第7話

 突如開いた玄関の向こう側にいたのは、『殺戮者』ではなく深田季実子であった。

 季実子の虚ろな瞳から、美しいとも形容できる一筋の涙が流れ、彼女が抱えている多賀准一の頭部へとポタリと落ちていった。

「准さんが何も答えてくれないの……」「准さん、いつになったら目を覚ますんだろう……」「私は准さんのこと、大好きなのに……」

 彼女は由真たちに向かって、フラフラと歩みを進め始めた。半ば精神が崩壊しかけているその季実子に、全員が慄き後ずさった。

 だが、白鳥学が季実子に向かって恐る恐る手を伸ばした。

「……深田さん、多賀さんはもう亡くなってます……一緒に早く逃げ……」

「どういうことなの? ……准さんは死んじゃったってこと?」

 季実子のその問いに学だけでなく、その場にいる誰もが答えることなどできなかった。季実子はさらに冷たくなりつつある准一の髪を優しくそっと撫でた。

「……准さんが死んだりなんてするはずなんてないわ……だって、私たちこれからもずっと一緒に生きていくんだもの……私たち、やっと運命の人に出会えたんだもの……」

 季実子の心の年齢だけが、40年以上も逆行したかの如く、彼女は准一の生首を大切な人形やぬいぐるみであるかように、胸にギュウッと抱きしめたのであった。

 今がこんな状況でなければ、季実子の手にあるのが切断された人間の頭部でなければ、青春時代はとうに過ぎ去り今は中年のさなかにある女性のいじらしさを感じさせたのだろう。

 けれども、今はもう一刻の猶予もない。由真も恐る恐る口を開いた。

「……深田さん……多賀さんと一緒に逃げましょう。早くしないと、あいつがこのペンションに戻ってくるかもしれないんです」

 季実子をこれ以上刺激しないように、由真は多賀准一がまだ生者であるものとして、彼女にかける言葉を選んだ。

「そうですよ……深田さん、早く皆で車に乗りましょう。その方が、多賀さんだって喜びますよ」

 学も言葉を選び、かすれかけた声で、季実子を手招きするように手を宙に泳がせた。季実子の目がわずかに輝きを取り戻した。

「え? 准さんが喜んでくれるの? そうよね……やっぱり女の子は、大好きな人が喜んでくれることを一番に考えなきゃね! 駄目ね、私って、えへへ」

 准一の頭部をもう一度抱きしめなおした季実子は、満面の笑顔を由真たちに見せた。『殺戮者』からの襲撃という由真たちの全身をかけめぐり続けていた恐怖に、壊れかけた人間を目の前にしているという新たな恐怖がたっぷりと塗り重ねられていく――

 由真だけでなく、誰もが叫びそうになっていた。ルイは口元を押さえ季実子から顔をそむけ、真理恵に至っては卒倒しそうなのを震える脚で必死に耐えていた。

 季実子とのこの一連のやり取りは時間にしたら、わずかであっただろう。

 だが、いつ襲い掛かってくるかもしれない、あの『殺戮者』の影におびえている由真たちの、恐怖で張りつめていた糸も今にも切れそうになっていた。


「外に行って車に乗ればいいのね?」

 季実子が少女のように小首をかしげ、学に聞く。

「……ええ、今のうちに……」

 その時だった。玄関の上、小さな屋根が備え付けられている箇所より、細長く青い手がにゅっと伸びてきて、季実子の首を片手でガッと掴んだのだ。

 ぐげえ、と季実子の喉が鳴った。

 彼女の大切に抱きしめていた准一の頭部が、ボトン、と床に落ちて転がった。


 『殺戮者』は上に潜んでいた。

 彼女は、町へと続く道路にて、車で逃げてくると”思っていた”獲物を待ち伏せていたが、一刻も早く獲物を殺すためにこのペンションまでの道を再び駆け上がり、そのチャンスを狙っていたのであった。


 誰のものか分からない絶叫が響き渡った。

 真理恵のものだったかもしれないし、ルイのものだったのかもしれない。もしかしたら、由真自身の口から発せられたものかもしれなかった。全身の毛穴がざあっと開き、これ以上ないくらい鳥肌だった肌の上を汗とは違う何かが流れていった。

