最終章 ~ここは安全地帯~

第1話

「行ってくるね、姉さん」

 8月4日の朝、由真はいつものように真理恵の霊前に手を合わせた。遺影の中の真理恵も”変わることのない”そのやわらかな笑顔を由真に見せていた。

 由真はやはり感じる。

 姉さんの魂はここにはないような気がする、あの姉さんが最期を迎えた場所に、今は茶色い土の上に観音像が建てられているあの場所にある、と。

 突然に、6年前の今日の夜、真理恵があの化け物に下腹部を貫かれ、その姿を月と車のライトが照らしていた、あの残虐なな光景がフラッシュバックした。急激に吐き気が込み上げてきた由真はその口を押さえる。彼女の脳裏には、土の上に倒れ伏した魂の抜け殻となったあの真理恵の顔が再生され、まるで螺旋を描くようにグルグルと回り始め……


 隣の助手席に従弟の直久を乗せ、コンビニに寄った後、レストランへ車を走らせている由真であったが、彼女の手は震え、妙に汗ばんでいた。背筋にも何か冷たい氷を流し込まれているのように感じていた。

 この車に照りつけているのは、瞳を潰すほどの勢いを持つ夏の日差しであり、目の前に広がっているのは真っ青なすがすがしい夏空であるのに。

 ざわつく心と吐き気を伴う気持ち悪さ。生々しい恐怖が全身を蝕み、体を冷やしていっている、と由真は思った。今日が単に姉の命日だからという理由でない。6年前にも感じていた、あの正体の分からない恐怖。

――今の私は、嵐の前の静けさの中にいるみたい。これから、何かが起こる気がする。でも、その何かが何であるのかなんて分からない。そう、あの日と同じように。

 目の前の信号が青に変わったにも関わらず、由真はただ前を見ていた。助手席の直久からの「由真さん」という声と、後続車からのクラクションが同時に由真の意識は現実へと引き戻された。

「あの……由真さん、体調は大丈夫ですか?」

 直久の心配そうな声。由真は彼にこんな声を出させてはいけないと思い、「平気よ。ちょっと仕事のこと考えてただけよ」と精一杯明るい声で答えた。

「そうですか……」と言葉を返した直久にも、きっと由真の空元気は伝わったのだろう。車内には再び沈黙が訪れてしまった。

「そうだ、直久くん。今日のお手伝いも6時まででいいからね」

 由真は思い出したかのように、直久に声をかける。

「……でも、お客さんがたくさん来たら……」

「中学生をそんな夜遅くまで働かせられないわよ。ただし私は家まで送ることはできないから、昨日と同じくバスで帰ってね。そして、家に帰ったら戸締りはきちんとして、早くお風呂に入って寝ること」

「由真さん、俺は男だし、小さな子供じゃないから、それくらい大丈夫ですよ」

 直久はくすぐったそうに笑った。由真は直久のまるで少女のような横顔に一瞬だけ視線をやった。彼の中学校の夏休みの課題であるらしい、自主的な職業体験の一環としてのレストランの手伝いはわずか3日間だけであった。だが、由真は直久の働きぶりに対して、きちんと彼をねぎらい、自分のお金からアルバイト代を渡そうと考えていた。

 今の直久との会話により、由真の中に渦巻いていたあの生々しい恐怖はわずかに和らいだ気がしないでもなかった。けれども、由真の瞳に映るますます青さを増していく爽やかな夏の空に、真理恵が、そして他の犠牲者たちが浮かんでは消えていっているように思えた。


 今日の「レストラン 笑窪」は、それほど忙しくならないだろうと、由真含む従業員たちは予測していたのだが、それに反し、今日の「レストラン 笑窪」への来客はいつもの数倍であった。

 昼過ぎからは、近隣の小学校で保護者の集まりがあったのか、何組もの母親たちが長話に花を咲かせ、また七海の通う国立大学の学生たちがおそらくサークルの集まりで賑やかに座席を埋め尽くしていった。厨房のシェフの不二男も仁郎も手を休めることなく動かし続け、直久もノルマに追われるがごとく皿を洗っては拭き、由真も七海もホール内を行っては戻りと動きまわっていた。だが、いつも機敏で無駄のない動きをしていた高藤永吾が体調不良であるらしく、目の焦点が定まっていないような彼の動きはいつもよりも鈍いものであった。

