第6話

「姉さん!!」

 由真は真理恵の両肩を必死で揺さぶった。真理恵は床に座り込み、ガクガクと身を震わせ続けていた。濃く長い睫に縁どられた瞳より涙を流し続ける彼女の口からは、「そんな……いや……隆平……いやよ……殺され……」という言葉――きっと彼女自身も止めることのできない言葉が幾度となく繰り返されていた。

「お嬢さん!!」と由真と同じく真理恵の肩をより強く揺さぶる白鳥学も、彼女のその様子より、あの化け物『殺戮者』が食堂に投げ入れた切断された人間の腕――そう、今はまるでテーブルから生えているようにも見えるグロテスクな腕が、彼女の元夫・吹石隆平のものであると理解した。いつもは憎たらしいくらいに自信に満ち溢れている学の顔も、今は突如襲い掛かってきた恐怖とこれから襲い掛かってくる恐怖で極限まで青くなっていた。

「白鳥さん……」

 由真が学の名を呼ぶ。そして、由真と学は互いに青ざめた顔を見合わせ頷いた。由真も学も声には出さなかったが、2人の考えていることは一致していた。一刻も早く車に乗って、ここから逃げよう。いや、逃げるべきだ、と。

――さっきのあの化け物は闇の中に消えた。奥さんを連れて外へと走っていったあの男性の言う通り、他のお客さんたちと同じように今のうちに車に乗って、逃げるのが一番だわ……そして、外に出たまま戻ってこない多賀さんと笹山さん……おそらく2人はもう……

 気を奮い立たせるように、その場に立ち上がった由真の脚はガクガクと震えていた。

――怖い。けれでも、姉さんを守らなければ……!

 学も、泣きながら震え続ける真理恵を両腕で抱きかかえて立ち上がった。ほんの数分前までなら、姉に懸想しなおかつ姉の体に触れた学に嫌悪の感情を由真は抱いたに違いないが、このような非常事態においてはむしろ彼に対して感謝の念が湧き上がってきた。

 唇をキッと一文字に結んだ由真は、自分のポケットの中に、自分が乗ってきた車の鍵が確かにあることを確認する。そして、外からは1台の車が盛大にアクセルを踏み込み、このペンションより逃げ去る音が聞こえた。

――お客さん達も無事逃げ始めている……私たちも……!

「白鳥さん! 私の車が一番近いところにあるはずです。私が車を運転します! だから、姉さんを……」

「分かった! 俺がお嬢さんを必ず車まで……」

 学の言葉がまだ言い終わっていないその時だった。

 外より、女性のつんざくような長く甲高い絶叫が響いた。

「……あの声は……深田さんか?」

 学が真理恵を抱きかかえたまま、血の気を失った唇で呟いた。

――外で ”何が” あったの? まさか、深田さんが殺され……

 由真の視界は二重に重なりあい、ぐらりと傾き始めた。学の乱れ始めた息の音、真理恵のすすり泣く声が痛いほどに胸に突き刺さり、この状況に自分自身の精神を保てるかという試練に、全身がボロボロと脆く崩れ落ちていくようだった。

 だが、季実子の絶叫が聞こえた数十秒後に、2台目の車が逃げ去る音が聞こえてきた。

――車の音? まさか、あの化け物が車を運転するなんて思えないし、他に逃げることができたお客様もいるんだ!

 由真と学は、もう一度顔を見合わせ頷きあった。私たち(俺たち)にも一刻の猶予はない、と。

 手に車の鍵を強く握りしめ、真理恵を抱きかかえた学とともに玄関に向かって、数歩駆けだした由真は思う。

――この食堂にいたお客さんたちは、おそらく全員逃げることができたんだと思うわ。 全員……え? 違うわ! お客さん全員じゃない! まだ、もう1人、このペンションに残っている!!!

