第3話

 斗紀夫の鼻をくすぐっているのは、由真の髪の甘い匂いである。彼女は今、車の運転席の斗紀夫の両膝の間で、彼の胸に背をもたせかけるようにして、気を失ったままだ。彼女の小柄な体は、斗紀夫の中にすっぽりとおさまっていた。

 カーブに差し掛かったため、ハンドルに注意し、斗紀夫は由真の髪に再び顔をうずめた。あの夜から6年……この小さくて細い体で最愛の姉を目の前で殺された、救えなかったという悲しみを背負ってきた八窪由真のことが、斗紀夫は愛しくてたまらなくなってきた。ただ、その「愛しさ」は世間一般で言われるような「愛しさ」とは、異なっていたが。

――俺が八窪由真を見落とすことなく道路で見つけたから良かったようなものの、

あのおっさんは一体何を考えているんだ?! せっかくの主演女優を舞台から放り出すような真似をするなんて……

 斗紀夫はつい、歯ぎしりしてしまった。奥歯が音を立てこすれあった。

 ほんの少し前、斗紀夫は道路の路肩で黒い毛布にくるまれた由真を発見した。当初、”協力者”である松前不二男との計画では、まずは彼女を八窪真理恵の最期の場所まで連れていく予定であった。たが、不二男は途中で車より気を失ったままの由真を毛布にくるんで路肩におろしていた。

――なぜだ?! 何を考えている?!

 自分の手の内で動くと思っていた駒が、思い通りに動かなかった。そう、この苛立ちは、6年前に我妻佐保を拉致した不良少年のうちの1人、櫓木正巳にも感じた苛立ちでもあった。だが、松前不二男は、今は亡き櫓木正巳のように友人に対する恐怖と彼なりの正義感から、斗紀夫の思い通りに動かなかったわけではないはずだ。あの単純な櫓木正巳よりも、遥かに扱いづらい男であるのは間違いない。

 自分の胸の中にいる由真が「ん……」とわずかにその身を動かした。もうすぐ彼女は目覚めるだろう、と斗紀夫がニタリと笑った。

――そう、もうすぐだ。もうすぐ、君のお姉さんの最期の場所に着く。6年前のあの夜、異形の者と化し君のお姉さんたちを殺した女――『舌無しコウモリ』はあの場所で君を待っているんだ……

 斗紀夫はバックミラーにチラリと目をやった。後方から走行音をあげながら、近づいてくる車に顔をしかめた。

――あの車には、おそらく吹石隆平が乗っているのだろう。俺も時々レストラン周辺で見かけていた世の全てを憎んでいるような瞳をしたあのホームレスがまさか八窪真理恵の元夫だったとは……八窪真理恵の存在が彼をああなるまで、狂わせたんだろうな。しかし、八窪真理恵はどれだけ魅力的な女だったんだろう。まさに、ファム・ファタールといっても過言でないほどの女だったのかもしれない。やっぱり死ぬ前に一度会ってみたかったな。

 斗紀夫はバッグミラー見て「おや?」と思った。

 遠目では良く見えないが、ハンドルを握っているのは、あの吹石隆平ではないらしかった。脱色した明るい髪の色で、白いシェフの制服を着て、大きな図体をかがませるようにして、ハンドルを握っている男。

――あいつは……あのレストランのシェフの独活の大木みたいな男か? なんであいつが? 八窪由真の彼氏なのか? どうでもいいけど、お呼びでないんだから邪魔はしないで欲しいな。世の中には男にしか興味の持てない男もいるけど、俺は女にしか興味は持てないんだ。それも何らかの事件の被害者となった女にしか。そして、その女が好みの容姿ならなおさら萌えてしまうけど……

 斗紀夫の胸の上で、意識のない由真がうだるように体を動かした。

――そろそろ目を覚ますか? 彼女があの『Y市連続殺人事件』のやり場のない怒りしか湧かない真実を知る時がいよいよやって来たんだ。


 不二男に強烈なスタンガンの一撃をくらった仁郎の首筋はまたビリリと痛み、頭の奥もクラクラとしていた。けれども、仁郎はしっかりと前を見据えるために、ハンドルを握り直す。同僚である不二男が由真を誘拐した真意については、検討がつかなかったし、普段の不二男の姿から考えてもこんな犯行に至るなど全く想像していなかった。それは高藤永吾についても同じであったが。

――松前さんは一体何を考えて……いや、何より一刻も早く由真を助けなければ……!