 今日は真理恵の命日ではある。だが、由真は真理恵の最期の場所へと花を供えて彼女に呼びかけることも、父が入院する病院へと行き、父の心に少しでも届くようにと話をする時間はとることはできなかった。そもそも、誰一人として昼休みなどとれるような状態ではなかったのだから。


 時計が5時過ぎを指したところ、ようやく客足は引いた。遅い昼食を夕食としてとっているに違いない、自由業っぽい服装の2人の男性客がいるのみであった。

 厨房で客から見えないようにしゃがみこみ、ペットボトルのイオン水を喉に流し込んでいる由真の隣では、七海がバナナのお菓子をシャクシャクと齧っていた。そこに永吾がトレイを持ったままやってきた。

「……店長、誠に申し訳ないのですが、本日は早退させていただいてもよろしいでしょうか? ちょっと、もうこれ以上は……」

 永吾の柔和な印象を与える一重瞼が伏し目がちにパタパタとはためいた。由真が見るに、永吾の顔色は尋常に悪いというわけではなかった。でも、彼は今日の就業開始前よりすごくどんよりとした濁ったオーラを発し、何か落ち着かないのか目の焦点が定まっていないような気がしていた。

「はい、分かりました。夜のホールの方は、私と富士野さんで何とかやっていきますから、家でゆっくりと休んでください」

「本当に申し訳ありません。これから、お客様が増えてくるかもしれないのに……」

「いいえ、体調をなおすことの方が大事ですから」と答えた由真の隣で、「そうですよ。無理しない方がいいですよ」と七海も言う。

 近くで皿洗いを続けていた直久が振り返り、「高藤さん、あのいろいろ教えていただいてありがとうございました」と泡のついたままの手を前に、彼に向かってピョコンと頭を下げた。

 その直久の姿に永吾は頬をほころばせ、「またね、直久くん」と彼にこのうえなく優しく微笑んだ。


 永吾が早退していから、10分後ぐらいのことであった。

 客席のテーブルを拭いていた由真は、来客を告げるドアの開閉音に顔を上げた。視線の先にあるそこより姿を見せたのは、宵川夫妻であった。

 すらりとした垢抜けた都会的な風貌の宵川斗紀夫は左脚を少し引きずりながら、傍らの妻とともに窓際の席に着いた。

 宵川斗紀夫が来た。

 このことにより、由真の体の中ではシグナルが点滅し始めた。

 あの男を、宵川斗紀夫を、信用するな、というシグナルが。何の根拠も理由もない、由真の本能に近い部分から発せられているこのシグナルは、今日は朝から感じていた得体のしれない恐怖に相乗するかのように、いつもより強く眩しい光で瞬き、由真に知らせているようであった。

「失礼します」

 由真は宵川夫妻の元へとお冷を運ぶ。

 斗紀夫は毎回同じく落ち着いた物腰で由真に軽く礼を言い、向かいの席に座る妻は「ありがとう」と甘やかな声で由真に微笑んだ。

 由真は宵川斗紀夫の妻・麻琴のそのノースリーブのワンピースが描く体のライン、すなわち果実のようにたわたに実った両の乳房や蜂のようなくびれをもった腰、究極の女の肉体の迫力にいつものように圧倒されてしまう。

 由真は彼らの注文を厨房に伝えに行く。そこでは、皿洗いを手伝っていた七海が直久に「あの窓際の男の人、すごく有名な作家さんなんだよ」と耳打ちし、目配せをしていた。

 由真も気づかれないように彼らをそっと見た。

 アンバランスだ。由真は彼らを見て思う。

 宵川斗紀夫は洗練されていて、美形と形容してもおかしくないし、実際「容姿のいい作家」のカテゴリーに入っているらしかった。そして、妻の麻琴は顔立ちが美しいというわけではないが、人に不快感を与えるような容姿ではない。むしろ、彼女のつややかに磨き抜かれた肌や髪、極上のスタイルは見る者にとっては強烈な魅力として映るだろう。アンバランスというのは、容姿のつり合いという訳ではない。2人一緒に座っているのに、離れたところから見ても分かる温度差、互いが相手に持つ愛情の偏りを感じ取れてしまう。

