第2話

 あの事件の日から今日でちょうど6年――

 由真だけでなく、真理恵の元夫・吹石隆平も、真理恵への愛と『殺戮者』への憎しみをその胸に抱き、生き続けていた。

 『殺戮者』に左腕を切断され崖下へと蹴飛ばされた隆平は、出血多量によりあと少しで死に至るところであったが、どうにか一命をとりとめることができた。

 長い昏睡状態から目を覚ました彼もまた、由真と同じく愛する真理恵の死を、それも惨たらしい死を警察より聞かされた。その時の彼があげた獣の咆哮のような慟哭は、病室中に響き渡った。

 彼のあの日の最後の記憶は、沈みゆく血のような夕陽と青々とした山の緑を背景に、あの化け物『殺戮者』がペンションへと向かって駆けていく姿であった。『殺戮者』は隆平の左腕を切り落としただけではなく、真理恵ならびに他9名の命まで奪った。その9名の中には、あのいけすかない白鳥学も含まれていた。そして、事件が原因で、元義父の八窪卓蔵が脳出血を起こし寝たきりの状態となったことも知った。

 リハビリ中の隆平は、ないはずの左腕の感覚を長い間感じていた。永遠の愛を誓った結婚指輪を身につけている自分の左腕は、もうこの世にはいない真理恵の元にあるはずなのに。

 それからも月日は流れ、左腕の幻肢痛が和らいできた隆平が選んだことは、社会復帰などではなかった。”普通の”被害者なら事件現場になど、二度と戻りたくはないだろう。だが、隆平は違っていた。彼は、仕事も家も友人も、真理恵以外の何もかも、それこそ自分の人生すら捨て、あの『殺戮者』の息の根をこの手で止めることを選んだのだ。

――俺には、もう失うものもないし、守るべきものなんてない……

 わずかな貯金を切り崩しつつ、その日その日、必要な食料だけを腹に詰め込み、隆平はY市の山間部を中心にあの『殺戮者』を探して練り歩いた。人間よりも獣に近い生活に染まり始めていた隆平の第六感は、彼にこう告げていた。

――あの化け物は、絶対にこの地に戻ってくる……

 その第六感は何の根拠もないことであったのだが。

 夏の陽が日に日に強くなってきたある日の夕方、隆平はこの「レストラン 笑窪」の裏口から出てきた人物に、ついうっかり見つかってしまった。

「……義兄さん?」

 真理恵の異母姉妹・八窪由真であった。由真がこのレストランで働いていることは知っていたし、遠くからその姿を見かけたこともあった。隆平は真理恵の仇は自分1人でとるつもりだった。だから、由真の問いかけには何も答えずに、彼女に背を向けた。「待って! 義兄さん!」と後ろから、自分を呼ぶ由真の声が聞こえたが、振り返ることはなかった。

 それから、数日後のことだった。再び「レストラン 笑窪」周辺を練り歩いていた隆平は、裏口に近い木の枝にコンビニ袋が吊り下げられていることに気づいた。その袋に、「義兄さんへ」と書かれた紙がセロテープで張り付けられていることも。

 隆平は、恐る恐るそのコンビニ袋を泥と垢で汚れた手で取った。中には、コンビニ弁当と飲物、そして手紙が入っていた。

「義兄さんへ

 事情は聞きません。

 でも、体は大切にしてください。

 姉さんもそれを望んでいるはずです。

 由真」

 その手紙には、こう書かれていた。隆平の瞳からは涙が盛り上がってきた。

 それから何度も同じ木の枝にコンビニ袋は吊るされていた。中身がコンビニ弁当の時もあったし、由真が自ら握ってくれたらしいおにぎりが保冷材と一緒に入っていた時もあった。そして、おそらく生前の真理恵に聞いていたに違いない、隆平が好きだったこのY市の銘菓である菓子が入っていたことも数回あった。

 真理恵が生きていた頃、隆平と由真は義理の肉親として、数回しか話をしたことはなかった。だが、彼女も隆平も『殺戮者』に襲われ、大切な者を殺され、自分だけは生き残ってしまった者である。母親は違うが真理恵と由真がどれだけ仲が良く、強い絆で結ばれていたかは隆平も知っていた。彼女も真理恵を失った悲しみとあの『殺戮者』への憎しみで、一日一日を地獄の業火に焼かれるがごとく、生きているのだろうということも……