 由真たちの眼前で、首を支点として宙に吊られた季実子の両脚がバタバタともがいた。

 口を開けたまま、後ずさった由真の手が近くの棚の木彫りの置物に触れた。由真は感覚がなくなりかけている手で、その置物をバッと取り、季実子の首を締め上げている青い腕に向かって投げた。

 それは鈍い音を立て見事命中したものの、『殺戮者』の細い腕をゆるめる役割は全く果たさず、ゴトンと床に落下しただけであった。

「……じゅ……さん……」

 首を締め上げられてたはずの季実子が発した最期の言葉が由真には聞こえた。口からゴボッと血を吐き、季実子のもがきは止まった。

 愛する人と同じく『殺戮者』の魔の手に首を掴まれた深田季実子は、今、死んだ。

 

「逃げろ!」

 学が叫んだ。

 『殺戮者』はひらりと身を翻し、床にドサリと落ちた季実子の死体を軽々と飛び越え、自分から逃げようとする獲物の後ろ姿を見て、嬉しそうに歯を鳴らしていた。


――ジンセイノチョウジリハココデキチントアワセナキャ、”アンタ”ナンカ……


 この時、『殺戮者』の心の内にある感情には、由真にも、そして真理恵にも聞こえはしなかったし、分かるはずもなかった。


 フロントを通り過ぎ、1階の客室の廊下を必死で逃げる由真たちに重なり合う『殺戮者』のバタバタという足音が次第に大きくなってくる――


 1階の廊下の突き当たりには、小さな――といっても標準的な体型の成人男女が通れるくらいの大きさの突き出し窓があった。

「どいてろ!」と学が窓のすぐ下にあったコンソールテーブルを掴んだ。上に飾られていた花瓶がけたたましい音を立てて、床で砕けた。

「くっそお!」

 学がコンソールテーブルを窓へと振り上げた。

 砕かれた窓ガラスが外へと飛び散った。けれども、『殺戮者』はすぐそこまで――それこそ由真たちまでわずか5メートルほどの距離に迫ってきていた。

 爬虫類に近いような触感であろう青い皮膚につつまれ、天井に届きそうなほど細長い体躯。『殺戮者』の耳に近いほどに割けた赤い唇から、粘り気のある涎が床へと滴り落ちた。

 由真は目の端に映った廊下に備え付けの消火器に素早く駆け寄った。予測していたより数倍の消火器の重さが由真の手にかかる。安全栓をバッと引き抜いた由真は、ノズルを掴み、レバーを強く握った。

 ブシュウウウという音とともに、放射された液が『殺戮者』の乳房と腹を濡らし、波打たせた。


「ぐぎゃああああ! ぎゃぴいいいい!」


 奇妙な悲鳴をあげ、『殺戮者』は悶えた。

――駄目だ! 目を――!

 『殺戮者』の視界を潰そうと由真が腕を上げようとした時、「貸せ!」と学が消火器をもぎ取った。


 消火器の放射時間は1分未満であった。

 だが、その顔だけでなく、全身に放射液を浴びている『殺戮者』は身をクネクネとよじりながら、悲し気に雄たけびともいえる奇妙な声をあげ続けていた。

 そして――

 ついに『殺戮者』はぐっしょりと濡れたその全身を翻し、玄関へと逃げていったのだ。


 学の手から空になった消火器がガランと転がった。ルイはホッとしたように、背後の壁に背をもたせかけ、荒い息を落ち着かせるように宙を仰いだ。由真と真理恵は、「姉さん」「由真」と互いに強く抱きしめあった。

――あいつは逃げていった……私たちは助かったんだ……でも……

 真理恵の体温を腕の中で感じながら、由真は考えずにはいられなかった。あの『殺戮者』は義兄・吹石隆平をおそらく殺害し、彼の腕を切断までして、それを自分たちに誇示するために食堂へと投げ入れた。管理人の多賀准一も殺害し、姿の見えない笹山之浩もおそらくその手にかけているはずだ。そして、由真たちの目の前で深田季実子までも殺害したというこの事実。

――何人もの人を殺したのに、なぜ、消火器の放射”ぐらい”で逃げていったの?