 後部座席では、吹石隆平が濡らした自分の服の切れ端を目に当てていた。不二男にくらった催涙スプレーは、まだ隆平の視界に支障をきたしていた。

――なぜ、無関係としか思えなかったあの男が、俺と前にいるデカい若い男にあんなことをして、由真ちゃんをさらったのかは分からない。前の男の身長では催涙スプレーが目に届かなかったから、俺に催涙スプレーで、前の男にはスタンガンだったんだろうな……

 レストラン外の蛇口の水で濡らした布は、隆平自身の体温でぬるくなってきたものの、彼の視界はまだ本調子には戻っていなかった。

――前の男は走りなれていないのか? 見ていてヒヤヒヤしちまう。俺に両腕が揃っていて、あのおっさんに目をやられていなければ、ハンドルをもぎ取りたいくらいだ。

 隆平は真理恵との交際期間中にも、よくドライブデートに出かけていたため、運転は得意であった。もう思い出の中でしか触れることのできない、助手席に座っていた愛しい真理恵の姿を彼は思い出す。

――俺が高校出たての女の誘惑に乗って浮気なんてしなければ、俺たちはきっと離婚することはなかったんだ……真理恵は俺にそっくりの男の子が欲しいと言っていた。けれども、俺はまだ数年あいつと2人だけの生活を楽しみたかった。あいつの望みをちゃんと聞いてやればよかった。そうしていたら、人生に一度しかない今日という日を、あいつと生まれていたはずの子供と一緒に迎えていたんだ。そして、今日というこの日はあいつの命日でもなんでもない。いつもと変わらない日常が続く幸せな日の1つであったはずなんだ。

 隆平は、そっと瞼を閉じた。そして、決意したように、その血走った目をカッと見開いた。

――でも時間を巻き戻すなんてできやしない。真理恵は死んだ。あの化け物に殺された。俺が残りの人生でしなければならないのは、真理恵の仇と由真ちゃんを守ることだけだ。

 車の進行方向には、隆平がどこかで見たことある車が走っていた。あの車はレストランの常連客の車だろうか? と、隆平は後部座席から身を乗り出すようにして、まだわずかに刺激が残っている両の瞳を凝らした。


 ついに、斗紀夫の胸にもたれかかっていた由真は目を開けた。

 背中に感じる人の体温に、由真は違和感を感じたようだった。そして、即座に振り返って自分を抱いている男の顔を確認し、小さく悲鳴をあげ、その腕の中から逃げようとした。

 ハンドルを握っていた斗紀夫の腕に由真が当たったため、車は対向車線へと大きくはみ出した。

「……なんなんですか?! 下ろしてください!」

「落ち着いて。こんなところで暴れると、仇も打てないまま、お姉さんのところに行きますよ。それに俺だって、道連れになるし」

 なんで、この人が? 確か私は松前さんに――と、由真は混乱する。

 それに「宵川斗紀夫を信用するな」という体の奥底から発されていたあのシグナルは、杞憂などではなかったのだ。由真の目に映っているのは、車のヘッドライトが照らし出す硬いアスファルトであった。何度もこの道に車を走らせていた由真は、これからこの車が真理恵が最期を迎えた場所に向かっていることが分かった。

「落ち着きました?」

 斗紀夫の言葉とともに、自分の髪に彼の吐く息がかかった。由真は何も答えず、うつむいて体を縮こまらせた。うつむいた由真の顔には、斗紀夫に対する恐怖よりも嫌悪が現れていた。それは自分の尻に斗紀夫の局部が当たっているためであった。

 斗紀夫もそれを分かっているのだろう。また、上から愉快そうな声が聞こえた。

「八窪さん。俺は今から、あなたをお姉さんを殺した犯人のところへ連れていこうと思っているんです」

「!!」

「レストランのブレーカーを落とす時は、ちゃんとあなたに分かるように『殺戮者』の姿になるように俺が指示したんですけど、今は人間の女性の姿に戻っていますよ。あの6年前の8月4日、彼女は抱えていた様々な事情が積み重なり、あの事件を起こしてしまったんです」