 隆平には真理恵の仇をとることともに、もう1つやり遂げなければならないことができた。

 それは、あの『殺戮者』に、真理恵の大切な妹を二度と傷つけさせやしない、絶対に八窪由真を守るということであった。

 隆平は『殺戮者』を捜しつつ、「レストラン 笑窪」周辺を見回ることも行っていた。それは、レストランの従業員のなかで1人だけ、明らかに不審に感じる人物がいたのだ。その人物にとって、おそらく由真は対象外だとは思うが、危険を感じずにはいられなかったからだ。

 

 そして今、隆平の目の前にいるのは、細くてしなやかな体を震わせ、切れ長の大きな瞳に涙がにじんでいる八窪由真と、大木のように大きく、髪を脱色した若い男だった。その若い男――近衛仁郎は、由真から隆平が何者であるかを聞かされあっけにとられて、顔は様々なもので汚れ髭も髪も伸び放題となっている自分を見ていた。


「この男が、お姉さんの元旦那さんって……」

 仁郎は頬をひきつらせ、由真に向き直った。由真がいさめるように仁郎の腕をとった。

「そうよ。義兄さんは、こんな酷いことをするような人じゃないわ……早く、直久くんを病院に連れていこう。何よりも、まず彼を……」

 「直久」という言葉に、隆平の口元がハッと動いた。

「由真ちゃん! 直久くんって、従弟の直久くんのことなのか?」

 隆平の口からは、しっかりとした言葉が発せられた。その声の明瞭さに驚いたのか、七海がさらに後ずさった。隆平は窓から身を乗り出し、ソファーに寝かされている、まるで小学生のような体格の色白の少年の姿を見ようとした。

 隆平は直久の顔ははっきりとは覚えてはいなかった。だが、もう8年以上昔のことになるが自分たちの結婚式の親族席で、小学校低学年くらいの可愛い男の子が非常に行儀よく座っていたことだけは覚えていた。結婚式後に真理恵に聞いたところ、「お父さんの一番下の弟の一人息子の直久くんよ」と教えてもらったことも。

「どうしたんだ?! 直久くんに一体、何があったんだ!」

 声を荒げた隆平の前で、由真は口をつぐんだ。何かとても言えないようなことが彼に起こったんだと、隆平は理解した。由真の横にいた仁郎が、震わせるように息を吐きながら答えた。

「……変態に襲われたんだよ」

「おっ、襲われたって……?」

 仁郎がまっすぐに隆平を見おろすその目には、「おまえじゃないだろうな」という疑惑がまだ含まれているようであった。何も問われていないのに、隆平は首を横にブンブンと振り、仁郎を見上げる。

「……俺は見たんだよ。ここにあんたと同じ年ぐらいの男がもう1人働いているだろ。今日……そう、もう日がとっくに沈んでからだ。俺がここに戻ってきたちょうどその時、そいつが手の軍手を外しながら、レストランの裏道を人目を気にしながらコソコソと下っていくのを……」

 隆平の言葉に、この場の空気は一瞬で凍りついた。隆平以外の全員が息を絶句し、この冷たい空気のなか、息を呑むしかなかった。

 隆平が見たといっている若い男――それは、今日、体調不良で早退したはずの高藤永吾であるだろう。あの彼が、直久を襲い、性的暴行を加えた? 

 それは、由真たちがいつも知っている、真面目で温和な高藤永吾の姿からは、とても想像はできなかった。

「何の証拠もないようなこと言うんじゃねえよ!」

 仁郎は、永吾をかばおうと、隆平の”右腕”をガッと掴んだ。右腕を掴まれたまま隆平は、仁郎をそして由真を見て答えた。

「……確かに俺はそいつが直久くんを襲った現場は見てはいない。でも、あの男……町で近隣の小学生、それも男子小学生にだけ声をかけていたのを俺が見たのは一度や二度じゃないぞ。その時のあいつの目は、ただの子供好きにはとても見えやしなかった……」