 惨い殺戮にも関わらず、獲物からのその何パーセントにも満たない反撃に、逃げていった。生じた矛盾。反撃に恐れをなしたのか、それとも消火器を、いや消火器を放射するという行為に何かを思い起こさせたのであろうか。

 ルイが壁に背をもたせかけたまま、あえぐように呟いた。

「……”あれ”は一体、何なの?」

 学も肩で息をさせたまま、答える。

「……分かりませんよ。ただ、助かったということしか……」

 由真も真理恵もさらに強く抱き合った。由真の瞳からは安堵の涙が滲み始めていた。それは、真理恵も同じであった。割れた突き出し窓からは、生温かな風が吹きこんできた。

「先に山を下りていったお客様たちがきっと助けを呼んでくれるはずです……それまで、やっぱりどこかに全員で隠れていた方がいい。油断は……」

 その時、ガラスが割れる音が聞こえた。外からガラスが割れる音が。ルイが背中をもたせかけている壁のすぐ近くの客室のドアの中から――

 ダダダ、と床を蹴る音とともに、その客室のドアがバン! と開いた。

 青く細長い腕がバッと飛び出し、近くにいたルイの右腕をガシッと掴んだ。


 一旦退散した『殺戮者』であったが、ペンションの外にてグルリと回り込み、外から客室の1つに侵入して来たのだ。まだ完了していない殺戮を再開するために。


 客間のドアからその全身を見せ、ルイの右腕を掴んだ殺戮者の手は、すでに他の犠牲者たちから流れた血が黒く残り、なお冷たく湿っていたもいた。

 殺戮の再開。悲鳴が月明かりに照らされた廊下に大きく響き、重なりあった。『殺戮者』は、ひときわ大きな悲鳴をあげるルイを吹き出し窓へと引きずっていく。

「やめろ!!」

 学が床の消火器を、由真と真理恵は2人でコンソールテーブルを『殺戮者』の背中へ向かって思いっきり投げつけた。

 『殺戮者』の骨ばった背中にそれらは命中した。だが、枯れ木のような体格であるにも関わらず『殺戮者』はびくともしなかった。そして『殺戮者』はフッと思いついたように掴んでいたルイの腕をパッと離した。即座に逃げようとしたルイの首根っこを掴み、割れた吹き出し窓の――天へと向かって鋭く光るガラスたちの上に彼女の両胸を叩きつけた。

 その尖ったガラスは、まだ充分にハリを保っているルイの両の乳房を、特に左の乳房を深く突き破ったのであった。突き出し窓より顔を外に出した形で固定されてしまったルイの口からは苦痛に満ちた呻き声があがった。喘ぐように呻きを続ける彼女の背中には、血の染みが瞬く間に広がっていく――

 『殺戮者』は首をグルンと回し、由真たちへと向き直った。

 『殺戮者』は泣いていた。口元を歪め、その鈍く黄色く輝く両の瞳から涙を流していたのだ。そして、その裂けた唇を動かした。


――アンタヲサイゴノヒトリ二シテヤル……ソノフタリヲサキニコロシ、ゼツボウノナカデシナセテヤル……


 『殺戮者』のその言葉を誰も聞き取れはしなかった。

 キエエエエエと奇声を発した『殺戮者』は、自身が現れた客室のドアへと駆け、またしても、夏の闇の中へと戻っていった。



 死出の旅へと向かう根室ルイが、この世での最後に見た夢。

 それは、とうの昔に取り壊されたはずの彼女の生家の縁側で、少女時代の自分が父親の膝に乗っている夢であった。

 懐かしい匂いのするこの夢の中では、庭にある桜は咲き誇り、父親が優しい眼差しで自分を覗き込んでいた。癌におかされ、病院のベッドの上でげっそりとやつれ果て、かれこれもう30年以上前に不帰の客となっていたはずのルイの父親であったが、彼女の頭を優しく撫でているこの今は、口ひげをたくわえ、つやつやと肌の血色も良く、黒い髪もふさふさとしていた。

 少女に戻っているルイは父親を見上げる。父親は、複数の子供の子育てに追われ時々ヒステリーを爆発させるルイの母親の尻にひかれてはいたが、「どこの家でもかみさんの方が強いもんだ」と大抵のことは笑って許していた。そして、子供の中で唯一の娘であり、利発で8才かそこらかのうちに町で「小町」とあだ名されるほどの美貌であったルイを父親は格別に可愛がってくれていたことも。