 由真は思わず、喉からかすれた悲鳴を発していた。「どうしたんだ!」と学が飛びあがって驚いた。

「まだ、まだもう1人、お客さんが残ってるんです!」

 銀幕の女優を思わせるあの美しい婦人、根室ルイがまだこのペンションの自室に(この殺戮の始まりも知らずに)残っているという重大でこの身をさらに震わせる事実に、由真は気づいたのであった。 



 走る車の後部座席にいる駒川汐里のすぐ隣で、多賀准一と自身の血で血まみれとなっている笹山之浩はゴホゴホとせき込みながら、口から血を吐いていた。夜の闇の中でも、之浩の全身の皮膚は次第に色を失ってしまい始めているのが汐里にはなぜか見えた。慌ててかがみこんだ汐里は、車の中に置いてあった薄手の座布団を、気休めとも思える止血のために、之浩の両膝の後ろに押し当てる。座布団だけでなく、車のシートも、汐里の震える手も之浩の血に濡れていく。

 そして、車を運転する肥後史彰も、後部座席より聞こえる之浩の呻き声にその肩を震わせていた。

――あの人、あの化け物に一体、”何を” されたっていうんだ……

 あの時、血だらけで呻いていた之浩の隣には、首と胴体を切断された多賀准一の遺体があった。その光景を見た深田季実子は気が触れたようになり、准一の首を抱き上げ、喚きながら闇の中へと消えていった。

 汐里と史彰はまだ息のあった之浩を2人がかりで急いで肩に担ぎ、車に乗せた。彼を一刻も早く、救命措置のできる病院へと連れていこうと、車を走らせていた。それしか、彼女たちにはできなかった。そして、超絶に運の悪いことに、史彰は携帯を食堂のテーブルの上に置きっぱなしに、汐里は車に乗る前の様々などさくさで携帯を落としてしまったらしかった。

 タクシーに乗ってこのペンションまでやって来た史彰は、ここに来る途中に大きな総合病院らしき建物を見たことを思い出す。彼は、そのおおよその場所は思い出すことはできた。「だが、まずここから逃げて町に下りなければ」と、史彰は汗ばむハンドルを握りしめた。

 史彰はもともと車の運転がそう得意というわけでもなく、しかもこの車は他人の物であり、扱いなれているはずもなかった。手の内のハンドルは重く、だが、足の下のアクセルやブレーキは妙に軽く感じられた。でも、仲の良い友人に置いて逃げられ生への希望を失っていた女の子に、車を運転させることなどできなかった。史彰が車の鍵を見つけなかったら、きっと彼女は今もあの土の上に――あの化け物に自らその首を差し出すかようにへたり込んでいるままであっただろうとも。

――今は、俺のこの両腕にかかってるんだ、史彰。頑張るんだ。

 乱れ始めた息を吸い込んだ史彰はアクセルをさらに踏み込んだ。


 速度をさらに上げた車の中で、汐里は身を上げて振り返った。だが、自分たちの乗った車に続く車の姿は見えなかったし、音も聞こえなかった。

――ペンションにはまだ人が残っている。あの2人の姉妹と梨緒がかっこいいって言ってた男の人が……

 汐里は自分の手を濡らしていく之浩の赤い血――闇の中では黒くも見える血を見た。一瞬、残酷な映像が彼女の中に浮かんだ。

 あの食堂は血の海となり、そのなかで倒れている姉妹と男性……だが、彼女たち全員の首はなかった。あの化け物が3人の首を、いや闇の中に走っていったあの中年女性との4人分の首を持って、この世のものとも思えない不気味で凄惨な笑い声を高らかにあげている映像が――

 嘔吐が込み上げてきた汐里は口を押えた。涙が彼女の切れ長の瞳に盛り上がってきた。

――置いて逃げちゃって、ごめんなさい。でも、どうかあの人たちも助かっていますように……

 汐里は両手を合わせた。苦痛を伴うこの罪悪感により、自分の胸に爪を立てるかのごとく掻き毟りたかった。そして、汐里は再び屈みこみ、之浩の両膝の裏を血が染み込んでいない別の座布団で押さえた。彼女は車が走っている前方に、決して顔を向けないようにしていた。