 隆平が町で見かけた永吾は、女子小学生には目もくれず、男子小学生にだけ、お菓子やゲームなどをちらつかせながら、頬を緩ませしきりに話しかけていた。

 隆平は何度か永吾を見ていたが、永吾は隆平など目に入っておらず、まさか自分が見られているなど全く気付きもしなかったのだろう。

「そっ……そんなまさか、高藤さんが……」

 由真の声は震えていた。

 部屋の奥にいる七海の顔は、由真以上に真っ青になっていたし、腕を組んだままの不二男は一層苦々しく、苛立たし気な顔をしていた。

 再び静まり返ったなか、由真が絞り出す声が響いた。

「……とにかく、直久くんを一刻も早く、病院に連れていかなければ……そして、警察にも……仁郎、お願い」

 由真は仁郎を見上げ、直久を車まで運んでくれるようにと、目で彼に伝えた。仁郎は頬をこわばらせたまま、無言でコクリと頷いた。


 が、その時――

 一瞬にして、その場はパッと闇へと落ちた。

 停電だ。闇の中で、七海の「きゃああっ!」と言う悲鳴と、不二男の「落ち着きなさい!」という声が飛び交った。

 全く予期せぬ停電に、由真は自分が喉を鳴らすように出した悲鳴と、隣の仁郎も同様の声をあげたのが頭上から聞こえた。

 「誰かが外のブレーカーを落としたんだ!」と隆平が叫び、即座にレストランの裏へと駆けていった。

 隆平がいなくなった窓の向こうに見える少し離れたところにある近隣の民家の電気はあかあかとついている。つまりは、このペンションだけが闇へと落とされてしまっているのだ。

「義兄さん!!」

 由真は隆平を追うように真っ暗な中、スタッフルームの出口へと手探りながら走った。後ろから「由真!」と仁郎が自分を呼び、追いかけて来る音も聞こえた。

――誰かが故意にブレーカーを落としたのは間違いないわ! でも、誰が、何のために!!

 真っ暗闇の中、由真はけつまずきそうになりながらも、生温かい風が漂う外へと飛び出した。

 乾いた土の上の湿った草を踏みながら、由真は隆平がいるであろう場所へと向かう。後ろからは自分を追ってくる、おそらく仁郎のものだと思われる足音が聞こえてきた。

 外のブレーカーのすぐ下に隆平はいた。

「由真ちゃん!」と、隆平が振り返った。

 その時、近くの木の裏側よりガサガサと音がした。そこに何かが潜んでいる音が。

――野良犬? それとも、まさか……

 由真の体は冷や水を浴びせられたように凍りついた。それは、自分の目の前にいる隆平も、背後にいる仁郎も同じであるらしかった。誰一人として、言葉を出すことも、身じろぎすらもできなかった。


 そして……

 青々とした木の葉を揺らす音とともに、そこに潜んでいた者はゆっくりと姿を見せ始めた。

 夜空の煌々とした満月は、その者の醜悪で残酷な姿を、6年前のあの夜の生存者に見せつけるように照らし出していった。


 バサバサとした干し草のような髪に、青ざめたザラザラとした爬虫類のような皮膚、人間にしては規格外な程に細長い体躯、枯れ木のような手足にしなびた二つの乳房が垂れ下がり、その股間には黒々とした陰毛が生えていた。

 そいつは、ゆっくりとこっちに顔を向けた。

 黄色く爛々と輝く瞳。口は耳元に届くかというほどの亀裂であり、その裂け目からは黄色く長過ぎる乱杭歯が覗いている。尖りきった顎に臭気のこもる口から落ちる涎がつたっていた。


 そう、6年前のあの夜と全く同じあの『殺戮者』が今、自分の前に姿を見せたのだ!