 父親はルイに向かって、何かを語りかけた。

「なあに? お父ちゃん」

 彼女は父親の目をじっと見つめ、問い返した。ルイの問いに何も返さず、ただ唇を結んだ父親の目からはみるみるうちに、涙が筋となって流れていく。

「どうしたの? お父ちゃん」

 父親はやはり何も答えないまま、ルイを抱きしめた。そして、困惑したままのルイの耳元で父親は囁いた。

――おかえり、ルイ――

 ルイの最後の夢は、そこでぷっつりと途絶えた。



 窓の外にガクリと首を垂れた根室ルイのその死に顔は、殺害された犠牲者であるにも関わらず、静謐なものであった。ガラスに胸を突き刺したまま、ダラリと床に向かって垂れ下がっているルイの手首を手にとった学は黙って、首を横に振った。 

 由真たちの目の前で、深田季実子に続き、根室ルイも『殺戮者』の手にかかってしまった。


「逃げよう……」

 色味を失いかさついた学の唇から、声が絞り出された。

 学を先頭に、由真と真理恵は互いに手を繋ぎあい、再び玄関へと向かう廊下を駆け出した。

 由真は自分のポケットの中に車の鍵が確かにあることを確認した。ペンションの自分の部屋に置いてある鞄の中には携帯が、食堂には包丁など武器となるものが置いてある事実が頭の中をよぎっていく。だが、それらを取りにいっている余裕などあるわけがない。そして、このペンション内に隠れて息を潜めたまま、おそらく先に町へと着いたはずの客による助けなどを悠長に待っていられるはずもなかった。

 そのうえ、由真、真理恵、学の全員が、根室ルイを殺害した後、すぐ自分たちが近くにいたにも関わらず襲い掛かってこなかった『殺戮者』の狙いを理解していた。

 それは――


 多賀准一の頭部と深田季実子の死体を横切り、ペンションの外へと思い切って勢いよく飛び出した由真たちの前では、夏の夜の闇と血の匂いを含んだ静寂が広がっていた。

 『殺戮者』の姿が前にも横にも上にもいないことを定まらない視界の中で確認し、由真の車へ向かって駆ける3人の背後で、もう誰一人として生者がいないペンションの食堂からの明かりが追いかけてくるかのように煌々と輝いていた。

「きゃあああ!」

 突如、真理恵が悲鳴をあげて口を押えた。由真と学は、彼女の視線の先にあるものを見て、喉を互いに大きくならし、顔をそむけた。


 そこにあったもの。それは、頭部のない多賀准一の死体であった。彼の周りの草や土の上が血で”黒く”濡れていることがこの闇の中でも分かった。

「姉さん! 早く!」

 由真が真理恵の冷たく湿った手を引っ張った。真理恵も由真の冷たく湿った手に引っ張られ、車へと走る。心臓はかつてないくらい早くそして強く脈打ち、全身の肌が夏の熱気や自身の汗ではない何かに浸され、ねっとりと包まれていた。

「俺が運転するから、お嬢さん、鍵を!」

 学に素早く車の鍵を渡した由真は、真理恵とともに後部座席へと飛び込む。ほぼ同時に学が運転席のドアを閉め、鍵を差し込み、ハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ。


 後部座席で由真と真理恵は震え続ける体を寄せ合い、手を繋ぎあっていた。肩で息を整えた由真はわずかに身をそらせ、後方を振り返る。そこには自分たちを嬲り殺すために追いかけてくる『殺戮者』の姿はなかった。由真は身を屈ませて、真理恵にしがみついた。

「由真……」と真理恵は苦し気に唇から息を吐き出した。彼女の繊細に作られた細工のような睫は、涙で濡れて艶と重みを増しているようであった。

「……ねえ、あの化け物は私たちを……」

「駄目! 考えちゃ駄目よ! 姉さん!」

 由真は真理恵にさらに強くしがみついた。言葉では由真が真理恵をなだめてたものの、実際は真理恵が由真のじっとりと熱を持っている体をまるで守るかのように上から抱きしめていたのであった。


 車を走らせる運転席の学もバッグミラーに『殺戮者』の姿が映し出されていないことに、ほんのわずかばかり安堵した。だが、彼も由真や真理恵と同じく理解していた。これで終わるはずがないと。なぜなら、あの『殺戮者』は―― 

 アクセルをさらにグッと踏み込んだ学は、大きく息を吐き出した。

――必ず、”あいつ”から逃げきって見せる。みすみすと殺されてたまるものか! 俺はこんなところで、そしてこの若さで終わるような男じゃない! 俺は絶対に……!