 はるか前方には、自分の前で手をつなぎあって、自分を置いて逃げた恋人と親友が乗った車が走っているという、込み上げてくる悲しみより自分の目と心を逸らすために。



 新田野道行が運転する車の後部座席の右側で、鈴木梨緒は後ろを振り返った。だが、後ろには自分たちに続く、汐里が乗っているであろう車のライトは見えなかった。

 梨緒は隣に座る正志の手をギュっと握った。

「……ねえ、正志……大丈夫よね、汐里は……あの1人でいたおじさんや、ペンションの人達と一緒に逃げてるわよね……汐里は殺されちゃったりなんかしてないわよね……」

 自分で自分に言い聞かせるような彼女のその声に、正志は視点の定まらない目で顔を前に向けたまま、彼自身も自分に頷くように「……ああ」と呟いた。

 梨緒も正志も互いに無言となっていた。

 汐里を――親友(彼女)を置いて自分たちだけで逃げたということ。自分たちの身に命の危険、それもあの腕の持ち主のようにおそらく惨たらしく殺害されるであろうという、自分たちに向かってきていた恐怖の波は今はとりあえず遠ざかり、あと少し車を走らせれば町に出ることができ、きっと助かるに違いない新田野夫妻の車の中という「安全地帯」に自分たちはいる。

 今になって梨緒も正志も、自分たちが先ほどしでかした裏切り(彼女たちは以前より汐里をずっと裏切り続けていもいたが)が十字架のように重々しく背中にのしかかってきていた。

 後部座席で沈みゆく梨緒と正巳と同じく、運転席の新田野道行と助手席の新田野唯の2人も無言のままであった。

 道行は走り慣れた車のハンドルを握った。その手は彼にしてはかつてないほど汗で濡れていたし、助手席の唯の肩や膝もかすかに震えているのが分かった。

 道行は思う。

――友達を置いて逃げたことで気がとがめているんだろうな。後ろの2人は……でも、あの状況じゃ仕方ない。冷たいようだか、仕方ないことだ。自分の命を第一に考えなければいけない。でも、俺だって唯や自分の親が『あいつ』に殺されそうになっていたら、自分も殺されることが明らかでも『あいつ』に向かっていくかもしれない……だが、今は唯は俺の隣に確かにいる。俺も唯も『あいつ』の手にかかることもなく、もうすぐ町まで逃げることができる。俺にできることは、一刻も早く町に下りて……

「そうだわ!」

 隣の助手席にいる唯がハッとし、持ち歩いていたミニバッグに手を突っ込んだ。

「警察を……いや、消防? どちらでもいいわ! 早く連絡しなきゃ!」

 彼女の手がミニバックの中の、財布、手帳、ハンカチ、ウエットティッシュ、鏡、口紅を掻き分け、携帯を掴んだ。彼女も道行と同じく、自分にできることは、今ペンションで生き残っている人達たちを1人でも多く助けるために、外部からの助けを呼ぶことであると思った。

 唯のみならず、この車の中にいる全員(運転中の道行も含め)が携帯を持っていたが、何より目の前の恐怖――あの醜悪な化け物より遠ざかることに頭の大半を占められていため、外部との連絡がとれる携帯の存在を思い出すのに時間を要していたのであった。

 暗い車内に唯の携帯が発する光がぼうっと浮かびあがった。唯の綺麗にネイルアートされた指も、道行と同様に今は少し湿って震えていた。

 けれども――

「きゃああ!」

 唯は自分の視界の隅、車のサイドミラーに映っている光景に、数字の「1」を押しただけの携帯を座席下へと落としてしまった。

「どうしたんだ!」

 道行が声を荒げた。後部座席の梨緒と正志が震えあがり、互いに身を寄せ合った。

「……『あいつ』が! ……『あいつ』が!」

 恐怖で極限まで引き攣った顔の唯は、乱れる呼吸を整えるためか、自分の胸のあたりを押さえたものの、さらに呼吸は乱れ始めた。

 道行はバッグミラーを確認した道行が見たものは、最悪でしかなかった。しかも、その最悪――あの化け物――『殺戮者』はもっと最悪なことを自分たちに引き起こそうとして、目を爛々と輝かせ、自分たちの車を追いかけてきているのだ。

 車のバッグライトに照らされた細長く青い皮膚を持った肢体で、弾けるような足取りで、萎びて垂れ下がった裸の乳房をバルンバルンと左右に揺らし、裂けてめくれあがった唇からは涎がほとばしり、後ろに尾を引いていた。

「くそっ!」

 道行はアクセルをさらに踏み込んだ。だが、車の速度を上げたはずなのにあの『殺戮者』との距離は徐々に縮まっていっているのだ。

――車よりも速い!? 追いつかれる! 殺される!!