 金縛りにあったように、由真は動けなかった。

 数日前に見た夢の中での、『戻ってきたのよ』という真理恵の言葉が響いてきた。

――戻ってきたんだ。姉さんや白鳥さん、そして多賀さんたちやお客さんたちを殺したあの化け物は戻ってきたんだ……またY市のこの地を血で染めるために……

 

 由真たちの目の前で、『殺戮者』は少しだけ身体を震わせた。

 金縛りが解け、思わず後ずさってしまった由真は、後ろにいた仁郎の胸へとぶつかった。仁郎の「……んだよ、あれ」という言葉。

 蘇ってきた命の危機という恐怖に、由真の脚は震え始めた。

 自分の両の瞳はその『殺戮者』の姿を、まるでスローモーションでとらえているようであった。

 けれでも、由真は唇をグッと結び、拳を握り直し、自身を奮い立たせた。そして、ポケットのナイフに手を触れる。

 それは、彼女と同じく愛する者を『殺戮者』に無惨に殺された隆平も同じであったらしい。彼もポケットにそっと手をやり、隠し持っていたバタフライナイフをグッと握りしめていたのだ。

 次の瞬間、隆平が『殺戮者』へ向かって「殺してやる!」と叫び、その隆平とほぼ同時に、由真も地を蹴り、『殺戮者』へと飛びかかっていった。

 由真のナイフが、隆平のナイフが、月夜の下で2つの鋭い光の反射を見せた。

――殺してやる! あんたは姉さんを殺した! 姉さんを――!!

 『殺戮者』への距離を縮める由真の脳裏には、真理恵のあの最期の顔が残酷に、そして鮮やかに蘇ってきた。


 由真も隆平も、『殺戮者』が自分たちに向かってくると思っていた。そして、あの夜のように、自分たちをいたぶり傷つけようとするのだと。

 だが、『殺戮者』は自分に対し殺意を剥き出した由真と隆平にビクッと飛びあがった。

 そして、信じられないことに、あの『殺戮者』は身を翻して、逃げていったのだ。

 青い皮膚につつまれた枯れ木のような女の肉体が、萎びた乳房を揺らし、固そうな尻を上下させながら、山の方へと向かって駆けていくのを、月の光はくっきりと照らし出していた。

「待ちやがれ!」

 隆平が吠えた。由真も隆平の後を追うがごとく走った。けれでも、山へと続く暗闇の中に、『殺戮者』の全身を包んでいる青の皮膚は溶けゆき、見えなくなっていった。

 『殺戮者』は逃げていった。その先にあるのは、真理恵が最期を迎えた場所だ。

 

「由真! 何なんだよ! あれ!」

 背後の仁郎が裏返った声で叫んだ。

「あいつよ! あいつが姉さんを殺したのよ!」

「化け物じゃねえか! 何なんだよ!? あれは! 本当に化け物なんていたのか!? あんな……」

 由真はパニックを起こしかけている仁郎を振り返った。新聞や週刊誌、ネット等でいくら”化け物の犯行”と書かれていても、仁郎も実際に自分の目で見るまでは信じていなかったのだろう。

 そして、由真は自分の後ろで息を切らすがごとく、激しい憎しみに燃えた息を吐き続けている隆平の存在を背中で感じていた。

「私たちはあいつを車で追いかけるわ! 姉さんの仇を打てるのは、今しかないのよ!」

「いや、由真ちゃん! 俺だけで行く! ここにいるんだ!」

「嫌です! 私も……」

 今、押し問答をしている時間などないと、由真と隆平は顔を見合わせ頷いた。6年間、あの『殺戮者』に与えられた恐怖と愛する者を奪われた悲しみは消えなかった。だが、あいつは今日、現れたのだ。6年間、恐怖や悲しみとほ同じく、全身に煮えたぎらせていた憎しみだってあるのだ。

「だから、お願い。仁郎、直久くんを病院まで……」

 由真が言い終わらないうちに「一体、どうなっているんだ?」と、スタッフルームに七海や直久といたはずの不二男が由真たちのいるところにまでやってきた。

 後ろに両手を組むような格好をしている不二男は、先ほどの直久のことといい、「何がなんだか、説明してくれよ」と言いたげな憮然とした表情をしていた。

「私たちは、姉さんを殺した犯人を追うんです! だから、仁郎と松前さんは、直久くんを病院に……」

 不二男のその表情に違和感を感じた由真であったが、先ほど仁郎に話したこととまったく同じことを、由真は繰り返した。

 仁郎と隆平のちょうど真ん中の位置に立っていた不二男であったが……

「そいつは困るな」

 不二男のその言葉を、誰もが疑問に思った瞬間だった。不二男の両手が上へと向かってバッと宙を切った。

 不二男の左手にはスタンガンが、右手には催涙スプレーが握られていた。スタンガンは仁郎の首筋を、催涙スプレーは隆平の両目をそれぞれ的確にとらえた。

「ぐあああっ!!!」

 仁郎も隆平も、呻き声を上げ、同時に地面へとドッと倒れ込んだ。そして、素早くスタンガンと催涙スプレーを地面に放り投げた不二男は、その鍛え抜かれた筋肉につつまれた腕を由真に向かってバッと伸ばしてきたのだ!