 現に今も彼らの会話の詳細までは聞き取れないが、妻の麻琴が笑顔で斗紀夫に話しかけているのに、頷いている斗紀夫の目の奥は笑ってはいなかった。そのことに気づかず、麻琴は嬉しそうにしゃべり続けている。愛情の偏りはどちらにあるのかは一目瞭然であった。

 麻琴が「お手洗いにいってくるわね」と席を立った。

 煙草に火をつけた斗紀夫はうんざりとしたように、白い息を吐き、灰皿でギュっと煙草を揉み消した。ふいに斗紀夫が由真へと視線を向ける。目が合ってしまったことに内心少し慌てててしまった由真であったが、斗紀夫は笑顔で「八窪さん、少しいいですか?」と由真に手招きをした。

 なるべく表情を変えないようにして、斗紀夫のテーブルへと向かう由真であったが、自分と彼の距離が縮まるにつれ、本能のシグナルが発する穏やかならぬ胸騒ぎはザワザワと急激なスピードで広がっていった。

――お客様に呼ばれたんだから、行かないわけにはいかない。でも……

 由真は斗紀夫から少し離れたところに立った。

 けれども斗紀夫は由真に対し、「ちょっと内緒の話が……」と、自分に耳を近づけさせるような動作をした。胸騒ぎよりも不快感が上回った由真であったが、仕方なしに腰をかがめて、耳を斗紀夫へと近づけたその時だった。


「あんた! 何やってんのよ!」

 麻琴であった。花柄のレースのハンカチで手を拭いていた麻琴は、仁王立ちのまま、頬を紅潮させ、由真を見ていた。いや、憎しみのこもった目で、由真を射抜いていたという方がより正確であろう。

 麻琴はツカツカと由真に駆け寄っていった。

「あんた、今、斗紀夫にキスをしようとしてたでしょ?!」

 いまや、レストランにいる全員の視線が由真・斗紀夫・麻琴の3人に集まっていた。あっけにとられている2人の男性客のみならず、七海はお皿を載せたトレイを持ったまま目をまんまるくして固まっていたし、厨房の仁郎・不二男・直久も何かただならぬ事態が起こり始めているのを感じ、こっちに首を伸ばしていた。

「やめないか。俺が少し聞きたいことがあったから、この人を呼んだだけだ」

 静まりかえったなか、斗紀夫の冷静な声が響く。

「嘘よ! この女と顔近づけていたでしょ! こっそりキスする気だったんでしょ! 最近、冷たいと思ったら、やっぱり浮気してたのね!」

 肩を震わせながら、斗紀夫にまくしたてた麻琴は、由真にキッと向き直る。

「あんたも何か言ったらどうなのよ! ちょっと若いからって何よ!」

 由真は目の前で烈火のごとく怒りだした麻琴に対し、「何? この人?」と異常さを感じたものの、極めて冷静に簡潔に受け答えをしようとつとめた。

「誤解です。お客様、落ち着いてください」

 そもそも不倫だとしたら、こんな場所でキスなんかするわけないじゃないですか、という、心の内の言葉は由真は口には出さなかったが。

 けれども、麻琴の怒りはおさまらないようである。彼女の全身から瞬く間に燃え上がった嫉妬という名の炎は勢いを増し、今にも由真を火にくべて燃やし尽くすかのようであった。

 離れた席に座っていたあのラフな格好の2人組の男性客の「あれ、宵川斗紀夫じゃん」「こっえ―嫁さん」と、嘲笑が含まれたヒソヒソ声が由真のところまで(ということはもちろん麻琴や斗紀夫の耳にも)聞こえてきた。

「落ち着けって、俺の立場も少しは考えてくれよ」

 斗紀夫は立ちあがって、麻琴の腕をパッととった。そして、彼女の耳元で「こんなみっともないところ、ツイッターにでも書かれたらどうすんだよ」と囁いた。

 頬を膨らませた麻琴は、斗紀夫の手をブンと振り払った。

「ねえ、この子でしょ?! あんたがよくメールのやり取りをしてる『舌無しコウモリ』って。やっぱり女だったのね! この子と寝たんでしょ! あんた、こんな小柄なスレンダーボディの方が好きだったの?! よくも斗紀夫を誘惑してくれたわね! この泥棒猫!!」