 

 白鳥学。彼は幼い頃より、人の注目を浴びる存在であった。

 だが、彼には人より遥かに突出した特技や運動種目があったわけでない。勉強も運動もトップではないが平均より数段上、それこそ彼が所属しているテリトリーの二番手ぐらいに位置するものであった。だが、彼の清潔感あふれるルックスが、彼の評価をグッと引き上げていたのだ。

 要は、ABCと3つの科目があるとしたら、AとBが40点でCだけが100点の男よりも、ABCの全てで85点を取っている学の方が、ずっと注目を浴び、(特に女からの)人気が高かった。家に遊びに来る4才年下の妹の沙弓の友人複数より色気のたっぷりこもった熱い視線を受けることもあったし、会社の女子社員からの人気も非常に高かった。

 女にもてるだけでなく、仕事もなかなかにできる学は、男からは嫉妬を受けることもあった、というより今も会社で毎日そのジリジリとした強い嫉妬のこもった視線を特に同期入社の男から感じてもいた。だが、学は何も気づいていないふりをし、涼しい顔で毎日の仕事をこなしていた。特にこの夏は、今の会社での頂点を目指せるチャンス(八窪卓蔵の後継者、すなわち彼の本妻の娘の夫)が巡ってきたため、それを逃す気はさらさらなかった。

 人間は自分以外の誰かになることなどはできやしない。だが、その自分という無二の存在が外見・能力ともに人並み以上に優れている者であったのなら、一度きりの人生で人並み以上の成功や幸福を、自分の努力で掴めるはずだと彼は考えていたのだから。


 車は盛大なアクセル音をふかし、道路を滑るように走っていく。

 学の脳裏には、悲惨な事故や殺人事件で死んだ人たちのニュースや新聞記事がチラチラと現れては消えていっていた。

――運転に集中しろって! 俺は死なない! この俺がこんなところで死ぬはずなんてないんだ!

 学は低く呻いた。

 その学の呻きに、後部座席の由真と真理恵が顔を上げた。その時、真理恵がハッとした。

「サイレンが聞こえるわ……」

 由真と学も、耳を澄ました。車の走行音に少しかき消されつつあったが、遠くよりこちらに向かって走ってくるに違いない、おそらく救急車のサイレンであろう音が間違いなく2人の耳にも聞こえてきた。

「きっと、先に逃げた人達が通報してくれたんだわ……」

 真理恵のその声に、由真も歓喜の声をあげた。学もホッとしたように、運転席で息をついた。


 けれでも、彼女たちは知るはずもなかった。今、聞こえるサイレンは、自分たちに対しての助けなどでは決してなく、『殺戮者』に襲撃され崖下へと落下した新田野夫妻の車の”事故”の通報があったため、その現場に駆け付けようとしている救急車のものであることを。学がこのまま車を2キロも走らせれば、ガードレール側に頭部がつぶれたまま横たわっている鈴木梨緒の死体があることを。そして、あの『殺戮者』が、由真たち自身も理解している本当の狙いをこれから実行しようと、この道路に続く暗闇の中で舌なめずりをして、待ち構えていることも――


 由真と真理恵は深く抱き合った。

――助かるんだ、私たち……

 自分たちの命はどうやらつながったらしい。けれども、自分たちの目の前であの『殺戮者』に惨たらしく殺された深田季実子と根室ルイ、腕を切断されおそらく殺されているであろう吹石隆平、ペンション外に首と胴体を切断されていた多賀准一、そして行方知れずのままの笹山之浩……由真も真理恵も彼らの犠牲、その恐怖と死へ至るまでの苦しみを思うと、また涙が目よりせりあがってきていた。