 後部座席の梨緒たちも迫りくる「殺戮者」に、車内には絶望の悲鳴と泣き声が重なり合うように響いた。

 そして、ついに「殺戮者」は車と並走していた。走る車の左側より、獲物を狙うその目をさらに輝かせ、車の中にいる者たちを覗き込んだ。

「ギャ――――!!!」

 後部座席の左側にいた正志が絶叫し、隣の同じく悲鳴をあげ続けている梨緒にしがみついた。彼の股間は生温かいもので一気に濡れていく。

 正志のその絶叫に『殺戮者』は笑みを浮かべ、走る車のトランクパネルに、いとも簡単にひらりと身軽に飛び乗った。


 車より『殺戮者』を振り落そうと道行が唸り声をあげ、右に左にハンドルを切り、車は対向車線を飛び越え、または戻り猛スピードでジグザグに走った。だが『殺戮者』は、その外見通り化け物じみたバランス感覚を持っているのか、車のトランクパネルに乗ったまま、涎をたらし舌なめずりしてこっちを見ていた。

 バッグミラーに映るその『殺戮者』のあまりの醜悪さに、道行もついに絶叫しそうになった。隣にいる唯は顔を覆ったまま、「助けて、神様!」と身を屈ませていた。

 『殺戮者』は自身の拳をバックドアガラスに打ち付けた。蜘蛛の糸のようなパッとヒビが入った。それに気を良くしたように、さらにもう一度拳を打ち付ける。

 すさまじい音とともに、後部座席の梨緒と正志にガラスは降り注いだ。

「いやあああっ!」

 梨緒の絶叫。身をかがめた自分の首筋に、冷たい『殺戮者』の手が触れるのを感じた梨緒はその手を振り払った。

 そして、次のその手は正志の右頬に触れた。

「ヒイッ!」

 悲鳴をあげた正志であったが、次の瞬間、彼はもう悲鳴をあげることができなくなってしまった。

 それは、グチャ、グチャという小刻みに連続した2つの音とともに、殺戮者の手が彼の右頬から左頬を貫通したためであった。

 正志は即死ではなかった。「……あ……が……」とかすかに声を発し、後部座席のドアへと頭からぶつかるように、その身は崩れ落ちた。

 今の光景を全て見てしまった梨緒は目をひんむいて、喚いた。その声はもはや、悲鳴とは形容できなかった。そのうえ、梨緒は『殺戮者』が青いその手より正志の真新しい血を滴り落とし、次の獲物である自分を見ている光景から目を離すことができなかった。彼女は狂ったように喚き続け、後ろ手で車のドアをガチャガチャとさせた。

「馬鹿! ドアを開けるな!」と、梨緒がしようとしていることが分かった道行が叫んだ。けれども、車のロックはかかっていなかった。梨緒の体は勢いよく、外へと転がり、そして頭部よりガードレールに激突した。白いガードレールに赤い血がインクのようにパッと飛び散った。


 後部座席の鈴木梨緒と滝正志の死。『殺戮者』は車内に突き入れていた顔と腕を引っ込めた。でも、『殺戮者』はこれで殺戮を終わらせたわけでは決してなかった。走る車のルーフに移動した『殺戮者』がズシズシと足を進めている音が、道行にも唯にも聞こえたのだから――

 ついに、『殺戮者』は、フロントガラスにベタンと顔を押しつけ、上から覗き込んできた。

「うわああああああ!」

 道行は自分の人生の中で最大の悲鳴をあげていた。

――化け物! 化け物! 化け物! 化け物! 化け物! 化け物! 化け物! 化け物! 化け物! 化け物! 化け物! 化け物――

 彼のなかで、何度もその言葉が繰り返された。気味の悪い醜悪な笑みを見せて上から自分たちを覗き込み、恐怖よりも醜悪さが勝るとも思われる風貌の『殺戮者』を、必死で振り落そうと彼はなおもあきらめずハンドルを切り続けた。

「死ね! お前、死ねよ! 頼むから!」

 爛々と光る『殺戮者』の瞳の光の中に見えたのは闇であった。深く決して戻ることのできない、深淵がその奥にはあった。

「助けて! お願いだから、助けてえええ!」

 顔を覆ったまま、唯が絶叫した。

 唯のその声にニタリと笑った『殺戮者』は自身の左の拳を、フロントガラスの助手席側へと叩きつける。

 1回、2回、3回、4回……。先ほど、バッグドアガラスを右の拳で割ったときは、わずか2回で割れたものの、やはり『殺戮者』も右が利き腕なのだろう。ガラスの破片を、新田野唯と彼女をかばうように左腕を前に突き出した新田野道行に降り注がせるまでには、少しだけ手間取ったようだった。