 「泥棒猫」という陳腐な台詞を放った麻琴の金切声に、先ほどヒソヒソと声を交わしていた男性客たちはブブッと吹き出し、「泥棒猫ってwww」と肩を震わせて笑いをこらえていた。

 顔面蒼白のまま固まっていた七海が由真を助けようと騒ぎの中心へと歩みを進めようとした時、厨房から出てきた仁郎が「俺が行くから」と彼女を手で制し、由真のところへ向かった。

「お客様、何かございましたでしょうか?」

 ひょろひょろとしているも、196cmもの長身である仁郎に上から見下ろされる形になった麻琴はわずかにたじろいだ。そして――

「何よ! みんなして、私のこと……もう知らないんだからっ!!!」

 先ほどよりも更に鋭い金切声で喚いた麻琴は、座席にある鞄をひっつかみ、外へと走っていった。

 レストラン内には嵐が過ぎ去った後の静寂が訪れた。ただ、その静寂は当事者たちにとっては不快感が沈殿しているモヤモヤとした静寂であった。

「妻が大変な失礼をいたしました。お詫び申し上げます」

 斗紀夫は、由真と仁郎に向かって懇切丁寧に頭を下げた。頭を下げている斗紀夫は吐いた溜息は、由真にも仁郎にも聞こえた。

「いえ、そんな……」

 由真が言い終わらないうちに、斗紀夫が顔を上げて言う。

「あいつ、なんていうか、思い込みが激しいところがあってて、エキセントリックで(そろそろ我慢の限界なんだよ、まったく)……本当に私のせいで不快な思いをさせて、申し訳ありませんでした。もうあいつは、ここには絶対に来させません」

 再び斗紀夫は由真に向かって頭を下げ、財布を掴み、麻琴の後を追うように片方の脚を引きずりながら、玄関へと向かっていった。

「由真、大丈夫か?」

 自分を上から覗き込む仁郎を、由真は仰ぎ見てコクリと頷いた。

「……うん。でも、一体、何だったんだが……訳が分からないわよ」

 自分が朝から感じていたこれから何かが起こるという妙な胸騒ぎは、今のこの一連の出来事に対してのものだったのか? と由真は思わないでもなかった。一組の夫婦の妻が夫に対して不倫の疑惑を抱いていた。それにたまたま全く無関係の自分が疑われ、つかみかからんばかりに罵られたということ。でも、あの宵川斗紀夫のメール相手らしい「舌無しコウモリ」という名に、不気味さを感じた。嵐は過ぎ去ったものの、胸騒ぎは消えるどころか、むしろ……

 七海が「店長……」と心配そうに自分に駆け寄ってきた。

 由真は仁郎に自分をかばってくれた礼を言い、仕事に戻った。先ほど吹きだしていた2人の男性客が興味深そうに由真(の体つき)を見ていたが、彼女と目が合うとパッとそらした。


 6時過ぎにもなると、やはりレストランの客足は増えてきた。テーブルを拭きながら、由真は外を見る。客席の窓から見える夏の空は赤く染まり始めていた。そう、それは6年前も同じだったのだろう。沈みゆく夕陽。それは由真のような体験をしていないものにとっては、美しい光景であるのだろう。だが、由真にとっては、その赤い色はまるであの夜に大量に流された「血」を思わせた。

 注文のメニューを運ぶために、由真は厨房へと向かった。そして、皿洗いをしていた直久に「直久くん、そろそろ」と手伝いの終わりを促した。

「短い間でしたけど、ありがとうございました」と、エプロンを外した直久は礼儀正しくピョコンと頭を下げた。

 彼の挨拶に、鍋を掴んだままの仁郎は「おう」と手を上げ、寡黙な不二男もニッコリと笑って頷いた。その姿をホールから見ていた七海も、直久に向かって笑顔で手を振った。



 ラストオーダーを過ぎた10時前には、客席はほぼ空席の状態であった。今日の昼間の繁盛が嘘のように感じられた。

 ”あの人”に渡さなきゃ、今日は遅くなっちゃったな、と、由真は冷蔵庫よりコンビニの袋を取り出す。

 こっそりと裏口へと向かう由真に、仁郎と不二男がチラリと目をやったのに彼女は気づかなかった。

 外に出た由真は、あの夜と同じ生温かい風に思わず身を震わせた。この風には血の匂いは含まれてはいない。でも、別の何かの匂いが……?