 ますます混乱する由真。それと同時に自身の尻に当たっている斗紀夫の怒張がますます硬さを増したようにも感じ、さらに体を縮こまらせた。だが、彼女はうつむいたまま、後ろの彼に声を張りあげた。

「どういうことですか?! ちゃんと説明してください! あんな化け物が普通の人間の女性だなんて! 普通の人間があんなに惨い殺し方を……」

 由真は真理恵のみならず、深田季実子、根室ルイ、白鳥学が惨殺されたその瞬間を、これ以上ないくらい鮮明に思い出した。

 だが、背後の斗紀夫の口からはクッと笑いが漏れた。

「何がおかしいんですか?!」

「いや、信じられないのも無理はないと思って。俺だって、あの化け物”たち”をこの目で見てなければ、とうてい信じることなどできなかったと思います。人間が化け物に変身して人を襲うなんて、小説の題材としたって、古今東西使い古されているし、俺はホラー作家だけどそんな話は、今時B級作品どころか、出来の悪いC級以下の作品にしかなりませんよ」

 斗紀夫はなおも得意満面と言った声の調子で続ける。

「あの事件の犯人……本名ではなく、彼女がネット上で使用しているハンドルネームの『舌無しコウモリ』と呼んでおきましょうか。彼女は俺のファンだったんですよ。時々手紙もくれてたんです。その彼女があの『殺戮者』となったいきさつなんですが……」

 宵川斗紀夫の気持ち悪さとこれから起こることへの恐怖で、由真は震え始めていたが、冷静さを失ったら彼の思うつぼだと、唇をギュっと噛んだ。苦みのある唾が乾いた喉へと落ちていった。

「『舌無しコウモリ』はある日、夢を見た……暗く閉塞した何もない部屋に、何者がいる夢。そいつが、男だったのか女だったのか、神であったのか悪魔だったのかは彼女自身も分からない。ただ、そいつが深淵から、自分を見ている血で赤く染まっているような目だけはしっかりと今も覚えている。そいつは自分に何かを渡そうとしてきた。最初『舌無しコウモリ』は、”それ”を受け取らなかった。何晩も続けてその夢を見続け、彼女は現実に置かれていたつらい境遇も加わり、ついに”それ”を受け取ってしまった……」

「……何を言ってるんですか? そんなおかしな夢と、姉さんたちが殺されたことに何の関係があるんですか?!」

 声を荒げた由真を、斗紀夫はまあまあと言った調子で後ろから諌めた。

「ちゃんと、最後まで話を聞いてくださいよ。八窪さん、今から7年前の4月にX市で起こった、女子高生が男子高生の家族を殺害した事件を覚えていますか?」

「……」

 黙りこんだ由真の返事を斗紀夫はしばし待つ。7年前の春、八窪由真は高校3年生であったはずだ。まさかその1年後に自分が悲惨な事件の被害者となり、また遺族となることなど、想像すらしていなかっただろう。犯罪や事件は、自分には遠いところにあると思い、あの長倉貴俊とA子の事件についても彼女は深く気にとめてはいなかったに違いない、と斗紀夫は予測をつけた。

「あの事件も夢の中で”それ”を受け取った者が起こしたんですよ。女子高生・A子は、同級生の男子高生に恋をし……というより執着していた。彼女もちょうど『舌無しコウモリ』”たち”も見たような夢について、ブログに書いてました。だが、彼女は『舌無しコウモリ』とは、少し違っていた。化け物に変化する前に、人間の姿で男子高生の家族を殺害し自殺した……そのはずだったんだけど、生者とも死者とも言えない中途半端な状態のまま、グロテスクなゾンビストーカーとしてこの世を彷徨うことになった」