「ああああっ!」

 顔を押さえたままの唯の両手の甲や腕にガラスの破片が突き刺さった。そして、「唯!」と叫んだ道行の顔や腕にも――

 割れたフロントガラスから流れる生温かい風が、唯と道行自身の血の匂いを彼の鼻孔まで運んできた。『殺戮者』は血だらけとなった唯をニヤニヤとしながら、覗き込んだ。だが、ふと、その笑みが消えた。

 唯の顔を見て、何かに気づき、ハッとしたような――

 そして、『殺戮者』は殺戮を完了していないにも関わらず、走る車よりひらりと身を翻した。

 道行たちが殺戮を免れることができたと、わずかに安堵したのとほぼ同時だった。

「道行!」と唯の悲鳴。道行は慌てて車の進行方向に視線を戻した。

 だが、時はすでに遅かった。道路はカーブに差し掛かろうとしていた。白いガードレールがどんどん近づいてくる――

 道行がハンドルを切りなおす間もなく、彼らの車はガードレールを突き破り、崖下の闇へ向かって回転しながら吸い込まれていった。

 その闇の一番底まで彼らの車が落ちた時、爆発音とオレンジ色の炎が立ち上がった。それはすなわち、新田野道行と新田野唯の死であった。



 新田野夫妻と全く同じ道で車を走らせ、もうすぐ同じカーブにさしかかるであろう史彰と汐里にも、今の彼らの死を示すその爆発音は聞こえていた。

「……今の音は一体……?」

 汐里は感覚がなくなりかけている唇で呟いてしまっていた。

――何の音なの? まさか、梨緒や正志が乗っていた車に、何かが……? もしかして、あの化け物が先に逃げた人達を待ち伏せていたとでもいうの?

「……前に誰かが倒れている……」

 ハンドルを握った史彰が唾を飲み込むように呟いた。強烈な恐怖が再びぶり返した汐里であったが、後部座席より進行方向を確認する。

 確かにガードレール近くで誰かが倒れている。ドッドッドッと動悸の早くなる心臓を押さえた汐里は、後部座席の窓より倒れているその者が誰であるのかを覗き込んだ。

「……梨緒?」

 汐里の目が映し出したのは、ミニスカートよりショッキングピンクの下着丸出しで事切れていた鈴木梨緒であった。はっきりとは見えなかったが、彼女の頭部は潰れ、ガードレールには血が飛び散っていた。

――梨緒たちは無事逃げられたわけじゃなかったの?!

「……殺られたんだ……先に行った人たちも……」

 史彰が呻いた。

 そして、先ほどの爆発音の発信源となった場所も近づいてきていた。史彰にも汐里にも、崖下より立ち上がっているオレンジの炎が見えた。その炎を背景に、まるで地獄の鬼そのものである『殺戮者』が立っていることも――

 汐里が絶望の悲鳴をあげた。史彰も「ぐああああ!」と吠えた。血を吐き続ける笹山之浩の苦し気な声もそれらに重なった。


――駄目だ! 逆走するために、ブレーキをかけるのは、この速度では、もう間に合わない! あいつにこのまま突っ込むか?! いや、そうなると、俺たちも崖下に真っ逆さまだ!

 『殺戮者』は、史彰たちに向かってスタンディングスタートを切るかのようなフォームで、身構えていた。『殺戮者』の顔は見えなかったが、その全身から発されているその「殺意」だけは、史彰にも後ろの汐里にもはっきりと感じ取れた。

 そして『殺戮者』はついにスタートを切った。

――駄目だ……もう、駄目だ――!

 「死」までの距離は徐々に縮まっていこうとしていた。


 『殺戮者』が新田野夫妻たちの乗った車を襲撃していた時。

 ペンション内にまだ客が残っていたことに気づいた由真は、フロントのマスターキーをつかみ取り、階段を三段いや四段飛ばしで駆け上がっていった。 根室ルイの部屋へと走る、由真の脚はもつれあい、転びそうになった。

――あいつが、このペンションに入ってくる前に、あのお客さんも連れて逃げなければ!