 由真はポケットのナイフに、そっと手を伸ばす。

 その時、後ろで「由真」と名前を呼ばれ、飛びあがらんばかりに驚いてしまった。

 そこにいたのは仁郎であった。煙草を口にくわえ、裏口に背をもたせかけるようにして、仁郎はまっすぐに自分を見ている。

 そして、満月に照らされていた由真の顔に、彼の細長い影が重なる距離まで仁郎は近づいてきた。

「なあ、お前、何コソコソしてんの?」

「いや、その……」

「よく弁当とかおにぎりとか買って、冷蔵庫に入れているけど、それお前が食べてるわけじゃないだろ」

 仁郎は由真の手の中のコンビニ袋に目をやる。レストランの窓からの明かりに照らされ、コンビニ袋からは男性用のデオドラントシートのパッケージが透けて見えていた。

「……人に渡すのよ」

「人って誰だよ? ……もしかして、最近このあたりをウロウロしているあのホームレスにか? あのホームレス、一体誰なんだよ? なんで、あいつにお前が弁当やデオドラントシートを買って渡す必要があるんだ?」

「それは……」

 言真は仁郎に対して、いつも笑顔で(悪く言えば能天気で)明るい印象しか持っていなかったが、意外に勘の鋭いところもあるんだと思わずにはいられなかった。

 ”あのホームレス”が姉・真理恵に関係している人物でなければ、彼に対して由真は適当にいいつくろい、この場を去ることができただろう。でも、それができずに、黙りこくってしまった由真に仁郎は言葉を続けた。

「あのさ、俺はお前を心配してるんだよ。お姉さんを殺した犯人だって、まだ捕まっちゃいないんだ。あまり得体のしれない変な奴なんかと関わりを持たない方が……」

「……違うのよ! あの人は……!」

 だって、あの人は――という言葉を由真は飲み込んだ。仁郎は単に由真が同情心から、食料などを買ってホームレスと”なってしまった”彼に与えていると思っているに違いない。

 雲から再び顔を出した月の光が仁郎の顔を照らし出した。それと同時に自分のこの狼狽しきった顔も月に照らされ、仁郎の瞳に映っているに違いないと由真は思った。

 だが、その時だった。

 なにか、呻くような音が聞こえたのだ。

 これは明らかに人間の呻き声だと、即座に耳を澄ませた由真も仁郎も分かった。顔を見合わせた彼女たちは恐る恐るその方向へと、足音を立てないように土の上を踏みしめていった。

 由真はポケットにナイフがあることと、6年前の夜は持ち歩いていなかったことに後悔しかなかった携帯があることを素早く手探りで確認する。煙草を揉み消した仁郎も、そっとポケットより携帯を取り出していた。

――一体、何が?

 その呻き声は、レストランの裏側にある草が生い茂っている地帯のさらに向こう側より聞こえているようであった。そこに近づくにつれ、夜の闇はさらに濃くなっていく。

 前に出ようとした由真を仁郎が背にかばうように立ちはだかった。振り返った仁郎は小声で「お前はここにいろ」と由真に囁いた。

 仁郎のその広い背中を不安げに見守ることしかできない由真であったが、一二歩踏み出した仁郎がハッと息を呑み、足を止めた。

「どうしたの?」と、由真は仁郎に駆け寄った。

「!!!」

 視界に映ったその光景に、由真も息を呑んだ。

「な、直久くん!?」

 由真が見たのは――ガムテープで目と口を塞がれ、手も後ろでグルグル巻きにされ、ズボンと下着はくるぶしまで下げられ、その真っ白な尻を剥き出しにされていた八窪直久の姿であった。


 客席の明かりを消した「レストラン 笑窪」のスタッフルーム。

 拘束されていたガムテープから解放され、タオルケットにくるまれた直久は、ソファーに横たわり、小動物のような悲鳴を小刻みにあげ続けていた。そして、いななくように体を震わせた後、ガクリと首を落とし、白い瞼を閉じた。