「……隆平」

 真理恵が呟いた。由真は何も言わずに、ただ真理恵の体に回しているその腕に込める力を強くした。

――姉さん……

 由真がそっと目を閉じたその時だった。


 異常な振動が走った。車が右へと大きく傾き、ガードレールにガガガガ、とその車体を擦りつけた。

「何だ!?」

 学が慌てて、ハンドルを切ると、車体は対向車線へと大きく飛び出す。右へと左へと定まらず、まるで車が生き物のようにくねり始めた。

 それは車のパンクであった。だが、その原因を作ったのは、先回りした『殺戮者』が道路に、天へ向かって尖っている石を置いていたためであったのだが、由真たちはそれを知るはずもなかった。

 学は急ブレーキはかけずに、エンジンブレーキで速度を落としにかかった。


 止まった車の運転席でハンドルを握りしめている学も、後部座席で身を寄せ合っている由真と真理恵にも分かっていた。これから自分たちの身に何が起ころうとしているのかを――

 ぽっかりと口をあけている「死」という深淵より這い上がるまで、あとほんの少しであった。なのに、再び深淵へと突き落された。その深淵は自分たちは今までいた深淵よりも、さらに深いものである。そして、その底から伸びてくる青く細長い手につかまってしまい、もう二度と光を見ることはできないのだ――

 誰もが無言となり、荒い息遣いだけが響くこの車内に聞こえてくるサイレンの音だけが次第に大きくなっていてきているようであった。

「外に出よう…」

「で、でも外に出たら……」

「車に乗っていても、このまま”あいつ”に殺されるだけだ!」

 学と真理恵のこのやり取りを聞いた由真は、真理恵の手を握って言った。

「……姉さん、外に出て逃げよう。もうすぐ近くに警察だって来ているかもしれない。安全な場所まで走って逃げよう!」

 だが、その安全な場所に辿り着くまでどれくらい時間がかかるのか、そして、その安全な場所に必ず自分たちがたどりつけるという保証などもなかった。でも、これ以上ここにいても、ただ黙って死を待つだけだと由真も学と同じく思った。

 学が運転席のドアに手をかけ、左右を確認した。

「右から出るんだ。 1,2,3で飛び出すぞ……」

 だが、その時だった。

「待って!」

 由真の声に学が動きを止めた。由真は極限まで真っ白になった顔のまま、黙って震える人差し指を上へと向けた。この車の上からおかしな音が聞こえる、それに彼女は気づいたのだ。

 自分たちの車の上から聞こえる、ガサガサという音。今わずかに外に吹いているであろう生温かな風が立てる音では決してなかった。”誰か”が故意にその存在をアピールせんがために、自分たちの頭上の木を揺らしている音。

――上にいるんだ! あいつは上に!!

 

 頭上の音はピタリと止んだ。

 そして――


 ひらりと身を翻し『殺戮者』は由真たちの眼前の道路へと着地した。『殺戮者』の重みできしんでいた、幾本もの木の枝もバラバラと地面に散らばるように落下した。

夜空に煌々と輝く曇りなき満月がより鮮やかに、自分たちの前に立ちはだかる残酷で醜悪な『殺戮者』を照らし出していく。

 『殺戮者』はなぜ、根室ルイを殺害した後、すぐ自分たちが近くにいたにも関わらず襲い掛かってこなかったのか? 

 それは1人ずつ嬲り殺しにするため――それが『殺戮者』の狙いであったのだ。


 車の中でこれから起こる殺戮に震えあがり悲鳴をあげ続ける由真たちを見た『殺戮者』は舌なめずりをした。赤く長い舌が、裂けてめくれ上がり粘ついた涎を垂らすその唇をねっとりと舐めまわした。


――アンタミタイナニンゲンハ、バツヲウケルベキナンダヨ、ソウジャナキャ、フコウヘイダ、イイトコドリバッカリシヤガッテ――


『殺戮者』の爛々と輝く黄色い目から発せられた視線は、まっすぐに車の中の獲物を射抜いた。

 そして、裂けた口の端をさらに耳へと近づけて、『殺戮者』は無慈悲な笑みを浮かべた。

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