「そんな話、信じられません! ふざけるのも、いい加減に……」

「おや、6年前のあの夜、人間とは思えない化け物に自分も殺されかけたっていうのに」

 バカにするように、クスリと笑った斗紀夫に由真はムッとする。

「あのA子が執着していた男子高生ですけど、滅多にいないほどの美形でした。この日本のみならず、アジアにだって通用するくらいの美少年でしたよ。でもね、殺された彼の母親の教育の賜物かもしれませんけど、彼の中身は真面目で品行方正過ぎて全く面白味のない子でしたよ。そして、彼は父とともにX市を去り、転校先でまたしても事件に巻き込まれる。その事件現場で、彼は自分の目の前に現れたA子に、自分の手で母親や弟たちの仇をとったそうで……俺もちょうどその時、取り込んでいたから、その場面を直接見ることはできなかったんですけど……そう、犯罪の被害者であり遺族である者が自分の手で、加害者に制裁を加えたんです」

「一体、何が言いたいんですか!?」

 声を荒げた由真に、斗紀夫は何も言わずに、ハンドルから左手だけを離し、自分の左太腿の傷の上をさすった。

「俺は……あなたにあの夜の殺戮者である『舌無しコウモリ』に復讐する機会を与えてあげるんです。あの夜以来、加害者である彼女も苦しみ、何度も自殺を考えた。でもできなかった。だから、自分を憎んでいるあなたの手で人生に終止符を打たれること、処刑されることを望んでいるんです……」

「苦しむ? あいつが苦しんでいる?! 苦しむ心があるなら、なぜあんなことをしたんですか?! 姉さんを……いいえ、姉さんだけじゃない……他の殺された白鳥さんたちは、もうこの世にいないのに! 涙を流すことすらできないのに!?」

 由真の鼻奥がツンとし、大粒の涙が彼女の頬をつたった。自分の腕の中で顔を覆って泣き出した由真を見た斗紀夫は、唇をゆがめた。

――なんだ、気が強そうな子だと思ってたけど……泣き出すなんて……

 斗紀夫は慰めるように由真の肩をポンと叩いた。途端、由真が弾かれるように、斗紀夫の手を振り払ったため、またしても車は対向車線を飛び越えた。

「お姉さんのところに着くまでは大人しくしていてください。もう触ったりはしませんから……実は俺も事件に巻き込まれたことがあるんです。ニュースでも報道されたからご存じかもしれませんけど、現役の高校教師が自分の妹とともに、生徒の身代金目的誘拐殺人を企てていた事件ですよ。あの事件で、俺の脚はこうして不自由になってしまった……でも、それ以外にもいろいろと前の自分とは変わってしまってましてね」

 斗紀夫は口から乾いた笑いを漏らした。

「代表的なものをあげるとすると、妻の麻琴ですよ。事件に遭わなかったら、絶対にあんな地雷女なんかと結婚することはなかったはずです。近寄ることすら避けたい女だったに違いないのに。なんであいつの押しに負けて、結婚なんてしてしまったのか……」

 斗紀夫の吐いた深いため息が、由真の髪へとまたしてもかかった。そして、彼がブツブツと呟いている言葉も由真の耳に入って来た。

「別に千郷と付き合っていながらでも、佐保ちゃんを見守ることだってできたのに。こうなってしまってから気づくなんて……男は大切なものは”完全に”なくしてからでないと分からないのかもしれないですね」

 由真は斗紀夫の腕の中で体を震わせた。今の斗紀夫の話の中に出てきた「チサト」や「サホちゃん」が誰であるのかは、全く分からなかった。

 けれども、背後の斗紀夫から発せられる狂気は、由真の全身から冷たい汗をブワッと吹きださせていた。由真は自分の震えを斗紀夫に知られたくはなかったが、彼にはきっと伝わっているのだろう。由真は必死で平常心を保とうと深呼吸したも、吐き気が込み上げてきた。由真が口を押えて、つい顔を上に上げてしまった時、バッグミラーに映っている、後続車のハンドルを握る仁郎の姿に気づいたのだ。


「このまま、前の車を追え。由真ちゃんは、松前って言うおっさんの車じゃなくて、あの車の中にいるような気がする」

 仁郎はなぜ、後部座席の吹石隆平がそう思ったのかは分からなかった。でも、自分よりも遥かに動物的な感が研ぎ澄まされてしまっているであろう隆平の言葉には妙に説得力があった。それを証明するかのように、前を走る車は二度も対向車線にはみ出すという不審な動きを見せた。

――やっぱり、後ろの奴の言う通り、由真はあの車の中にいるのかもしれない。松前さんではなくて、別の何者かに捕らえられて……車の中で由真が暴れたか何かで、あの車はおかしな動きを見せたんだ……由真は一体、どんな目に……!