「!!!」

 由真が自分に掴みかかろうとしてくるその手から逃れようと身を翻すより先に、不二男の手は彼女の首根っこを素早く掴み、彼女のその白く華奢な首筋に手の甲で一撃を加えた。

――なぜ、松前さんが……こんな……

 意識が落ちゆく由真の傍らでは、仁郎と隆平がのたうち回っていた。

 「ゆ、由真……」と首を押さえながら、宙へ向かって手を伸ばす仁郎の目に映ったのは、意識を失った由真を不二男が抱え上げ、自分の車へと担ぎ込む姿であった。

 

 真っ暗なスタッフルームで、タオルケットに包まれた直久と取り残されていた七海は助けを求めて、震えていることしかできなかった。

――助けて、お父さん、お母さん……

 彼女が必死で助けを求めていたのは、このY市より遠方に住んでいる両親であった。

 でも、両親は自分の娘がこんな状況にいることなど知らない。助けになんて来れるわけがない、と七海は震える脚を立て直した時、外では車が走り去る音が聞こえた。

――誰の車? 一体、どうなっているの?

 外に出ていった由真も、由真を追いかけていった仁郎も、それと「ちょっと様子を見てくる」と言い残して出ていった不二男も、戻ってこない。ここには自分と、自分が良く知っていて信頼していた人物に性的暴行を受けた(かもしれない)中学生の男の子しかいない。

 七海は高藤永吾のことを考えた。

 後からホールスタッフのアルバイトに入った自分に、懇切丁寧に仕事を教えてくれた彼。でも……と、七海は思う。

 永吾は八窪直久には、自分に教えていた以上に丁寧にそれこそ手取り足取りといった勢いで仕事を教えていたことを。それに昨日の世間話、X市で起こった女子高生によるストーカー殺人の話で、被害者となってしまった男子高生の弟2人に対して非常に興味を抱いているようであったことも。

――中学生でも発育状態が小学生寄りの子もいれば、高校生寄りの子だっている。小さくて女の子のような直久くんはちょうど、高藤さん好みの小学生寄りの子であったのかもしれない。まさか、それで、あの優しい高藤さんがこんなことを……

 真っ暗闇のなか取り残されている恐怖。そのうえ、続いている生理痛により生臭い「性」がまとわりついてくる気持ち悪さで、シクシクと痛み続けている腹を押さえた七海が体を屈ませた時、ちょうど部屋の明かりがついた。

 七海はわずかに安堵した。だが、自分の眼前ともいえる距離で、直久は真っ白な顔で気を失っているままであった。

 その時――

「……ふ、富士野さん」

 首筋を押さえたまま、ヨロヨロと扉にもたれかかるようにして、仁郎がスタッフルームの入り口より、顔を見せた。彼の顔は苦痛で歪み、首筋を押さえ、苦し気に呼吸を整えているのだ。

「なっ……何があったんでですか?!」

「……ま、松前さんが由真を誘拐したんだ……っうっ……俺と”あの人”とで、由真を助けに行く……だからっ……富士野さんは警察を呼ぶんだ……直久くんのことも全部話して……警察が来るまで、絶対ここから出るな……!」

 七海に言い聞かせた仁郎は、首筋を押さえたままよろけながら、再び七海に背を向けた。

「近衛さん……」

 七海は即座にロッカーから自分の携帯を取り出した。

 110番にかけたが、彼女は一体自分が何を喋っているのか、分からなかった。

 自分のアルバイト先の同僚が男子中学生を暴行した(かもしれない)、そしてまた別の同僚が店長の八窪由真を誘拐した。

――何? 何が起こっているの? 私が今いる”ここ”は、本当に私が今まで暮らしていた現実の世界なの?