 由真や、直久を急いで担ぎスタッフルームへと運んだ仁郎だけでなく、直久の身に起こったことを知った従業員全員が真っ青になっていた。七海は腹を押さえるような仕草をし、青くなった頬をガクガクと震わせていたし、不二男は黙ったまま怒っているような表情で腕を組んでいた。

 男子中学生が性的暴行を受けた。被害者となった八窪直久は6時過ぎにここを出て、おそらくその直後ともいえる時間に何者かに襲われたのだろう、そしてそれから数時間後の現在まで、ずっとあそこに打ち捨てられていたのだと。

 由真は仁郎たちに向き直った。

「仁郎、私が直久くんを病院まで連れていくから、車まで彼を運んでもらえるかしら?」

「お、おう」

 仁郎がソファーにかがみ込み、直久へと手を伸ばした時――

「あのホームレスがやったんだわ! 絶対に!」

 七海が叫んだ。その七海の言葉に、仁郎も不二男も同調したようだった。不二男は「もしかしたら、そうかもしれないな」と呟き、仁郎は「あの男を警察に通報した方がいい」と携帯を手に取った。

「待って!」

 今度は由真が叫んだ。大きな声を出したのにも関わらず、ソファーに横たわる直久はピクリとも動かなかった。

「あの人は犯人じゃない! あの人はこんなことをする趣味は持ってないもの!」

「なんでかばうんだよ! あいつは一体、誰なんだよ!」

 仁郎も声を荒げた。だが、その時だった。

 スタッフルームの窓が、外からガンガンと叩かれた。

 そこに映っていたのは、黒いシルエットだった。そのシルエットは男のものであった。発達した筋肉に包まれた男の肉体の影が映し出されていた。

 七海が「きゃ……」と悲鳴をあげ、後ずさった。

 一瞬に緊迫した空気がこの場を満たす。

 不二男は鋭い眼差しを向け、わずかに身構えていた。慌てた由真が窓へと駆け寄るより早く、仁郎がダッとそこに駆け寄り勢いよく窓を開けた。

 仁郎の眼前ともいえる距離にいたのは、やはり”あのホームレス”であった。肩まで伸ばしっぱなしの黒い髪、長袖のトレーナーは煮しめたような色であった。

 精悍で男らしい顔立ち。日に焼け褐色となったその顔の目じりには、わずかに皺が刻まれかけていたが、おそらくまだ30代と思われるその男。

「お前だな! 逃がすか!」

 仁郎は男を捕らえようと、バッと右手を伸ばした。

 だが――仁郎は男のあるべきはずの左腕を掴むことはできなかった。なぜなら、その男には左腕がなかったのだから。

「お願い! やめて、仁郎!」

「誰なんだよ? こいつは一体……」

 仁郎が唇をわななかせ、自分に駆け寄った由真を見下ろした。由真は乾いた唾をのみ込み、彼に答える。

「……その人は姉さんの元旦那さんなのよ……」


 八窪真理恵の元夫・吹石隆平。

 道路にて『殺戮者』により左腕を切断され、崖下へと蹴飛ばされた彼もまた、由真と同じく一命をとりとめ生きていたのだ。

 あの6年前の8月4日の夜、「ぺんしょん えくぼ」に”いた”のは13名であった。そのなかで、生存したのは由真と肥後史彰、駒川汐里の3名である。だが、ペンションに”いた”13名に含まれてはいない生存者もいた。

 彼はあの8月4日の夕方、ペンションへと続く道路で『殺戮者』に襲われ、人体の一部を欠損する大怪我を負ったも、生き延びることのできた4番目の生存者、いや襲われた順番から言えば1番目の生存者であった。

 今の彼が放っているその眼光は、6年前よりもさらに鋭く、そして悲しみに満ち、まるで野生の獣を思わせた。

 あの日より6年たち34才となった吹石隆平は、今も亡き元妻・八窪真理恵を愛し続けていた。仕事も家も全て捨てて、愛する真理恵の仇をとるためだけに、息を潜め『殺戮者』がこの地に再び現れるのを待ち、主にY市のこの山間部を中心に練り歩き続けていたのだ。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る