 夜とはいえ真夏であるはずなのに、仁郎の手の内にあるハンドルは氷のように冷たく固いものに思えてきた。

「……あんた、名前なんて言うんだ?」

 後部座席から隆平の声。

「……近衛だよ。近衛仁郎」

「年はいくつだ?」

「……24だけど」

「由真ちゃんと同い年か……ひょっとして、元同級生だったりするのか?」

「あのなあ! 今はそんな世間話している場合じゃないだろ!」

 仁郎は前の車をじっと見据えたまま、苛立ちで声を荒げた。

「大切なことなんだ。お前は由真ちゃんとどんな関係なんだ?」

「どんなって? 普通の元同級生で同僚だよ」

「その普通の定義が、よく分からんが……少なくとも恋人ではないってことか?」

 確かに由真とは恋人同士ではない。だが、隆平の質問の意図が読み取れない仁郎は黙っていた。

 由真と初めて会った時のことは今でも仁郎ははっきりと思い出せる。けれども、小学校・中学校とずっと同じ学校で過ごしていた頃は、由真とたまに喋ることがあっても、クールで成績優秀で綺麗な顔立ちをした同級生としての印象しか抱いていなかった。

 由真とは別の高校に進んだ仁郎は、そこで初めての恋人と呼べる存在ができた。現在は恋人はいないが、24才となる現在までそれなりに女性経験だってあった。

 由真にはあの悲しい『Y市連続殺人事件』を経てから、再会した。けれども、今現在まで、隆平に伝えた通り、由真とは元同級生であり今は同僚としてだけの関係でしかなかった。

「なぜ俺がこんなことを聞いたかのかというと、あんたはあの事件には何の関わりもない。関係者だけで、あの化け物や誘拐犯と決着をつけるべきだ。俺はこれ以上、俺や由真ちゃんみたいにずっと業火で焼かれ続けているかのように苦しむ被害者なんて作りたくはないんだ……」

 仁郎は隆平の言葉に黙ったまま、唇を噛んだ。

「あの車が止まったら、俺を下ろして、あんたはすぐにこの車で逃げろ。巻き込まれるなんて嫌だろ。後は俺だけで決着をつけてみせ……」

「何言ってんだよ!」

 隆平が言い終わらないうちに、仁郎が大きな声を出した。

「巻き込まれるのが嫌なら、最初から車で追いかけたりなんかしねーよ! 通報して、あとは警察に任せとくだけだって! 事件に巻き込まれる怖さよりも、俺は由真を――放っておけないんだ! あいつを助けたいんだ! もう、二度とあいつが誰かに傷つけられるなんてこと、そんなことあってたまるか!!!」

 隠していた自分の心の内を思わず吐露してしまった仁郎は、息を整えるようにその広い肩を上下に揺らした。

「……そうだな。すまん」

 そして、隆平は彼の背中に向かって言う。

「でも、無茶はするな。いざという時は俺に任せておけ。あんたも、由真ちゃんも未来があるんだ」

「……本当に何言ってんだよ。あんたにだって、未来はあるだろ?」

 仁郎のその問いには隆平は答えず、何かを決意したように、ただ息を吐いただけであった。


 後続車の仁郎の姿に気づいた由真の心の中では2つの感情が入り乱れていた「助けて、仁郎」「逃げて、仁郎」と2つの感情が。

 こんなに気持ちの悪い宵川斗紀夫の腕の中から自分を救いだしてほしい。でもこの男、宵川斗紀夫は得体のしれない男だ。危険な男だ。そして、この先には自分を待っているであろう6年前のあの夜の化け物――『殺戮者』=『舌無しコウモリ』だっている。そのうえ、つい先ほど、同僚としての仮面を自ら剥ぎ取り、本性を見せた松前不二男こそ、何を考えているのか分からない。

――この男から助けてほしい。でも、巻き込まれた仁郎はどうなるの? 仁郎も姉さんたちのような目にあうかもしれない! そんなこと絶対にあってはならない!