「早く、早く、助けに来てください!」

 七海は携帯を握りしめ、電話口に向かって懇願するしかなかった。涙がボロボロと溢れ、まるで小さな少女のようにしゃくりあげてしまう。彼女の眼前に横たわっている直久の姿も、涙で滲んでいった。

 富士野七海。彼女は、自分のぽっちゃり体型にコンプレックスを持っていたためか、恋愛には奥手であり、異性と付き合った経験もなく、もちろん今現在も処女であった。そして、両親にたっぷりと愛情をもらって育っていたためか、世の中には八窪由真の姉たちを殺したような悪人がいたとしても、少なくとも自分が出会った人達は皆善人であると信じていた。だが、今日というこの日、にこやかにずっと一緒に仕事をしていた自分の同僚が、人を傷つける犯罪を犯すような人間であったこと(それも2人も)に、自分の世界が足元からガラガラと崩れ落ちていくようであった。

 一層強く、そして鈍く痛み出した腹を押さえつつも、由真と仁郎たちの無事を祈る彼女には、パトカーのサイレンが「レストラン 笑窪」に近づき、また遠ざかっていくような、幻聴が響き渡っていた。



――なんだって、今日に限って、こう邪魔ばかり入るんだ―!

 斗紀夫は目の前の車のフロントガラスが震えるほどの大きな舌打ちをした。そして、はるか遠くにライトが見える松前不二男が八窪由真を乗せた車を追うために、アクセルを踏み込んだ。

「……ったく!」

 計画に様々な邪魔が入り、猛烈に苛立っていた。

 今日は8月4日。6年前、Y市のこの地帯で『殺戮者』による殺人事件が発生。今日は、八窪真理恵含む他9名の命日でもあった。日本各地にいる事件の遺族たちが、1年のうち他の364日以上に悲しみに包まれる日。

 そして、斗紀夫にとっては、今日は前々から練っていた計画を実行する日でもあった。遺族の1人である八窪由真に、彼女の抱えている悲しみに1つの決着が着く日として。

 だが、もうすでに2つも邪魔が入ってしまった。

 1つ目は妻の麻琴が今日、「レストラン 笑窪」で起こした騒ぎだ。1人で食事に行きたいと言ったのに、強引についてきて、あげくの果てに――

 由真に伝えたいことを伝えられずに家に戻るしかなかった斗紀夫であったが、自宅でも麻琴は見当違いのヒステリーを噴火させ続けた。そして、当の麻琴は今、泣き疲れて自宅のベッドで横になっている。

――お前なんか、一生眠ったままでいろ、馬鹿。

 そして、2つ目は「レストラン 笑窪」にて他に何か事件が起こったようであった。この計画の”協力者”の松前不二男からは詳しい話を聞く時間の余裕などはなかった。よって、彼が由真を強引に車に乗せて、あの八窪真理恵の最期の場所へ走るしかない事態となってしまった。自分は今、それを追いかけている。自分が計画を練った事件のヒロインである八窪由真の晴れ舞台を見逃す気つもりなんて、斗紀夫はさらさらなかった。

――でも……いつも、何か邪魔が入るんだよな。そうだ、あの時もそうだった。僕が矢追くん(いや、今は長倉くんに戻ってるんだっけ)を沼工場に連れていき、A子と一緒にさせてやる時だって、千郷と千奈津さんが思いもよらぬことを佐保ちゃんに対してしようとしていたもんな……

 左手をハンドルからそっと離した斗紀夫は、ジーンズごしに自分が谷辺千奈津に負わされた一生ものの傷の上を撫でた。

 今日は邪魔が2つも入ってしまったが、斗紀夫はこれから起こる自分の楽しみに、狂気し身を震わせていた。アクセルをさらに踏み込み、満月が照らすアスファルトの道路をまっすぐに車を滑らせていた斗紀夫であったが、進行先に見える路肩に横たわっている”者”を見て、彼はわが目を疑った。

 それは、斗紀夫の計画にとっての3つ目の邪魔、すなわち予期せぬことであった。

 道路の路肩に、まるで人目からかくされるように、黒い毛布にくるまれて真っ白な顔で横たわっていたのは――先ほど、松前不二男が車に乗せて連れていったはずの八窪由真であったのだから。

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