 由真は根室ルイの部屋のドアを乱暴に音を立てて開けた。ドアの鍵口に鍵は差し込んだままであった。

「お客様! 起きてください! お客様!」

 由真は必死で根室ルイの肩を揺さぶり、彼女の耳元で大きな声を出した。だが、もともとルイは眠りが深い体質なのか、なかなか目を覚まさなかった。

 ルイの彫りの深い美しい寝顔は、一見すると人形のようにも見えた。わずかに弛み皺が見える化粧気のないその顔には、彼女が本来持っている自然な色味は残っていた。 

「起きてください! 逃げなきゃいけないんです!! お客様!!!」

 ルイはようやく自分の眠りを妨げる者の存在に気づいたらしく、その眉根を寄せた。そして、いやいやをするように首を振った。

「お客様!!」

 由真の悲鳴のような呼びかけが、階下――階段のすぐ下に立っている学と真理恵にも届いた。


 学の腕に抱かれていた真理恵であったが、由真が階段を駆け上がっていくのを見て、わずかに正気を取り戻したようだった。気丈に立っている彼女の身は震え続け、瞳からはまだ涙がつたっていたが。

 由真の繰り返される呼びかけを階下で聞いた学は舌打ちし、真理恵の腕を強引に引っ張り上げながら、彼女ともに階段を駆け上がった。

「早く! 何、やってるんだ!」

 ベッドに上体を起こしているルイは、眠け眼のまま、部屋に飛び込んできた学を見た。

「あら、いい男」

「ふざけている場合ですか! さあ、早く!」

 学がルイの腕を掴んだ。彼女は自分の腕を掴むその強い力に、やっと現実へと引き戻されたようであった。

 そして、根室ルイは羞恥とわずかな怒りの表情を見せた。就寝中の部屋にいきなり入ってこられ、家族でもない者に寝起きの姿を見られた、そして自分の口がつい出てしまった今の言葉を聞かれてしまった。顔を紅潮させたルイであったが、年長者の威厳を見せるために「あのねえ、あなたたち……」と落ち着いた声を出して、由真たちに向き直った。

 だが、聡明なルイは由真たちの表情より異常な事態が起こったことを悟った。

「人を殺した化け物がいるんです! 早く逃げましょう!」

 由真が息を切らせながら、言った。

「化け物って?」

「信じていただけなくても構いません。とにかく一刻も早く町へと逃げましょう! 後のことはそれからです!」

 そう言った学は再び傍らの真理恵の手を取った。由真がルイの手を取り、ベッドより立ち上がらせた。パジャマ姿のルイは、部屋にかけてあったサマーカーディガンを急いで手に取る。ブラジャーをしていなかったため、揺れて衣服にこすれる乳房が落ち着かなかったが、由真たちから発せられている尋常でない恐怖を感じた彼女は由真たちに手を引かれ、部屋を飛び出した。


 階下に降り、学と先頭に玄関へ向かう4人。

 玄関の扉は、少しばかり開いていた。そして、中に吹き込んでくる生温かい風が、錆びた鉄のような匂い、すなわち血の匂いを運んできていた。玄関上に備え付けられている鈴が、チリチリと小刻みに音を立てている。

――もしかして、『あいつ』はこのペンションの中に入ってきているの!?

 由真だけでなく、全員の足がその場でギクリと止まった。玄関まではわずか3メートルほどの距離だ。誰の物ともしれない、唾を飲み込む音が聞こえた。

 次の瞬間、玄関のドアが勢いよく外から開かれた。

「わあっ!」

「きゃああ!」

 飛び跳ねて後ずさった全員の目の前にいたのは、あの『殺戮者』ではなく、深田季実子であった。

 季実子の生存という事実に安堵した由真たちであったが、アイラインが涙で頬にまで流れ、虚ろな表情でブツブツと何かを呟いている季実子がその両手に持っている物に気づき、再び全員が悲鳴をあげて後ずさった。

 季実子の真っ白で真ん丸とした両手の中にあるのは、目、鼻、口の全てから下へと向かう血の筋を残し、苦悶の表情を浮かべている多賀准一の生首であった。

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