 由真は思い出す。

 同じ学校でともに時を過ごしていた仁郎の姿を。飛びぬけて勉強やスポーツができるわけではなかったが、明るく人懐っこく誰にでも同じ態度で接している仁郎は、お調子者と軽口を叩かれながらも、皆から好かれていたことを。そのうえ、彼は警察に通報だけすればいいのに、ただの元同級生にすぎない自分を助けようとしてくれている。

「……あの、宵川さん」

 自分から口を開いた由真に、斗紀夫は少し驚いたようであった。

「なんですか? もしかして、後ろの車の彼のことですか?」

 心の中を見透かされていたことに、由真の背筋はゾクリとした。

「俺が彼を誘拐しているわけじゃありませんよ。彼は自分からこの車を追って、首を突っ込んできているだけですよ。安全地帯に留まるという選択をせずにね。彼を見逃すとか見逃さないとかじゃなくて、彼の自己責任ですよ」

「!!」

 由真は眼前にあるハンドルにバッと手を伸ばした。進路を妨害するために、仁郎をこれ以上の危険から遠ざけるために。

 車はまたしても、対向車線に大きくはみ出した。だが、由真は斗紀夫の左腕にガッチリと押さえつけられてしまった。

「いい加減にしてくださいよ! お姉さんの仇もとれないまま、死にたいんですか?」

 斗紀夫がついに声を荒げた。対向車に激突する危険はなかったが、彼がイラついているのは、これから自分の計画に支障、つまりは舞台の主演女優が舞台に立てなくなるのと、自分もそれが見れなくなる可能性があるからだ。

「……腕を離してください。私に触らないで……」

 由真のその声に、斗紀夫はクッとおかしそうに笑い、腕をそっと離した。そして、バッグミラーの中の近衛仁郎にチラリと目をやった。

「あの人って、もしかして八窪さんの彼氏ですか? あれだけ身長差があると、キスやセックスの時、大変でしょう?」

「そっちこそ、いい加減にしてください! 気持ちが悪い! それに、あの人はただの元同級生の同僚です!」

 由真が声を張りあげた。由真の背中から背後の斗紀夫に対し、さらなる恐怖と嫌悪が発せられた。

「ただの元同級生ねえ……そういや、あの『舌無しコウモリ』って、お姉さんの高校の元同級生だったんですよ」

「……何が言いたいんですか? まさか、姉さんがあの事件の原因だったってことですか?」

「たった一言で予測をつけるとは、なかなかですね。その通り。つまりあの『Y市連続殺人事件』の動機は、お姉さんの存在だったってこと。他の被害者たちは巻き添えくっただけです。あの夜にたまたま、お姉さんがいたペンションにいたがために。まあ、それも他の被害者の運命だったのかもしれませんけど」

 由真の胸が”さらに”嫌な音で痛いほどに脈打ち始めた。

「そんな……そんな……姉さんは人から恨みを買うような人じゃありません!」

 動揺し声を振り絞った由真に、斗紀夫は同じ声の調子で喋り続けた。

「同じ屋根の下で暮らしていた妹が見ていたお姉さんの姿と、同じ学校に通っていた『舌無しコウモリ』が見ていたお姉さんの姿は違うってことですよ」

「……まさか、姉さんがいじめでもしていたっていうんですか?! 姉さんはそんなことする人じゃありません! 姉さんは優しくて……」

 由真は言葉を詰まらせる。けれども、自分が知っている、そして自分が今も信じ続けている真理恵の姿に揺らぎはなかった。

「何もしなくっても、人を傷つけることだってあるんじゃありませんか?」

「何もしなくても? どういうことですか?」

 由真の問いに、斗紀夫はフッと鼻から息を吐いた。

「俺は話せるのはここまでです。後は、安全地帯から見守ることにしますよ。ちょうど目的地に着きましたし」

 斗紀夫の言う通り、真理恵の最期の場所が眼前に見えてきた。

 ちょうどスポットライトのように差し込んでいる満月の光が照らし出しているのは、凄艶なほどの美しい佇まいの観音像と、傍らに止められた松前不二男の車であった。そして、その車の影に、松前不二男でなく1人の”人間の”女が立っていた。

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