころ、由真は紫外線対策はそこそこに、服(真理恵のようにスカート等は履かずにパンツルックがメインだったが)やアクセサリーの方にに興味を持つようになっていた。自身の顔は1つしかないけれども、その顔に彩りを与えるピアス集めは、由真の趣味の1つであった。


 突如、車が近づいてくる音が聞こえてきた。

 由真は箒を手にしたまま、その音の方へと振り返り、首を伸ばした。

 それは、父・卓蔵の会社のロゴが入った白い公用車であった。そして、その助手席には真理恵が乗っていた。運転席では由真も見覚えのある若い男性がハンドルを握っている。

 助手席の真理恵がペンションの入り口にいる由真の姿を認めて、パッと顔を輝かせた。

 真理恵が車から下りた時、照りつける太陽の下にいる真理恵の肌の透明感が一層増したように由真には感じられた。



――私はなんでこんなところに来ちゃったんだろう。

 ペンションの階段を下りた駒川汐里は、もどかしい苛立ちに後ろをクルッと振り返った。彼女の後ろにいるのは、自分の彼氏であるはずの滝正志と自分の親友であるはずの鈴木梨緒である。

 正志と梨緒は笑いあっていた。梨緒が正志の肩に触れる。正志はそれを嫌がる風でもなく、ごく自然に受け入れている。親友の彼氏に対しての過度なボディタッチ。

――ねえ、梨緒、普通、人の彼氏にはそんなことしないんじゃないの。それに、いつも、あんた私のこと親友って、初対面の人とかにも紹介してるし。親友が嫌な気持ちになっていることに早く気づいてよ。ねえ、正志、あんただって、私の彼氏でしょ。なぜ、彼女以外の女と必要以上に仲良くできるの? それも私の目の前でなんて……

 汐里は唇を噛みしめた。ぶつかり合った両の奥歯がカチと音を立てる。

――もしかしたら、本当のカップルは正志と梨緒であり、私は梨緒たちの背徳感を際立たせるためのただのスパイスとして、ここにいるんじゃ……ああ、もう! このペンションに遊びに来ることを断ればよかった。友達って何だろ、彼氏って何だろ…… 誰も私のことなんて大切に思ってないんだろうな。本当のことを知るのが、怖いよ…

 梨緒と正志の後ろからは、桜井朋貴が大あくびをしながら、下りてきていた。

 駒川汐里、鈴木梨緒、滝正志、桜井朋貴の4人は同じ大学のゼミを履修していた。汐里と正志は恋人同士であるが、梨緒と朋貴はただのゼミ生という関係であるため、汐里と梨緒、正志と朋貴という組み合わせで部屋に泊まっていた。

 朋貴はバイト先も梨緒と同じ焼肉屋であるらしく、梨緒に誘われたこのペンションに深く考えることなくやってきた。ただ、それだけであった。

 桜井朋貴の外見は平均以上であり、人とのコミュニケーション能力も普通にあったが、人を引っ張っていくリーダーであったり、盛り上げ役として馬鹿ができるタイプでもなかった。汐里が朋貴と今までに交わした会話の中で、一番印象に残っているのは、朋貴の携帯の待ち受け画面に設定されていた彼の愛犬の白い犬についてであった。

 

 汐里のわずか数メートル先、ペンションの玄関の扉がチリンチリンという音を立てて静かに開いた。

 パリッとしたスーツ姿の男性と淡い色のスカートから形のいいふくらはぎをのぞかせている女性が姿を見せた。その女性を見た梨緒が、少しムッとしたことに汐里は気づいた。汐里は、梨緒のその表情の理由に検討がついた。女性が美人だったからだ。梨緒は自分の容姿に自信を持っているらしく、大学のミスキャンパスに立候補したこともあった。だが、自分たちの目の前にいるあの女性は、化粧や髪型、服装で底上げされていない本物の美人だった。服装の色味が薄く、デザインがシンプルであるため、余計女性が持つ本来の美しさが際立っていた。

 その女性の後ろから、エプロンを身に着けた小柄な女性が「姉さん」と姿を見せた。

――あの子は今日、初めて見るけど、エプロンを着けているということはここの従業員なのかしら? アルバイト? お姉さん(?)とタイプは違うけど、あの子も結構綺麗な子ね。年は私と同じくらいかな? 流れを生かしたショートカットといい、意思の強そうなちょっときつめの顔立ちといい、なんだか、個性的で美術系の大学に通ってそう。アーティストっぽい感じというか……あの子の背がもっと高かったら、モデルぽかったかもしれないけど、なんか惜しい感じするな……

 梨緒が汐里の腕をツンとつついた。

「ね、汐里、あのスーツ姿のシュッとしたメンズ、結構かっこよくない? できる大人の男って感じでさ」と小声で囁いた。

 梨緒は正志に聞こえないように汐里の耳元で囁いていたつもりだったらしいが、梨緒の言葉がばっちりと聞こえてしまった正志が頬をピクリとさせた。

 その正志の反応に、汐里は決して当たってほしくない想像が、これから先、非常に高い確率で当たってしまうことを予感し、彼女の胸は中心部よりメリメリと裂けていくかのように痛み始めた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る